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日本の山車 日本の山車
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2014-07-01
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  表題の写真説明
 ボックスのタイトル : ◆谷口與鹿
 題名 : 谷口與鹿

j+m◆谷口與鹿 EGHP 20110227


谷口與鹿

◆雲橋社
松尾芭蕉の弟子で、蕉門十哲のひとりにあげられる加賀の俳人、野沢凡兆が元禄期に飛騨入りしようと、越中を経て高原川に添った飛騨東街道を、飛騨に向かった。
しかし、途中その道のあまりに険阻なのに、ついに断念し、

   鷲の巣の樟の枯れ枝に日は入りぬ

の句を書き付け引き返した。

飛騨では元禄から亨保にかけて森鴻鷁、西田遊魚、西部露江、野口午有らがでて
飛騨俳檀も隆盛となった。宝永五年(一七〇八)の十月、森鴻激により出版された「久羅井山」は飛騨で最初の俳書で、尾張の俳人である月空庵露川が序文を書いているが、鴻鷁の五十六歳のときで、当時、すでに尾張と俳偕の交流があった。
飛騨国分寺の境内に

仏とは涼しき風のおこりかな

の句碑が立っている。
その後加藤歩簫の雲橋社が興る。
この頃の人に奥村野秋という人がいた。野秋は加藤歩簫に師事し、雲橋社において吟詠したが、歩簫の死後も、その子の加藤李允に従った。
李允の「紙魚のやどり」によると、加藤李允は通名正次郎、天保九年(一八三八)、小三郎と改めた。名は清雄、父の死後は家学を伝えたが、俳偕はことに熱心だった。号を蘭亭李允という。雲橋社の第三世をついだ
天保十年(一八三九)親に孝養を尽くした善行により、官より表彰された。
嘉永二年(一八四九)四月二十五日死去した。
野秋は李允の死去により、皆より求められて、一時雲橋社を預かったが、
第四世に就任することは固辞した。
俳号を玄機という。
安政五年(一八五八)十一月三日六十二歳で死去した。


◆赤田臥牛
臥牛は、高山で代々醸造を業とする家に生まれた。父は新右衛門といい古川(現在飛騨市)杉崎の中村家より入り婿した人である。
母は祖父新助の娘であったが早く没した。法名を釈尼栄善という
父は布目氏より後妻を迎えた。
臥牛は幼いとき高山の勝久寺に預けられた。当時勝久寺は文衛門坂を途中より北に入ったところにあった。ここで住職の雪峰について論語と五経の句読を学び、長じて柚原三省、井戸東皐について学を修めた。学問としては荻生狙来の学風を好んだといわれる。
與鹿は臥牛の開いた学問所に入門した。

◆天保大厄
寛政十二年(一七九九)このとし高山では松田亮長、伊丹では岡田糠人、梶曲阜らが生まれた。
享和四年(一八〇四)文化元年と改まった。
この頃が高山の屋臺が華麗なものになっていく黎明期にあたる。
文政五年(一八二二)谷口與鹿は高山の本町に生まれた。
天保三年(一八三二)文化、文政と泰平の安逸にならされた人々を驚かせるおおきな事件が起こった。八月十七日の大火である。川原町の大坂屋佐兵衛より出た火は、中町、西町、を焼いて消えたが焼失家屋二百二十七軒という大災害であった。
ところが災難はこれだけで終わらず、同年十一月二日高山二ノ町中丁の福島屋五右衛門より出火、上一ノ町から上二ノ町、上三ノ町、片原町まで残らず焼き尽くした。焼失家屋は六百十七軒先の火事と合わせると八百四十軒あまりの家が焼け、被災者は三千五百人を越えたと言われる。
代官所役宅をはじめ、主要な地域の大部分を失った。この火事で上町の屋臺のほとんどが消失した。
津野滄州も、死後まさか自分の家が火元になろうとは、思いもよらなかったことだろう
旧暦の十一月は今の十二月にあたるが、四方真っ白になった山に囲まれれ、人々は寒さに震えた。明けて天保四年遅い冬の去るのを待ちわびて人々は復興に取りかかったが、槌音が響き始めても雪が舞い、みぞれが降り、作業は遅々として進まなかった。五月にはいるとほとんど毎日が雨で六月になっても霜がおり、作物が育たなかった。
夏も去り、九月になったが作物は稔らず、凶荒となり、米価は高騰した。
翌、天保五年飛騨は大飢饉になった。米の値段は前年高騰時よりさらに二割上がった。
この天保年間の飢饉は波状に続いた。天保七年八年は、先の四年を上回る惨状となった。人々は草の根、木の芽、木の皮を採食し、野山には青いものを見なかったとさえいわれる。
白川郷の惨状を伝える記録に、餓死者およそ三百余人、小白川ではそのころ百二十人の村が百四人餓死者を出してわずか十六人になったしまったとある。この飢えた人々が高山の町に流れこんだ。
やがてこの飢饉は飛騨のみにとどまらず、全国的なものであることが、伝えられた。
越前勝山、加賀の石川、能登などでは一揆が起こり、駿府、甲斐など幕府の直轄地でも打ち壊しがおこり、甲斐の郡内では貧農が武装蜂起して甲府城下に押し寄せた。
九月になると、この暴徒の一揆打ち壊しは全国的に広がり奥羽地方では十万人以上の餓死者を出したといわれる。これに追い討ちをかけるように疫病が流行した。

ところが、空き地の目立つ焼け跡に、奇妙な光景が見られるようになった。 徐々に屋臺の建造や大改修がはじまったのである。 自分たちの住む家もまだないのに、屋臺を作るとは?

 
◆飛騨市の金亀臺
飛騨市(旧古川町)二之町二丁、三丁の屋臺
安永五年金亀臺組に屋臺建造の「定」書きがある。このほか屋臺建造記録がよく保存されている。
金亀臺の建造は天保十二年。
谷口與三郎
谷口與鹿
飛騨の国大工惣領宗恭(宗儔)。
天保十二年辛年晩春
谷口宗恭は京都の豊岡殿より許されて「権守」を名乗る。
見送りの上桁に谷口與鹿の二体の黒人の彫刻ががある。
下段内側に幕がある。
金亀臺の飾り金具は京都で製作された
金鋪注文書
取調書
古河二番町二丁目三丁目組中
天保十二年辛年晩春
とある
 

◆貫名海屋
儒者として、書画家として名高く、ことにその書は江戸時代の三筆といわれ能書で知られる。
阿波徳島の人で、本名は吉井氏。画ははじめ藩の絵師、矢野典博に狩野派を習ったが後に南画に転じた。
書はおなじ徳島の西宣行について宗法を学んだが、成長するに従い自分が武士として不適なのを悟り僧となることとした。
叔父を頼って高野山に行き、そこで空海の古法帳を臨摸して書家としての腕を磨いた。
その後中井竹山の「懐徳書院」に入りのちには塾頭まで進んだ。
この懐徳書院は片山北海一派の「混沌社」とともに、当時大坂における二大学派の一つであった。
このころ伊丹郷町より懐徳書院に学ぶ人が多く、加勢屋七兵衛、紙屋七郎右衛門、岡田著斎らがあった。この懐徳書院の門人に岡田著斎があったことがのちの谷口與鹿の後半生に大きな関わりを持ってくる。岡田著斎は通称を鹿島屋利兵衛といい、岡田糠人の父である。酒蔵業を営むかたわら学び、懐徳書院では三ツ村崑山ともっとも親しかった。 著斎は中井履軒の薫陶を受け、その著述である「七経孟子逢原」三十冊を模写した物が今に伝わる。
與鹿はまたこれを借りて模写したのである。文政八年(一八二二)十月十五日に死去した。中井履軒は晩年幽人と号し、宗学を修めたが文化十四年(一八一七)八六歳で死去した。履軒は甥の蕉園(中井竹山の子)とともにしばしば伊丹に遊んだ。
 海屋は四国、中国から九州を歴遊したが、長崎では僧鉄翁らと交友があった。
その後東海道から中仙道を漫遊して江戸に出たが、天保八年(一八三七)に高山に入り翌九年(一八三八)までおよそ一年間滯在した。
 海屋の作品は飛騨地方に数多く残されているが、その多くは新装なった赤田誠修館に滞在した。
 海屋の滯在の足を長引かせたのは、本町一丁目に建造中の「琴高臺」であった。
 琴高臺は旧臺名を「布袋」といい、文化四年まで曳いた。そのあと改造されて、
琴高臺と名を変えた。命名は赤田牛だったが、じつは富山県の八尾に琴高臺があったことからそれ以上の屋臺を建造しようという意欲があった。
 天保九年(一八三八)春の山王祭りにめでたく竣工して曳かれたが、この年の屋臺曳順は記録によると、
番外 神樂臺
一  三番臾
二  太平樂
三  黄龍臺
四  五臺山
五  大國臺
六  龍神臺
七  殺生石
八  石橋臺
九  崑崗臺
十  琴高臺
十一 南車臺
十二 鳳凰臺
十三 黄鶴臺
十四 麒麟臺
宮本 青龍臺

 の十六臺総揃いで、高山の町は大火、大飢饉をわずか数年で立ち直り、
見事な復興をなしたのだった。 いまはこのうちの何臺かは失われ、この豪華な曳き揃えを見ることは出来ない。 琴高臺の臺名は、中国の「列仙伝」にある琴高仙人の名を取ったもので、琴高は趙の国の人であった、宗の康王に仕えていたが、河北から山西地方を二百年にわたって放浪し、ある日祭壇を設けて潔斎し「龍の子をとってくる」といって水に潜っていった。
皆は水辺で待ったが、果たして約束の日が来ると赤いおおきな鯉に乗って帰ってきた。皆は驚いたが、琴高はそのまま祀堂にすわったまま一ヶ月、ふたたび水に戻っていったという。布袋から琴高臺に改称されたのは、文化十二年(一八一五)のことで、二十四年を経た天保九年(一八三八)ようやく名実備わった優美な姿を現したのだった。
設計、彫刻、鯉の作品いずれも谷口與鹿。大幕は與鹿の下絵をもとに藤井孫兵衛が画き、新宮豊次郎が刺繍をした。
 與鹿の生家があった同じ組の屋臺で、このとき與鹿は十七歳であった。
 この屋臺の学術考証は、二代目誠修館二代目の赤田章斎、意匠、工匠技術は中川吉兵衛が指導した。
この年海屋は六十一歳であった。飛騨の匠の技に驚嘆し、京都に帰ってからもその強い印象を人に語った。
この海屋の来飛は、のち谷口與鹿の運命を決めることになる。


◆富田禮彦
富田禮彦(とみたいやひこ)は、文化八年(一八一一)二月二十九日に生まれた。閏だったので二十八日ともいう。明治十年(一八七七)五月三日、六七歳で死去。文政九年(一八二六)の正月、高山陣屋の地役人見習いとなり、時の郡代、芝與市右衛門に仕え、天保十三年(一八四二)十一月には郡代、豊田豊之進に地役人頭取に抜擢された、このとき三十二歳である。
以後代々の郡代に仕え、明晰で几帳面な性格は幕末から、明治維新に至る動乱期を冷静に見つめ、日々を記録した。これが「公私日次記」である。
明治維新後、新政府の高山県の判事に任じられたが、知事の梅村速水の政治に対する民衆の不満がつのり、ついに暴動となった「梅村騒動」の責任を負い自害をはかった。
幸い、きわどいところで発見され未遂となったが、この機に辞職を願い出た。
梅村の後任となって着任した、宮原積知事は、禮彦の才能を惜しみ、「斐太後風土記」の編集を命じたが、完成したのは死去四年前の、明治六年である。
禮彦は若いときより地方政治の中心にあったので、中央に学ぶことは出来なかったが、私淑した師や、交友の層はあつい。足代弘訓、加納諸平、伴林光平、佐々木弘綱、頼山陽、頼三樹三郎、頼又次郎、梁川星巖、藤井竹外、広瀬旭荘、広瀬青村、越前の橘曙覧は、禮彦が越前勝山の鉱山奉行職にあったとき出向いて再会している。穏やかで親しまれる人柄だったといわれる。

◆了徳寺鐘楼彫刻
栗原山了徳寺
浄土真宗大谷派
高山市(旧清見村)牧ヶ洞区字西一三八六番地

了徳寺では梵鐘を鋳造することになった。当時寺院の鐘の多くは職人が現地に出向いて鋳造するのが普通だった。遠方で鋳造した鐘を高山に運ぶには手段がなかったのである。仮にあっても莫大な費用がかかった。
鐘を鋳造することを「鐘鋳(かねいり」といい、相当前からお触書が立ち、善男善女はその日を楽しみに待ったものである。当日が来ると、紅白の幕で囲まれた鐘鋳場に一列に並んで、名号を唱えながら一文銭を投げ入れたが、この参詣者の列は延々と続くことであった。
無事鐘ができたときの住職や檀家の喜びはひとしおだった。
ときの了徳寺住職は、十四世了諦。
了諦は丹生川村坊方堤の浄願寺に生まれだったが、江戸へでて雲華院に学び、同院では高足として寮主までつとめた。郷里の浄願寺には当時まだ梵鐘がなかったので鋳造して納めたいと思い、当時江戸へでていた高山の田中半十郎(豪商、英積と号する)にはかり、吉原の遊女屋の主人や遊女の寄進により、神田の鋳物師である西村和泉政平によって小型ではあるが梵鐘が出来、寛政十一年浄元治の納められたのであった。
享和元年(一八〇一)了徳寺に養子に迎えられて了徳寺十四世となったが、この了徳寺にも梵鐘がなかったので、文化五年に梵鐘を鋳造することになったのである。住職の了覚をはじめ檀家一同の喜びは大きかった。
しかし、鐘は鋳造できたが、鐘楼建設にはなかなか資金が回らなかった。
鐘楼ができたのは、棟札によると、弘化三年五月二十五日から九月十九日にかけ、與鹿の兄宗恭によって完成している。彫刻は宗咸、宗咸(そうかん)は與鹿の号で彫刻を担当した。
文化五年から弘化三年九月まで四〇年あまり撞くことの出来なかった鐘が、ようやく鐘楼に納まったのである。

 
◆惠比壽臺の建造
惠比壽臺は上三ノ町上組の屋臺で、文化三年(一八〇六)まで芦刈の名で曳かれた。世阿弥作と言われるいわゆる直面ものに題をとった能の芦刈にちなむもので、からくりがあった
一時は芦売りまでに零落した日下左衛門が妻と再開しその後立身する。というもの。
京都の祇園祭にこの芦刈を題にした「芦刈山」がある。

文化四年(一八〇七)に花子と改称されたが、これも狂言に名をとったもので、歌舞伎で演じられる身代わり座禅をからくりで演じて見せるものだった。
人気のあるからくりだったが、わずか三年演じられただけで、文化六年には姿を消した
風俗を紊し好ましくないというお達しがあったからである。まだ見ていなかった人はたいへん残念がった。
文化七年には殺生石と改名された
これは後鳥羽院の頃洞御所にあらわれた、美女の玉藻の前はひとり院の寵愛を受けるが、じつはこれは金毛九尾をもつ狐が化けたもので、陰明師の阿倍清明に見破られ下野の石にされるというもの。
これを謡曲の殺生石にのせてからくりを演じるものであった。のちこのからくりは、人形とともに古川に譲られた。
山車(屋臺)の曳行記録はしばらく途切れるが、休臺の年もあるところを見ると、かなり傷みがすすんでいたのであろう、十一年後の文政四年(一八二一)に夷の名で曳かれたときにはすでにからくりは上演されなかった。弘化三年(一八四六)より、嘉永元年(一八四八)の三年におよぶ改造は、まったく新臺の建造であった。
通例として、それまですでに屋臺を保有していた屋臺組は、あたらしく建造する場合でもその誇りにかけて、新造とは言わない。大改造、大改修などという。
この屋臺の大改造は谷口與鹿が二十五歳から二十七歳にかけての大作である。
もうすでに與鹿の腕を知った人たちは何の疑いも持たなかった。
こんども、前以上の立派な屋臺を造ってくれるだろう。その期待は與鹿にとっては重かった。
一作ごとの評判が高ければつぎはより以上のものが求められた。
この惠比壽臺には何を造るか? 與鹿はその課題に悩んだ。しかもこの屋臺は造る前から夷臺と臺名が決まっていた。というのも、この屋臺組では高山の屋臺でも随一といわれる猩々緋の大幕を持っている。
近くでみるとさほどではないが、遠くから見るその美しさは比類がない。これに気をよくしている組みの人たちは、京都よりオランダ渡りといわれる秘蔵の織物を入手した。
このタペストリー加工して見送りに懸けたところ、たいへんな評判となった
異国情緒にあふれたもので、世人の目を驚かすのに充分であった。組の人たちは、この異国の婦人の見送りがあることを自慢にし、屋臺の名を夷臺と決めてあったのである。
しかし、旧屋臺と異人の見送りは、何かしっくりと馴染まなかった。
この点は組みの人たちも十分承知していて、こんどの屋臺ではこの見送りと屋臺とを調和させた屋臺に仕上げてもらいたい。しかも、再来年の春には曳けるように。
と念を押されていた。いくつもの条件が建造着手前に約束されていたのである。
與鹿は自ら築いた世評故に、呻吟することとなった。
来る日も来る日も、この空間処理に腐心した。
例によって酒に浸る日がおおくなった。半年は瞬く間に過ぎたが與鹿は全く仕事のかかろうとしない。こんなことで間に合うんだろうか?
組の人から不満の声が洩れはじめる。
大黒屋、栃尾屋、西瓜屋、洲岬などから大晦日の請求書が回ってくる。その金額を見て組みの人は驚いた。明けても全く仕事にかかろうとしない、酔いが醒めるとどこかにでかけていく。
與鹿は昨年新装なった赤田静修館にいた。
書庫にはおびただしい漢書が積まれていたが、そこには章齋の姿はなかった。このようなとき相談に乗ってくれた章齋はいない。
途方にくれる與鹿は、ついに一巻の書に出逢った。「山海経」である。
紐とくと、まことに難解な書であった。しかし與鹿は丹念に読み進んでいった。目が輝きを帯びてくる。「其の六」まで読み進んだところで、與鹿の手が止まった。
ついに求めるものと出逢ったのである。
「山海経 その六」の「海外南経の海外」のところに、

その西南隅より東南隅にいたるもの、とあり
長臂の国は、周尭国の東にあり、
魚を水中に捕らえ、両手にそれぞれ一匹を持つ
さらにその先、「其の七」には、
海外西経の海外その西南隅より東南隅に至るもの、
の項には、
窮山は軒轅国の北にあり、
その丘は四匹の蛇が絡み合う。
野には鸞鳥が歌い、鳳凰が舞う
民は鳳凰の卵を食い、
甘露を飲み、
欲しいものは思いのまま、
百獣はあい群れてすむ。
その北にいる人は、両手に卵を持って食い、
二羽の鳥が前にいて、彼の行くところをいつも導く。
龍魚は陵に住んでいる。
その様相は鯉のようで、
神仙はこれに乗って九野を行く。
白民の国はその北にあり、
身体は白く、髪を振り乱している。
乗黄という馬がいるが、
狐のようなさまで、背には角がある。
これに乗れば、寿命は二千年を得るという。
粛慎の国はさらにその北にある。
雄常という樹があり、
昔、中国の皇帝の代理が、この樹皮から布を作ったことがある。
長股の国は、雄常の樹の北にあり……

うむ、長股の国か……

長股の国は、雄常の樹の北にあり、
その国の人は股が長く、髪を振り乱している。

うむ……
長臂の国
長股の国
……
長臂の人
長股の人

與鹿はここでついに求めるものにであった。よし、これだ、これを彫ろう。
こうしてついに原案は決まった。しかし、この山海経は写本であったので画がなかった。赤田臥牛が彦根の龍草盧のところで書き写したものだった。しかし、いったいどんな風貌をした人なのだろうか、これがわからないことには手のつけようがなかった。臥牛と同行した人たちも他界している。與鹿はまたしてもはたと困った。

◆谷口與鹿 白山~樂臺
弘化四年
惠比壽臺の改修と併行して東山にある白山神社の神樂臺の建造が始まっていた。白山神社では初めての屋臺で、與鹿は彫刻を担当することになっている。惠比壽臺が完成すれば、すぐそちらに合流しなければならない。
そこへ、石橋臺改修の依頼が持ちこまれた。白山の神樂が竣工した後は、八幡の屋臺である下一ノ町上組の金鳳臺の修理にかかる予定である。本町下の應龍臺の受注が決まった後だった。しかも、施主は着工を急いでいた。
とても受注に応じられない。
弘化五年(一八四八)は、二月二十八日に改元され、宋書の「皇享多祐嘉楽永無式」
にあやかり嘉永と名付けられた

惠比壽臺は立派にでき上がった。

曳き綱に曳かれて、屋臺蔵を出る惠比壽臺を、一目見ようと人が群がったが見た人は一様に感嘆の声を放った。
黒塗りの見送り枠に収まった見送りは、左右に並び立つ長臂人、長股人によって一段と引き立った。この彫刻を見た子供が、思わずおおきな声で「てなが、あしなが」といったが、このよびかたが、この屋臺を親しみのあるものにし、すっかり馴染みふかいものになった。


◆谷口與鹿 應龍臺
 與鹿はひとりの男とすでに長いこと話しこんでいる。場所は與鹿の仕事場、そばにはほぼ仕上がった白山の彫刻がある。男の年の頃は五十歳くらい。父親と息子くらいのひらきがある。しかし二人の話し方は年の里を感じさせない親友のような口吻だった。すでに相当の酒が回っている。男の名前は松田亮長(まつだすけなが)。
與鹿はこの人が好きだった。美人のおかみさんがいる。「高山にすぎたものは、屋臺と亮長のかみさん」と評判である。どこで覚えてきたか悪餓鬼どもが、亮長の姿を見るとはやしたてる。
亮長は昼過ぎ、いつになく神妙な顔で與鹿の仕事場に現れた。話は、近く始まる應龍臺の建造に仲間として加えてもらえないか? というのである。
腕のいい彫刻師で、與鹿はいつもこの人にはおよばないと思っていた。いつかはこの人をしのぐような仕事がしたい。
亮長蓄財ということには全く無頓着な人で、宵越しの銭は持ったことがなかった。
なにがしかの銭が入ると行きつけの飲み屋にすっかり預けて、仕事があるまで毎日飲んでいた。まとまった金がはいると旅に出る。
したがって、近頃とみに有名になった與鹿に対しても、まったく妬みというものがない。「まったく不徳の至りよ」
亮長はぽつりと言った。
日頃の不行跡がたたって、日々を糊塗する借財が積もりつもって三両あまり。
貸した松田屋はもう猶予ならん、元利五両一分二朱をいますぐ支払えといってきかん。
しかしこのような大金、全く金策が立たない。
「わしも、彫刻を仕事にしておりながら、屋臺の仕事は手をつけたことがない。
しかも、こんどは同じ町内の屋臺じゃ、いくら何でも肩身が狭い」。亮長の話とはこのようなものだった。
さっそく兄に伝えたところ、「願ってもないことじゃ、本来亮長さんの仕事じゃろ」
ここに金鳳臺組よりいただいた手付け金がある。このうちから少し渡したらどうかな
「まあ、よろしゅう頼みますわいな」
亮長は何度も頭を下げながら帰っていった。

高山下一之町下組の金鳳臺は文政元年(一八一九)吉野屋が全額寄付してで来た屋臺である。形のよく整った優雅な趣のある屋臺で、建造後三十年ほどたってはいるが、まだ手を入れる必要は全くない。
屋臺は歌舞伎と同じように、日が変われば出し物が変わる。いつまでも同じ屋臺が曳かれることはない。今年見落とせば来年は見られないかもしれない。来年屋臺を曳くお許しが出るかどうかわからない。一回の曳行が屋臺のすべてである。
記録などは必要ない。これが「粋」というもの。来年は来年の屋臺を造る。いつまでも同じ姿をさらすことはしない。
屋臺建造にかける高山町民の心意気であった。どのようにりっぱであっても未練はない。「高山の屋臺」は、まさに「粋の文化」である。
この屋臺建造費のほとんどを提供した吉野屋だが、さすがに渋い顔をした。
「金子お入り用の節はお指し図のまま」といっておいた與鹿から無心されたのである。
その金子入用の理由が、亮長の借財の肩代わりだった。

嘉永三年應龍臺は立派にできあがった。上山の機関樋のうえでは華萼桜戯のからくりが演じられている。おおきな拍手が鳴り響いた。亮長は仕事部屋をかたづけ余材を運んでいるとき鴨居のうえに見慣れぬものがはみだしているのを見つけた。
黒い漆塗りの硯箱で、蓋を取るとなかには袱紗の包みがはいっている。
おもわず大声で女房に声をかけた。
泣き伏している女房のよのを宥めなだめて聞きだした話は亮長を激怒させた。松田屋の借金取り立ての催促は仮借無かったが、それは下心ゆえであった。
よのは金子の返済に行ったのだが、金では受け取れないといって、ついに自分の思いを遂げたというのである。本町を駆け抜けると、陣屋の門は閉まろうとしていた。そこでちょうど脇門から出てきた役人の富田禮彦とばったりあった。禮彦は同じ町内の人である。
いつもの柔和な目が笑っている。「亮長、このたびは上首尾だったな」。應龍臺のことを言っている。
「そんな話じゃないんで」。
「何かな」。
じつは、面目ねえんですが」一部始終を聞いた禮彦は亮長にいった。
「堪忍してやれ」
「は?」
「女房のことは忘れてやれ」。
「は?」。
禮彦は厳しい目つきになって亮長を見た。
「うむ、この話を役所で聞くと、松田屋だけの詮議ではすまなくなるぞ」。
亮長は、はっとしたように顔を上げた。
「ごもっともで、いや、いかにもごもっともで」
禮彦に礼を言うと、亮長はしょげながら帰っていった。

禮彦は自宅に帰ると、その夜の日事記に「亮長、棹代五両」と書いた。

この話しがどこから洩れたものかわからない。
いつもの悪餓鬼どもが、亮長を見るとはやし立てる。
「やーい、棹代五両」
いつになく亮長は虫の居所が悪かった、逃げる悪餓鬼を追かけおもいっきり殴りつけた。「このくそガキが、思い知ったか」
「かんにん」
「どこのガキだ」
「かんにん」
「なまえをいえ」
「…………」
「太い野郎じゃ」
「大人をからかいおって」
「ゆるさんぞ」
「ちゃんと名前をいえ」
「てつ、……鉄太郎」
「うちはどこじゃ」
「このさき」
「これこれ、大の大人がそこ何をしている」
「小野様のご子息だぞ」
「……え?」
亮長は青くなった。小野様はひだ郡代小野朝右衛門である。
「えらいことになった、こりゃお手討ちじゃ」。
「とにかくお詫びに」。
そこへちょうど朝右衛門の奥方、磯が通りかかった。
「あ、いそさまじゃ、奥方さまじゃ」
「…………」
「鉄太郎、お前がいけません」。磯は鉄太郎をたしなめると帰って言った。
小野朝右衛門はこの磯に頭が上がらない。

この鉄太郎、評判の悪餓鬼で、こんな話がある。
或る日鉄太郎は高山の東山にある「宗猷寺」に代官所の役人を連れてきて、鐘楼にはしごをかけ、なにやらしようとしている。
和尚がでてきて「これ、そこでなにをしている」。
鉄太郎大きな声で「約束の鐘をもらいにきたぞ」。
和尚は「ばかもん。お前にやるといったのは、音だけじゃ」。
聞いた鉄太郎はすっかりしょげてしまった。
この悪餓鬼、のちの山岡鉄舟である。

春の山王祭りも無事すんで、亮長は面目をほどこした。


◆與鹿上洛
 嘉永三年(一八五〇)谷口與鹿は京都の海屋を訪ねた。海屋はすでに七十三歳であった。海屋は七十代までは、京都の衣棚下立売の塾で授業をしていたが、七十一歳を迎えてからは、聖護院東丸太町に隠居した。それからは菜を摘む翁、菘翁と名乗るようになった。海屋はその後八十歳を迎えてからは下賀茂に移り、蓼倉文庫を建て、そこで余生を下賀茂神社に奉仕し、八十六歳で京都で死去した。墓は高臺寺の松林院にある。

久し振りの再会であった。子供のない海屋は與鹿の上洛を喜び、しばらくとどめたあと、伊丹へ立つ與鹿を見送った。

◆いとうみ
 丹波街道の古い民謡に天王大坂七巡りというのがある。

身過ぎなりゃこそ一夜おき
越すは丹波のお蔵米
九里に九つ峠を越えて
いこか池田の大和屋へ

丹波から能勢、多田、を経て池田、伊丹へと醸造米がはこばれ、丹波杜氏が
往来した。

曲折と峠の多い山道である。
井原西鶴の「織留」に津の国のかくれ里として、伊丹郷町の繁栄ぶりが記されている。
「摂津名所図絵」には、名産伊丹酒、酒匠の家六十余戸あり。みな美酒、数千石を造りて、諸国へ運送す。特に禁裏朝貢の御銘を老松と称して、山本氏にて造る。あるいは、富士、白雪の名酒は筒井氏にて造る、菊銘酒は八尾氏にて造る、そのほか、いえいえの銘酒を斗樽の外巻きに印して神埼の浜に送り、渡海の船に積んで、多くは関東へ遣わす。
当所の領主は近衛殿にして、むかしより村甲は酒匠者かわるがわる郷中の支配を蒙る。

とある。
文化、文政期に江戸に向けた下り酒は、年間平均約二十万樽という驚異的な数字である。一樽には約三斗六升(六十五リットル)が詰められる。また樽は、二樽をもって一駄と数える。一樽は半駄という。この最盛期を誇る文政十三年(一八三〇)には酒蔵家数五十七軒、酒の銘柄二百十二銘柄の記録がある。
このように繁栄した伊丹の酒造であったが、天保以来しだいに衰退していくようになった。天保十四年(一八四三)は約十五万樽、で少しはよかったが、嘉永六年(一八五三)
は約六万樽、安政三年(一八五六)は約八万樽と次第に減少していった。
嘉永三年(一八四九)與鹿が伊丹を訪れたときは、この厳しい時期であった。


◆伊丹猪名野神社
年々衰退してゆく伊丹郷町をどう建て直すか? 今日も寄り合いがもたれた。
ここで梶曲阜は、持参した秋里離島の「摂津名所図絵」に見開き二丁に野々宮牛頭天王社が描かれている箇所を開いて説明文を読み上げる。
「伊野々宮牛頭天王社は丹天王町にあり、古くは豊桜宮と称す。後世、野宮の中なれば、俗称して野宮といふ。まつりは八月二十三日、近隣十四村の産土神とす」
曲阜のはなしはつづく、
伊丹天王町は牛頭天王をまつるから、野宮とは猪名野の宮を縮めてよぶ名前であって、土地の呼び名です。祭神牛頭天王は京都の祇園さんとおなじで、祭りも同じ日です。
昔から栄えている町は産土神様を大切にしています。伊丹の町も文化文政の頃は最盛期でした。江戸へ積み出した酒は大和田屋さんは先日立派な灯籠を寄進されました京都の祇園さんにも負けないくらい立派なお祭をして、昔の繁栄を呼び返そうではありませんか?
これをきいた伴善衛門はそれはいいことだ。祭と言えば鉾だなと相槌を打ち、伊丹の町に祇園祭の長刀鉾や函谷鉾、鶏鉾、菊水鉾、南観音山や霰天神山などの鉾や、山をたてコンチキチンと曵き出す。町はまた繁盛して賑やかになりまっせ。これまでちょっと粗末にしていたんではないかいな?
話が次第に熱を帯びてくる。
作るんならやはり日本一のものを造りたいですな。
しかしいったい誰に頼んだらよいものか?
皆で検討してみましょう。
こんど集まるときに知恵を持ち寄ることにして……。
さっそく次の寄り合いがもたれた。
さてこの間の話しの続きじゃが……、
みなさんいかが良い知恵は出ましたか?
なんでも鹿島屋さんが耳よりな話を聞いてきたそうじゃ
ほう、それはそれは。ぜひ伺いましょうか。
山や鉾すなわち山車のことですが、いろんな人に聞いてみますに、
やはり、飛騨の匠の右に出るものはなさそうです。
大和田屋が口をひらいた。
私が奥州の旅の帰りに中仙道を通ったとき、ちょうど美濃の関の祭でした。
関というと孫六で有名な刀の関ですな。
そうです。
そこの鉾は大変立派なものでした。ところが私には立派に見えるのですが、それで
もとうてい飛騨の高山の屋臺にはおよばない。
仕方ないので高山の屋臺を譲ってもらおうという話を進めているときいたことがあります。
やっぱり飛騨の高山か。
そのはなしなら私も聞いたことがある。
浪華の天神祭りに篠崎先生や頼先生頼先生と一緒に見物させていただいたことがあるが、そのとき丁度貫名先生もお見えになっていて、高山祭を見物してこられた話
しをなさった。とりわけ興味を引いたのはその屋臺がとても立派だったこと。
もうひとつその屋臺が焼け野原の中で、人の住む家より先に造られ始めたこと
屋臺が出来て祭りが挙行されると、もう軒を連ねて普請の槌音がひびきだした
ということです。
高山という町は、屋臺を曳くためだったら橋まで架けなおすとか?
火事があっても、住む家よりさきに屋臺を作るとか?
大乙は三巻の巻物を取りだした。
皆の前に広げると、一同の顔を見渡した。これはいまから百二十年あまりも昔のことですが、正徳元年(一七一一)に行われた野宮の祭りの様子です。
北少路村など七町村から七臺の曳きものを出していたようです。これをみると八角あんどたし桜、というには八角形の行燈に出しは桜にした山車のようです。
はご板とあるのは正月の羽子板のような物でしょうか?
十二角朝貌あんどというのは、十二に面取りした朝顔のように上に広がった行燈で、すすきに月は太鼓型の丸い満月形の行燈にすすきを配したもの、
筍はりぬきあんど、というのは雪の中から筍が孝子のために姿を現そうとした、
二十四孝の孟宗で、祇園祭の孟宗山を思わせます、この筍の上には雪のように真綿
をおくとあります。
面白いでんなあ。まだありまんのか?
おまっせ。
だんじり、これなどは曵山そのものです。今回は屋根ふとんとありますが、蒲団大鼓のようなものではありますまいか?
蒲団大鼓って何です?
私も見たことはありませんが、淡路島、讃岐や伊予の方で見られる曵山のようです。
きれいな蒲団を積み上げて曵山にしたもののようです。
それなら、わしは泉州の方で見たことがある。
おもろいのは、今回は、と、ただしがきがあることです。どうやら毎年趣向を変えて作っていたらしいのです、毎年だしものが変わるということのようです。
六角あんど、これは名前のように六角形の行燈形の曳きもののようです。
すすきに月だけは、舁きものだったようですが、ほかはすべて曵山です。
金灯籠、黄金色の絢爛たる灯籠で、これらは夜になると灯が入れられて、町内を曳き回したことでしょう
この金灯籠は天王町がだしたものは、もとは六角行燈だったようです、
しかし金灯籠に変えたところ大変評判になり、翌年は清水町もおおきな
金灯籠を出したようです。
立派な物を出した町内は自慢で、町内を練り歩いたものでしょう。
祭りが終わればもう来年の曵山を考える。
「うーん」
異様な熱気に包まれた。
不思議と祭りが立派に行われる年は、町が繁栄したものです。「このごろ祭りどころではなくなってしまったからなあ」
「そうではありません、このようなときこそ立派なお祭りを奉納して、
昔の繁栄を呼び返さなくてはなりません。
おもしろいですなあ
しかも、寛永から宝歴年間にかけてしだいに大きくなり、曵山のように姿をかえていったようです。

 もともと野宮のお祭は酒屋聚の信仰が厚く、酒は丹波に始まったという伝説があって、昔は酒を運んでいたのだが、輸送が大変なので運搬に楽な池田で造られるようになった。だから、杜氏が丹波から出向いてつくられるようになった。
大和の東大寺から麹が伝えられて、池田の酒は有名になったが、酒米は丹波から
運び込まれた。そのうち、宇治に黄檗山萬福寺が建てられ、かわりに伊丹を拝領された近衛様が産業を奨励された。
伊丹は池田の影響を強く受ける土地柄で、もとは池田が漢師、つまり綾師によって
開かれた織物の町で、機織りにゆかり深い土地で、呉服という地名があり、伊丹は晒す糸が海のようだったから、いとうみといわれていたものがしだいに訛って現在の伊丹になったという説がある。
古くは伊丹もまた織物の町で、当時加勢屋、かせ屋の屋号をもつ店が多くあった。
祭は猪名寺村までご巡幸される。
もと猪名寺村の北にある、猪名野の小笹に鎮坐されていたのを、現在の地にお移し
したので、祭には旧地に神幸する。
この御神輿は酒の文字の入った提燈を持った酒屋聚に警護されて導かれるのが通例であった。
安永元年(一七七二)に近衛家から鉾と吹き流しが奉納されて、野宮のお祭りは
いっそう立派になった。先導の大鼓は六人だったものが八人へ、四神旗は青龍、白虎、朱雀、玄武を描いた幟が下げられ、鳳凰のついた傘をさしかけられた男の子供が加わる。
最近はこの男の子が祭りに加わるのも古くからの伝統で、明和三年(一七六六)には男女の稚児を駕籠に乗せて、しかも外からは見えないように六人の人垣で護っている。これなどは、京都の祇園祭そのものであった。
野宮の祭礼に参加する町内は、伊勢町、大手町、南町、堺町、昆陽口、天王町、住吉町、中少路、新町、魚屋町、竹屋町、材木町ばどで、本来仏教の守護~である牛頭天王を神社に祀るようになったのは、神仏一体の考えから生まれた、本地垂迹説で奈良時代末期までさかのぼる思想である。
猪名野神社も金剛院の別当が僧を従え轅に乗ってくるという祭りの姿は明治の神仏分離まで続いていた。

伊丹郷町に屋臺を建造する話がにわかに現実味を帯びてきた。
「海屋さんが高山で実際に屋臺ができるまで見てきたそうです」鹿島屋岡田糠人が控えめに発言した。
そこでいちど高山に使いを出したらと思い……、そこで座に連なっていた客人の吉田公均が紹介された。公均は伊丹にはしばらく滯在したが、このたび郷里に帰るという。越中新田郡江上村の人で、文化元年(一八〇四)の生まれ、通称は平吉、出身地の名をとり、江上漁夫はその号である。
はじめは郷里の岩崎に書を学んだが画に対する思いが強く、やがて上洛した。
松村景文や紀広正に学んだがこの頃は広均といっていた。さらに清人について南画を学び、公均と改めた。公均は帰郷に際し高山を経由してもよいという。
高山の屋臺を建造した谷口與鹿に強い関心が集まった。
海屋の添え書きをした伴善右衛門の親書を携え郷里に向かって旅立った。


◆伊丹八景
 この年の暮れ、伊丹八景をえらび句会が開かれた。與鹿はこの関に招待される。このとき作られた俳句。有岡はかって荒木村重の居城が会ったところである。

伊丹八景

有岡城秋月
そのときの狭間の松や秋の月        糠人

跡とえば城は葎や秋の月                    蘭山

月凄し轡や鈴を虫の音に          太乙

猪名野晴嵐

今朝見れば嵐を待つに笹の霜        曲阜

笹原や晴れる嵐も春のひま         鳴々

さえかえる嵐に晴れて笹の月        藤涯

天津落雁
天津雁そこにとりあふ村名かな       退歩

来る雁のやどり求めん天津原        駒房

真保片帆浪速あたりや朝かすみ       志雄

帰る帆にあまる追手や群千鳥                静峨

鵯塚暮雪
司どる鳥のねぐらや暮れの雪                紫朗

鵯の声ばかりして暮れの雪         松齋

雲正坂夜雨
古坂を左右へ散るか夜の雨                  一東

寝るまでは月は冴えけり夜の雨              環春

降りわける雨を霙や夜の雨         蘆月

西台夕照
夕照るや野は淡雪のしめり持つ              朗寿

夕照るや稲葉にのぼる露の玉        一雄

夕鐘の一つ冴ゆる枯野かな                  春人

山々もわらひ静めて暮れの鐘        米女

黄昏るる董の上や鐘の声                    陸人


◆伊丹明倫堂
 隠元が日本に来るにあたってはときの将軍の熱い帰依が有った。
寺院を建立する場所を探していたところ、宇治に有る地に決まり、この地に黄檗宗の萬福寺を建てられることになった。この地は近衛家の所領であったので、寺の代替地として伊丹が与えられた。江戸時代になり各地に大名が所領する各藩が定まったが、この伊丹はそのまま公家の所領する「摂領」というめずらしい形態の町として発展していくが、この町が「伊丹郷町」現在の伊丹市である。
 領主は近衛氏で、町内の経営は大名の国元家老に相当する年寄りによって運営されたしかし、伊丹が大きく飛躍したのは、摂領時代池田市から次第に移った酒造業の興隆である。
この伊丹郷町に学問所が設けられ「明倫堂」と名づけ、塾頭に迎えられたのが橋本香坡である。
香坡は上野国利根郡沼田(群馬県)の城下に文化六年(一八〇九)、二月、橋本紋右衛門の長男として生まれた。
幼名を圭太郎といった。通称は半助、大路ともいう。香坡、小梅道人、毛山、載盆子、適園、静庵などの号がある。
沼田(沼田市)は沼田盆地の高原の中に隆起した奥利根の入口にあたり、沼田台地に成立した城下町で、北は上越国境の谷川岳千ノ倉、万太郎。西は赤谷河、三国峠。東は赤木、武尊等の裾野が片品川の渓谷に沿う。
沼田は戦国時代武田、上杉、北條による覇権争奪の争いの場となった場所で、上杉謙信は沼田の地に陣を進め、ここで武田勢の上野進出を抑えた。その後、武田の幕下であった信州の真田氏に属し真田氏は自ら沼田に城を築き豊臣氏にしたがった。その後真田昌幸の子、信幸はこの沼田を領した。
 その後豊臣と徳川による争いに、信幸は徳川に属し、父の真田昌幸、兄の真田幸村は豊臣に従うことになり兄弟親子が敵味方に別れて戦う事になったのは戦国の習いとはい悲惨であった。よく知られるところである。
結果は豊味の敗北となり父の真田昌幸、兄の真田幸村は敗北し、滅亡した。
徳川氏についた真田信幸の妻は本多忠勝の娘であった。
寛文、元和のころ信利の代になってから改易となり、事実上真田家は滅亡した。天和元年のことである。
 高崎の安藤対馬の守により沼田城は破却されることになった。突然主を失った家臣たちはそれぞれ流浪のみとならねばならなかった。
それからのち二〇年。沼田は代官による支配下におかれていた。
 寛保2年になると土岐丹後の守頼実が駿河田中城主より領主として赴任して沼田城は再度建築することになり、以後明治維新までの一二七年の治世におよんだ。
 土岐家は美濃の土岐郡に始まるが徳川時代は譜代の臣であったが、封じられたときは沼田三万五千石というが本地沼田後は二万石である。河内(大阪府)と美作(岡山県)にに飛び地があり、あわせて一万五千石 河内は志貴永久替えの二郡、美作では湘南、あいだ、正保九の三郡で、この飛び地の管理を大阪に倉屋敷をおいておこなっていた。
香坡の父は頼順、頼功に主として仕えたが、香坡は頼寧、頼之の二代に仕えた。
頼実は正徳三年に家督をついで享保十三年寺社奉行となり十五年七月大坂城代になり、十九年六月には京都所司代に進んだ。
 橋本香坡の先祖との交渉はこの頼稔のとき京都所司代のとき仕官したときに始まる。寛保二年、老中に進んだときは駿河の国田中の城主であったが上州の沼田城に転封になったのに従い沼田にいたったものである。
大阪は飛び地一万五千石を管理する大切な場所であった。
土岐頼寧に信任の厚かった香坡の父にこの任が与えられた。出世である。
橋本家は元々関西の人で、「橋本氏家譜略記」によると、橋本家はその先祖をさかのぼると河内の国の人で、南北朝時代に楠公に仕え色々手柄があった。
いわゆる楠八進の一人だったという。
延元元年五月、楠正成は湊川の戦において戦死したが、このときやはり数々の戦功を立てながら戦死したのであった
その後世の中が落ち着いてからはその子孫は父祖の地である河内に住んだ。
やがて十三代のとき丹波篠山の観音寺に転居した。
橋本正一の母は、夫の清国の冥福を祈って一尼寺を建てて出家した。
国成という一子があり、父といっしょに湊川の戦いに参戦したが、父はここで河内に帰ることを命じた。
国成は苦戦の中、戦列を離れることを渋ったが、父より再度、この戦況を正成の子正行に知らせよと命じられ湊川をはなれたが、このときすでに楠正行もまた四条畷の戦いで戦死していたのであった。
 その後篠山において六代くらい続いたあと、京都にでて公家の広橋家に仕え、さらに土岐氏に仕えたのである。これが土岐家の臣となった始めである。 このときの土岐家の当主が頼実で、京都所司代の役目にあった。土岐氏はいうまでもなく美濃の出身である。 天文元年据え尾は大坂の倉屋敷に勤めていたが宝歴八年に沼田に移住し。、天明三年に辞職し、同六年八十四才で没した。墓は坊新田の量言寺に定めた。
これが橋本家の概略である。

 橋本家は大坂河内で楠氏に仕え、丹波篠山を経て京都に出、ここで土岐氏に仕えて沼田に移り、父の代になって大坂の地に戻ったのであった。
そのあと、香坡が十五歳のとき父にしたがい大阪堀川にある沼田藩邸に移り、ここで篠崎小竹門にはいって儒学を学ぶこととなったが英才で、四才子と言われるほど頭角をあらわし推されて伊丹の明倫堂塾頭をうけることにし、父母を伴って伊丹に居を移したのであった。


◆伊丹明倫堂 二
 伊丹郷町に学問所を望む声はしだいにたかまり、町民の声はやがて総宿老の小西新右衛門と町年寄の伴善右衛門を通じて近衛家に請願された。
この希望を聞き入れて郷校の開設を聞き入れたのは、近衛忠煕である。
伊丹郷の昆陽口村に敷地九十坪、瓦葺二階建、三十二坪の学問所を建てて、近衛家の家臣である佐竹重政の額を掲げて明倫堂と名付けた。ときに天保九年(一八三八)三月のことで、高山の学問所、赤田誠修舘の設立よりは、三十四年後のことである。
明倫堂とは人倫をあきらかにするの意で、この名称の学問所は各地に相次いで建てられていた。伊丹の明倫堂はこうして立派に出来たが、この年は教官が決まらず、翌くる天保十年、(一八三九)の春橋本半助を迎えて開校された。
橋本半助は文化六年(一八二九)二月、上野国(現在の群馬県沼田市)に生まれた。十五歳のとき、沼田藩士であった父の職務のため大坂に移り、堀川に住んだが、ここで近くにあった、篠崎小竹の梅花社に入門した。
半助はここでたちまち頭角を現し、そのころ同門の、奥野小山、安藤秋里、山中静逸とともに篠門の四天王といわれるようになった。
半助(半介とも書く)が近衛家の招請を受け五人扶持をもって伊丹明倫堂に初代学頭として迎えられたのは、三十一歳のときであった。
明倫堂の維持は近衛家から下付された銀五十貫に小西新右衛門ほか郷内二十余人より寄付された銀五十貫を加えた百貫を資金とし、その運用利息をもってあてられた。
学問は、小学、四書五経、春秋左氏伝、国読二十一史、通鑑綱目、三体詩、文選、
唐詩選、その他の漢書が主で、素読から質問におよび、習字は楷書と行書を教えたがたいへん好評だったという。
こうして十年、病気で職を退いた父と母を伊丹に引き取り、嘉永二年(一八四九)
半助は家督を継いだ。


◆橋本香坡(はしもとこうは)
伊丹郷町に学問所を望む声はしだいに隆まり、町民の声はやがて総宿老の小西新右衛門と町年寄の伴善右衛門を通じて近衛家に請願された。この希望を聞き入れて郷校の開設を聞き入れたのは、近衛忠煕である。伊丹郷の昆陽口村に敷地九十坪、瓦葺二階建、三十二坪の学問所を建てて、近衛家の家臣である佐竹重政の額を掲げて明倫堂と名付けた。
ときに天保九年(一八三八)三月のことで、高山の学問所、赤田誠修舘の設立よりは、
三十四年後のことである。
明倫堂とは人倫をあきらかにするの意で、この名称の学問所は各地に相次いで建てられていた。伊丹の明倫堂はこうして立派に出来たが、この年は教官が決まらず、翌くる天保十年、(一八三九)の春橋本半助を迎えて開校された。
明倫堂の維持は近衛家から下付された銀五十貫に小西新右衛門ほか郷内二十余人より
寄付された銀五十貫を加えた百貫を資金とし、その運用利息をもってあてられた。
学問は、小学、四書五経、春秋左氏伝、国読二十一史、通鑑綱目、三体詩、文選、
唐詩選、その他の漢書が主で、素読から質問におよび、習字は楷書と行書を教えたが、
たいへん好評だったという。こうして十年、病気で職を退いた父と母を伊丹に引き取り、嘉永二年(一八四九)半助は家督を継いだ。


◆三本松騒動
與鹿は岡田家の離れをあてがわれた。
與鹿が高山に宛てた手紙に「鹿利別荘」としているのがこれである。
高山の研究者は筆記体で書かれた鹿の字を「麻」にして麻利別荘としているのは誤りである。
伴善衛門宅、明倫堂は裏庭伝いに行ける。
伴善衛門は少々口うるさく、だれにも遠慮のない口を利く。「ええかげんにしなはれ」が口癖だった。それだけに押しが利く。
だが、無理を言ってきてもらった與鹿には甘い。
明倫堂の学頭は橋本香坡、妻は益子。郷里の沼田から迎えた令婦人である。
この香坡は與鹿とはじめからウマがあった。妻の益子はよく気がついて身の回りの世話をしてくれる。しかし、そのうちそろそろ與鹿の悪い癖が出始めた。
伊丹郷町に三本松という場所があった。遊郭である。與鹿はここに通い始めた。もっとも、当時の遊郭は一種の文芸サロンで、人士の交流する場所であった。
ここに通い始めたのである。ただ通っているうちはよかったが、次第にはめをはずすようになる。與鹿の言う「愛婦の病」がおこったのである。
留連しているうちに金がなくなってしまった。
平身低頭金は後で届けるといっても主人は「うん」といわない。
着ているものすっかり剥ぎ取り、大事な琴まで質にとって放り出した。これを見ていた婆さん、死んだ主人が着ていたもんじゃがといって、黄色くなった褌とところどころやぶれて垂れ下がった、絽の羽織を貸してくれた。まるで提灯のお化けのようだったという。さっそくガキどもが集まってきて囃し立てる。この格好で町を歩いたいたら行き会う婦人はあかくなって逃げ出した。どうにか明倫堂の裏まで帰ってきたとき、香坡の妻の静子とばったりであった。
益子も赤くなったが、目のやり場もなく、おかしさをこらえきれず大声で笑い出した。なにごと? と様子を見に来た香坡がこの姿を見て笑った。
悪いときは仕方のないもので、伴善衛門が通りかかった。
つられて笑ったが、話を聞いているうち渋い顔になった。
「ええかげんにしなはれや!」。あんたが笑われるのはいいが、鹿島屋さんの暖簾にかかわる。といって岡田糠人のところへ引っ張っていった。
糠人も笑ったが、そのあと黙って鹿島屋の通い帳を與鹿に渡した。
與鹿はこんどはおっぴらに、鹿島屋の通い帳をもって郭通いをはじめた。
ところが、またまた問題がおきた。
その持ち前の人の良さから、相娼になった妓の話を聞くうちすっかり同情してしまうのである。
「……というわけで、丹後の与謝には年取った両親がまだおりますが、さぞ生活に困っているだろうと思うと……」。
與鹿は柘植で簪を彫刻し、彼女に進呈した。
つぎに訪ねると彼女はいない。與鹿からもらった簪を金に代え、年季をきりあげて
郷里に帰ったという。その妓の話を聞いているうちまた同情してしまう。
こんなことを繰り返しているうち三本松から妓が減りはじめた。
妓楼の主人はかんかんに怒って、鹿島屋にどなりこんだ。
このはなしがまた伴善衛門の耳にはいる。
このときも與鹿は相当説教されたらしい。のちに夏の俳諧の席に招かれ、

   叱られた暑さにまさるあつさかな

與鹿は、一向にこたえた様子はない。


◆谷口與鹿と頼山陽
 時間が少し後戻りになるが、與鹿が伊丹郷町に到着するまでのあいだ、ここで頼山陽に触れておこう。

 橋本香坡が梅花社・篠崎小竹門にはいったことは既述したが、師の小竹と、頼山陽は親友であった。
 頼山陽はのち、京都で開塾するが、その最初の弟子になったのは、美濃出身の後藤松陰(一七九六−一八六四)であった。
松陰は、名を機、字は世張、通称は春蔵、または俊蔵。松陰また春草は号である。
頼山陽が九州旅行にも供をしたが、長崎で母が病気になった知らせを受け郷里に帰った。山陽は美濃にいる松陰に宛てて、激励や指導をしたりしたが、再度大坂に出、篠崎小竹の女婿にはいって大坂に住んだ。
山陽は大坂に出るごとに松陰の家を宿にした
山陽が晩年に著作の整理にかかったときには理想的な助手ともなった。
森田節斎は、松陰をして「才あり而うして気足らず、しかれどもその人はなはだ好し」
と評したのはきわめて的確である。
山陽死後、遺稿を公刊したり、塾の残務整理をしたり、若い弟子たちの指導にあたった。関西から西の漢詩人六名の詩をあつめた「摂西六家詩鈔」があるが、巻四には松陰の「松陰余事」が収められている。
おそらく、篠崎小竹の企画だろうといわれる「摂西六家詩鈔」では、篠崎小竹、広瀬淡窓、草場珮川、広瀬旭荘、虎山とともに、松陰に一巻が割り当てられている。
松陰はまた香坡と親しく、與鹿とも気があった。
山陽の死後伊丹へ遊びに行き、帰りは伊丹の人々に送られて猪名川を下った。
下る舟の中で吟行する。

「行ゆくに丸木橋の下にいたり、皆、首を縮めるを免れず。
岸勢合いまた開き、船頭左たちまち右」船中で酒を酌み交わし山陽を回想する。
「惜しむ、かの西帰の人、けいき、朝に手をわかち、いずこにか寒山を渡りて、この瓢酒を共にせざるを」
正月八日は、余の生辰なり。

という詩がある、四十一才の作。
山陽の手紙を整理していたら、十通の内九通は伊丹の酒の話である。今は幽明を異にしてしまったが、師の声がよみがえってくる。 山陽は死の病の床で、自選の詩集の出版を待ちわびていたが、ついに間に合わなかったが、この詩集の編纂には松陰があたった。
   松陰の家は、大坂江戸堀の、かっての頼春水南軒の近くにあったという。

松陰と與鹿が合作した竹製の酒器がある。松陰は詩を、細工は與鹿である。

村瀬藤城(一七九〇−一八五二)
このひとも美濃のひと。頼山陽の弟子である。ただ、家業のため家を空けられなかったから私淑するにとどまった。松陰が紹介したという。
尾張藩領五十三ヶ村の総庄屋の職を勤め、美濃の地を離れることが出来なかった。
京都に滞在したとき山陽に会い、直ちに入門して指導を受けた。帰郷してからも手紙を京都に送って通信指導を受けたが、江戸へ出張した折りにも同じように佐藤一齋にも入門し通信教授を受けた。
佐藤一齋は岩村の藩士の出でのち江戸に出て開塾したひと、その著「言行四録」は有名である。
この山陽と、藤城の学問的対話は、後に後藤松陰が序文を書き、嘉永年間に「山陽藤城二家対策」として出版された。
 藤城にはほかに「宋詩合璧」の著述がある。
天保三年、山陽は死の床で、江戸で幕府の郡代を相手の訴訟に奔走する藤城に宛てて書いた手紙は有名で、抄述すると、「当時の社会体制内部の矛盾について、その腐敗を見抜く現実主義。学問を実践に移して、その態勢に挑み、改革への道を進むことには反対である」と言った意である。
のち安政六年、こと敗れて、京都三条で処刑された息子の頼三樹三郎にきかせたい言葉であった。
山陽は幕藩体制が崩壊にに向かっていることを自覚しつつも、みずからがその推進派となって破滅にいたる道はとらなかった。
つねに「明哲保身」が山陽の処世訓であった。
後藤松陰と藤城は同郷でもあり親しかった。

村瀬太乙(一八〇三ー一八八一)。
山陽の葬儀の焼香順は後藤松陰が一番、太乙は六番であった。山陽の死後帰郷して、名古屋で開塾した。新設犬山藩の藩校、敬道館において藤城が講義するようになったが、しばらくして太乙を推薦して退職した。「太乙堂詩鈔」一巻がある

神田南宮
「南宮詩鈔」上下がある。人生に達観し、世をうらみ、俗を嘲る風はまったくなかったという。
ある時、百峰と酒談のさい、彼はしみじみ、自分には読書以外にはなんお才能もないから、戦国時代に生まれていたら、たちまち馬蹄に蹂躙されていただろう。
太平の世に生まれたことを感謝すると述懐したという。

森田節斎
(一八一一ー一八六八)
名は益、字は謙蔵。号ははじめ、五城、中年は節斎、晩年は愚庵といい、大和五条の町医者の子に生まれた。
十五歳のとき京都に出て、猪飼敬所の門に入ったが、晩年の山陽塾の中心人物だった牧百峰のところに寄宿して、頼山陽に文章を学んだ。十九歳になると江戸に出て昌平校にはいり、古賀とう庵教えを受けたが、野田笛浦、塩谷宕陰らは同級であった。
その生涯は「森田節斎先生の生涯」武岡豊太著に詳しい。
安政元年(一八五四)四十四歳の時結婚した
高槻の親友、竹外に奨められ、大坂の塾で助教をしていたとき、琴女とならしてもよいといった。琴女は無絃女子という。
琴女は、和文に優れ、源氏物語を清書する時など、その筆は流れるような見事な筆遣いだったという、一方馬術、柔術においては男子をしのぎ、まさに文武両道の達人だった。
しかし、その容貌の醜さは並みではなかったらしい。珍しいくらいの醜貌だったという
まさに二物はあたえられない。
で、節齊が娘を望まれたとき、師の藤涯もまさか本当とは思わなかったらしい。親が縁談をあきらめていた娘を望まれ藤涯はあきれはてて、もし本当に結婚するなら、表に出て街頭で三度土下座して見せようといった。断ると思ったからである。
ところが節齋はいきなり表に駆け出そうとしたから藤涯はその真心に打たれ、涙ながらによろこんで承知した。
節齊は備中の友人に出した手紙にも、「おそらくその醜さにおいて、備中一国を探しても右に出るものはあるまい」といっている。
しかし二人は結婚した。この無絃女子との結婚生活は十年続き、男の子も産まれた
のち倉敷にあって開塾していたとき、破門した弟子の復学について、夫婦の間に衝突が起こり、「雌鳥が時を告げる」といって立腹し、本当に離縁してしまった。

谷三山
節齋が谷三山と交わした筆談は珍奇である。気の毒に三山は耳が聞こえなかった。
二人の話題が、学術、学界の高邁なはなしをしている最中なぜか突然脱線する。
二人が、「どちらが不精者だろうか?」というはなしにいたったとき、節斎は「それはむろんわしだろう」というと、三山は、「どうしてどうして、不精とはいっても、あんたの夜戦の働きは万人に超越する、けだし、慨然として馬立つこと、江南第一峰の気ありだ」といったぐあいである。
安政六年(一八五九)節斎、姫路藩に招かれる。


吉田松陰は節斎の弟子であった。伊丹に来て橋本香坡に入門を申し出たが、香坡は断った。節斎は駕篭に乗り、松陰は徒歩で楠公の遺跡をめぐった松陰は海外渡航のことを節斎にはかったが、節斎は徹夜でこれをやめるよう説得した。しかし松陰はこれをきかず、書き置きを残して江戸へ出発した
しかし、節斎はこのことに満足であったようで、友人の藤井竹外に手紙で自慢している。松陰の末路が悲惨であったのはよく知られるところである。
節斎もまた頼山陽とおなじく実践家ではなかった
安政二年、節斎は故郷の五条代官が、万一の場合に皇居を守護するため、十津川郷士管内の農村青年を集めて、吉野川の河原で軍事訓練をしたときその指導者の一員になった。
このとき訓練された二千人の兵たちは、文久三年(一八六三)中山忠光が天忠組の武装蜂起を行った際の、軍隊の中核となった。この軍隊には節斎の弟子たちが何人も加わった。
しかし節齋は、自分の役割は文筆にあって、直接行動ではない。といいのこし倉敷から亡命した。のち高野山に逃れるが、追っ手をくらますため偽装の出家し、慶応二年(一八六六)愚庵と名乗った。明治元年(一八六八)維新がなり、大和に鎮台がおかれると、総督として久我通久の家臣である、旧友の春日潜庵が五条にやってきた。
このとき節斎は三年間の亡命生活からようやく抜けて旧友の前に現れた。
潜庵はそのころ河内で塾を営んでいた旧妻、無絃女子をよびだし、節斎と復縁させてやった。

◆谷口與鹿と藤本鉄石
藤本鉄石は、出羽(山形県)の斎藤家(清河八郎の実家)、小布施(長野県)の高井家にしばらく止宿しているが、摂津伊丹郷(兵庫県伊丹市)の岡田家も訪ねているが、ここで橋本香坡、谷口與鹿とも面談している。
藤本鉄石は、名古屋に宿泊したとき、高山の郡代であった父親の小野朝右衛門の名代で伊勢参りの途中だった山岡鉄舟とおなじ宿になり、林子平について語り合ううちすっかり傾倒し、伊勢まで同行している。


◆谷口與鹿 高山帰郷
 安政二年春。兄延儔から厳しい手紙が届いた。高山大新町「鳳凰臺組」から、「はやく屋臺を完成せよ」と迫られている。じつは本体はすでに完成し、下臺の彫刻のみとなっている。これは與鹿の仕事だが、とうとう祭には間に合わず、この部分を更紗の生地で覆って曳いたが、今年は完成させないと面目がたたない。兄の苦衷を察し、速やかに帰って彫刻を完成しておくれ。
という内容だった。

與鹿はすぐ手紙をしたため、使いに渡す。
高山をはなれてすでに五年。高山にいないので皆が屋臺の完成するのを待ち望んでいるという。
はやる気持ちはあったがこの年もはついに帰高できなかった。
あけて安政三年。與鹿に訃報が届いた。
兄、延儔の死去である。與鹿は愕然となった。
二月上旬、「かならずもどってきなはれや」のことばに約束しながら、與鹿は
見送られて高山へ帰った。必ずまた伊丹に戻ることを約束して。
高山に帰った與鹿は兄延儔の百箇日の法要を無事済ませるとさっそく大新町に赴いて
丁重にわびると、このとしの祭には間に合わせ「乱獅子渡浪図」を仕上げることを約束し、ついては今しばらくご猶予いただきたい。というのも、兄の延儔が請け負っていた上町神楽臺の改修がしかけとなったままで、春の山王祭が迫っている。
 町内のひとも案じておられるが、年老いた母にこれ以上の心痛をかけたくない。というので、この神楽臺のことは兄に代わって完工したい。

鳳凰臺組頭は「秋の祭には鳳凰臺を曳けるようさえしてくれたら、待ってもええ」と快く與鹿の言い分を聞いてくれた

 言うまでもなく、屋臺の曳き順は毎年籤で決まる。
しかし、神楽はつねに先頭、三番叟は歌舞伎など祝事の出番によって必ず二番目、この一、二は番外で籤とらず。実際には三番以下が曳順になる。 このの屋臺の先頭を曳く神楽臺を休臺にはできなかった。 未完成の下臺の仕上げにさっそくとりかかった。

 神楽臺を仕上げると、さっそく次の鳳凰臺の下臺彫刻にとりかかった。
兄延儔の遺児、宗之を励まし、弟子の浅井和助に手伝わせて鑿をふるい、見事に仕上げたときは秋の八幡祭も目の前だった。

兄の遺志を全うして追善供養の志をはたした。與鹿は完成した鳳凰臺が曳かれる姿を見ることなく、すぐ摂津伊丹に向かって旅立った。

 このとし宗之は十六歳、母の於佐野は七四歳。
涙をこらえて宮村境の松橋まで見送った母ともここで別れたが、いかにも名残りのつきない、足の重い旅立ちだった。

伊丹郷町に飛騨高山以上の屋台を建造する。これが兄の意志であり、伊丹郷町との約束だった。

 
◆下町の鳳凰臺
 嘉永にはいって、下一之町金鳳臺の改修がはじまった。記録にも嘉永年間補修。工匠谷口與鹿とある。
ほぼ完成に近づいた嘉永三年早春、與鹿の元に一通の書状が届いた。持参したのは吉田公均である。なつかしい菘翁貫名海屋の手紙も添えられていた。與鹿の心は揺れた。
金鳳臺はあと中臺欄間の彫刻を収めるところまで進んでいる。発註してある金具類、幕はまだ届かない。
しかし、大新町から谷口家に鳳凰臺建造の注文が入っていた。
兄延儔はこれを受けるていた。彫刻は與鹿が担当することになっていたからである。屋臺組からの名差しの依頼である。
下臺一面を使って彫る題材は決まっており、彫刻材の手配も済んでいた。與鹿は兄に上方に上がる話をした。兄は黙って聞いていたが返事を渋った、しかし、このごろ、與鹿が心を乱していることを案じていた。與鹿の名声が上がるほど、世間の反感が募り、とかく露骨な妬心が聞かれたからである。そういう意味では狭い町であった。
金鳳臺組さんには迷惑をかけないこと。鳳凰臺組さんの彫刻は祭前に必ず完成させることの二つを約束させ。それができるなら、上方見物もよかろうと快諾した。
兄としては、金鳳臺が完成したら、このへんで與鹿に嫁を迎える腹積もりがあったのである。
與鹿は、金鳳臺組の吉野屋にゆき、欄間の彫刻は旅から帰ったらかならず完成させるから。と約束し、仮に、四季草花図を描いて欄間に収めた。

嘉永三年春、與鹿は旅立った。
高山を出るときは、綿入れあったが、次第に暖かくなり、刈安峠をこえたところで、用意していた衣服に着替えた。鶴しょう衣、すなわち白に袖口の黒い道服である。
背中に琴を背負って下ってゆくと、途中で知った顔にであった。
男は、なんです? 與鹿さんと声をかけてきた。手短にわけを話して分かれたが、この男は高山に帰って與鹿の有様を話したところ、大爆笑になった。
與鹿は暑いので着ていた綿入れの綿を抜き、着物を裏返して着て旅に向かった。と。

 
◆谷口與鹿 長崎西遊
 妻の遺品を主治医の吉田三柳、下女の松らに分け与えるとのこりはすべて売却し、両親、妻の墓、それに生きて自分の墓である生壙を建て、碑文には、

(表)橋本静庵の墓
(裏)名通字大路号香坡俗称半助 上毛沼田人 父担翁 
   母渡辺氏 性不喜仕進 放浪文酒 徒住伊丹
   安政丙辰十一月 営生壙於考妣墓前 欲無累後也

 と記す。

 仕進を喜ばなかったとわれるが、これは沼田藩士であることともに、伊丹にあって、明倫堂の教授であったこともまたおなじであったのだろう。
いたずらに伊丹にすむというのは。放浪文酒を好むとは與鹿の生き方そのままではないか
安政四年(一八五七)の四月、橋本香坡は與鹿とともに九州・西遊の旅に発った。橋本香坡の通行手形が残っているので、まずそちらを先に紹介する。

宗旨證書の事

近衛殿御家領
播州川辺郡伊丹昆陽口村
橋本半助

右は拙者の旦下にして御法度の宗門等に毛頭これなく候この度諸国遊歴をまかり出て候。万一病死などいたしそうらえば、其の処の御法にとりて葬り、その段確かなる便をもって、当寺はお知らせくださるべく候別に飛脚お差しには及ばず申し候。
それよって件の如し。

安政四年丁巳四月
京百万遍 知恩寺末
播州伊丹
法巌寺            印

諸国
寺院並御役人中

前書のとおり相違これなく候、国々御関所相違なくお通しくださるべく候。以上

右村
庄屋 新右衛門  印

とある。庄屋 新右衛門とは白雪の小西新右衛門のことである。

丁巳首夏将西遊。留別伊丹諸子

すでに衣をひきてとどむる妻はなく
孤剣瓢然として遠遊をなす
幾歳雲を望みし篭裏の鶴
今朝絆を脱す厩中の□馬
二親の墳墓の離恨に悩む
諸友の・・>HAI酒杯物愁を消す
旧を懐い恩に感じ腸断たんと欲す
この郷我においてもまた並州

妻を昨年の四月になくし、ちょうど一年、子どももなくもう係累はいっさいなく
このたびにでるのを止める妻もいない
篭の中の鶴のように何年この自由の空を思ったことだろう
いうなれば、絆の説けた厩の中の赤馬と言うところか
しかし、両親の墓を離れることはとてもつらい。
伊丹の諸友たちと酒を酌み交わしていると、別離の愁いも消えてゆく。
しかしおもいかえせば、伊丹十九年の生活は、腸をたつおもいである
この伊丹の町は私にとっては、上州沼田と全く変わらない同じふるさとなのだ。

舟にて浪華を発して二十二日には下関についた。

風が生じまたやめば、舟足は早く、また遅く。
雲が多い。また開けば山は見えまた隠れる
摂州の洋上から見る新緑の季節
まことに元章の水墨画を思わせる

順風に帆をかければ波は静かで
舟にすわる人たちは、座敷にいるのとかわらない
見ず知らずの人達と笑って談し、
冗談をいっているのを聞いていると
今日の同乗者はみな兄弟のような親しさである

雨天となって港に舟をつなぎ
晴れるのを待つ間と
一人窓によって外をみれば
新樹が雨の山に煙っている
しかしそれもすこし見飽きてきた

煙雨は嘗章蕭々と海鹿を呼ぶ
曲州や横たわる島は日暮れの中にぼんやりとしている
舟は備前の西南の港に泊まる
灯火は林に隔てられて見え隠れしている
(この日十五日下津井にとまる)

この十五日は妻益子の祥月一周忌の命日に当たり
香坡と與鹿はこの瀬戸の下津井港で故人をしのんで杯を重ねた

浪華を立つ時伊丹の友人からはなむけにもらった四斗だるの丹醸
港の漁師に一壜与えたら目の下一尺もある魚を3匹もくれた。
この魚を早速膾にし、羹に煮れば、酒は佳し酔臥すれば
山海は復た目に新しい。
今丁度、上関を過ぎた所である。

この「元昭の水墨画を見るようである」といったのは、舟の上で與鹿が琴を弾いていたのであろう。
與鹿の弾く琴が顧元昭の霊和琴(玉堂琴)、浦上玉堂がそっくり写してつくった浅水琴であったためで、中国の故事「知音」にならい、與鹿を伯牙に見立てている。

波は泊まっている舟をうち一晩中鳴りきしんだ。
舟の箱枕は揺れ動いて眠る事ができない

ふと詩興がわいたので
梶にもたれて座りなおし、月明りに吟じてみた。
(この夜は潮が悪く舟は出立できなかった)

雲や峰は東に走る山陽道
煙る海の西に開ける筑紫州
萍跡すでにきたる千里の外
阿弥陀寺畔の新愁動ず

瓢遊、新愁に動じ感じて一作する
下関の阿弥陀寺町にある「赤間神宮」は、平家一族と安徳帝をまつる一見お伽話の竜宮城を思わせる、美しい朱塗りの神社である。
神域の一隅には「七盛塚」といわれる資盛、敦盛、知盛、経盛、有盛、教盛、時子ら平家一門の墓と、小泉八雲の小説で知られる「耳なし芳一」の像があって、平氏の夢の跡を今に伝えている。
深い木立にかこまれた薄暗い霊域には、香烟がたちこめ、。鬼気迫る幽玄な気に充ちている。
阿弥陀寺はもと寺院であったが、明治期に赤間神宮になった。すぐ前まで海がきていたというが、次第にうめ立てられて、今は社前が広くなっている。

この地を訪れた梁川星巖夫妻は

阿弥陀寺杳としていずれのあたりか
海気濛々として水天につく
夜半火来たって鬼馭を聞く
雲中柁響いて商船を見る
凄涼たる破廟、荒山の雨
剥落せる残碑古路の煙
あまつさへ白楊の疎影は冷ややかにして
悲風吹きわたる御裳川
この御も濯川は、二位の尼、時子が安徳帝を抱いて入水する時辞世に

いまぞ知る御裳濯川の流れには
   波の下にも都ありとは

と詠んだ川で、下関を流れる。

小屋瀬で同行の肥前茂木、玉臺寺の
某上人と別れる
定めて知る三世の好因縁
陸は肩輿をともにし、海は舟をともにす
教派分かれに臨んで再開を期す
玉臺山上、月は天に明かるし

空と海は遥か靄によって上下に分かれる。
長門と豊前の間にある満珠、乾珠の二島にはさまれて潮の流れは早い。
これから先また千里。
しかし鎮西の山は、もう船窓から手の届く近さである。

筑前の路上

駅舎の竹の駕篭は席も簾もゆがんでいる
滑ってすべるぬかるみの道
衣服が風雨に濡れるくらいは気にいていられない
座ってみる松のみどりに鮮やかな藤の花が映える

この詩作は、星巖の旅をおもいだしている。

梁川星巖も九州にはいり博多に向かうとき雨に降られた
このとき、

雨に阻まる

客窓連日雨蕭々。
座して残暑を擁し寂寥を送る
得を見る覇家臺の道。
泥深くして三尺、人の腰を没するを。

旅の雨はわびしいものである

東西ではなかなか言葉が通じない
かれこれ意志の伝わらない問答をしているよりも黙って座っていると、早蝉の越えに混じって松風の律が聞こえてくる

海に沿い小山を越えると、
赤土は霞のように海に連なっている
ふと悪臭が鼻をつくので気がつくと
このあたりの人家で燃やす石炭の煙である

筥崎神廟

万松は海を抱き、波はめぐるごとく渦をまき
あたかも青函玉鏡寒のようである
文徳の武威はとこしえに輝き
一神廟は三韓をにらんでいる

頼山陽が箱崎にてつくった詩は

廟門岌業長瀾に面す
仰ぎ見る彫題碧湾を照らし
とこしえに神威によって戎狄を伏す
新羅、高麗は指揮の間

太宰府神廟

おそれ多くも咎をうけた大賢
鐘声瓦色、当年を想う
風雷自ら示す菅公の徳
誰道冤を訴え上天に祈る

観音寺

千里を飛ぶ梅、一夜の松
痴人、夢をはなせばまた何によりてか
観音寺の内にその日を憶う
今はただ偲のみ、その韻々たる雨中の鐘の声

太宰府より三日もかかって越した高い山も肥前、佐賀にいたると道も低平になっ
た。
一面の麦畑が続き、おりからの風に波のごとくうねっている。
一箇所、高くなって木の繁っているところが佐賀城である

嬉野駅温泉

さすがに名湯、三度も入ると足も軽く、長旅の疲れを忘れる。
まことに心身さわやか。

朝仙岳

柄崎駅にあり、二峰対峙して、奇秀飛ぶが如し

肉眼でみる岳は
誰ぞ知るこれ二仙なる
相対して談ずるは何事ぞ
まさに朝、上天に謀るを

宝満山に高橋公を懐かしむ

山、宰府の後にあり、高橋紹運戦い守に、士卒一りとして敵に降るものなし

大村を封内をすぎ、見るところを書す

満山は黄色く麦が稔り、雲隣に雲が連なっている。
農力は充分で、国は貧しくない
きっと、これは藩宗の礼を譲するところなのだろう。
旅人の馬をひく人、牛をひいた農夫にいたるまで、
行き交う人はていねいに頭を下げて通る。

麦稔る大村藩をすぎ、ここからまた海路の人となる
彼杵から舟に乗って長江についたが、その舟の中でのこと。

たまたま漁船に乗って港をでた
竿でわたる大村湾
水は思わず掬ってみたくなる青さ
むこうに見える山は、
これはもう誰に聞かなくてもわかる
いうまでもなく雲仙である

夜浦上の農家に投宿す

今夜は浦上の農家泊り

藁を敷いただけの寝床には布団はなく
なかなか夢を結ぶどころではない
心尽くしで出してくれたこの浴衣だが
夏というのに、なんという寒さ
窓に貼った紙は全部破れてしまっており
夜空の明かりが入ってくる
幾つかの星が枕の上に瞬いている

豊前、筑前、肥前を経て長崎にはいる

客船で小倉についたのは朝だった。
筑前を経て肥前まで何日かかっただろう
巨海にしばし目を奪われてなんど足をとめただろう
奇山にであうごとに人にその名を尋ね
またその地の食事は珍しく美味である
僻土の人たちは人情が厚く、
行き到って、きわまるのは、華の地
万家は画のようで、舟の明かりが波に漂っている

與鹿と香坡の長崎滞在と交友はつづく。


◆長崎滞在
 與鹿の長崎滞在中の様子を伝える話がいくつか伝わる。

長崎にいたとき竹根で作った亀がなかなかの出来であった。 水に浮かせると手足で水をかいて泳ぐという趣向のものだったという。

與鹿の滞在した宿舎がまだわからない。滯在したのは長崎の曹洞宗寺院か?
あるいは、香坡とはおなじだったか? 橋本香坡は浄土寺にほぼまちがいない。
「時雨松」という松があったと記している。

 長崎への旅は、伊丹で建造する屋臺の緋羅紗、懸装品(タペストリ−)、装飾品の下見と、仕入先の選定、唐様の策定にあった。剣菱酒造の主人、坂上桐陰は伊丹に屋臺をつくることにとくに熱心で與鹿の支持者のひとりだった。かって、頼山陽が伊丹を訪ねるとき、自分はは剣菱を呑み、母には白雪をすすめたという。文人に剣菱を愛飲する人が多いのはそのいきさつによる。
剣菱の剣は箕面の滝不動の不動が持つ剣をイメージしたもの、当時醸造中に酒が腐敗してしまうことが多く、これを防ぐために寒中に箕面の滝の水を汲んでこれを醸造の酒に加えることが行われた。
 いま、剣菱は伊丹をはなれ、西宮に移ったが、飾樽の正面には剣と菱、瀧水と書かれているのがそれである。
 いまも文筆家には剣菱を愛飲する人が多い。
酒造家なのに坂上桐陰は酒が呑めず、與鹿によく意見している。長崎滞在中の與鹿とのやりとりを伝える書面がのこっているが、このなかでも諌めている。

香坡とは崇福寺、萬福寺、諏訪神社をめぐり、清の後藤春卿に招かれて丸山の花月に遊び与えれた一文字を読み込んだ即興漢詩をつくっている。ここでは砲術家の高島秋帆と知り合い、坂本龍馬との交友が生まれた。
江戸に幕府の大砲試射場がつくられたがいまの高島平である。伊豆韮山に反射炉を築いた江川氏は高島高島秋帆と共同で水車力を利用した旋盤をつくって砲身の加工をしている。
稲佐山にはよく登ったようである。長崎の女校書(遊女)たちは中国へ帰る清人を見送るためこの山にのぼり、鶴浦から舟が見えなくなるまでここに立ってひそかに見送る風習があったという。冬は凧あげが行われる。よく見えるように帯をといて風に吹流したという。與鹿は女校書に頼まれ、清人への手紙の代筆までしてやった逸話がある。

 浄土寺の山手裏側わずか二丁ほどのところに、亀屋社中の建物があった、建物といっても粗末な小屋のようなものだったらしい。ここが、坂本龍馬の長崎海援隊の拠点であった。近年まで建物が残っていたが、昭和五〇年代、荒廃があまりにひどいので取り壊したそうである。今は石碑がたてられている。
近年再建されゆかりの品があつめられ、多くの女性龍馬ファンが訪れている。

 
◆長崎を発つ
 山の斜面には黄色い実がなっている
 そういえばここは茂木琵琶の本場である
 ふとみずみずしい果肉の香りをかいだ気がした。
 バスはやがて小さな入り江になった波止場の近くで止まった。終点である
 小さな漁船がもやっている、日用品や雑貨などを売る店が数件あるほかは普通の民家である、後にすぐ山が迫る狭隘な地である
山を開いた斜面にザボンや琵琶をつくり、あとは漁業で生活しているのだろう
 梅雨明けも近いこの港町の風景は明るく潤いがあった。
 今きた長崎の方を振り返ると、左手の山際には寺院の屋根が見えた
 あれに違いない、なにか確信のような自信がわいてそちらに向かって歩いて行った。
 まちがえたときは教えてもらえばいい。
門前までくると、道から山門までは細い一本の道であったが、正面に山門が見えた
 山門をくぐると、やや左手正面に本堂。そのさらに左手に庫裏があり境内はゆったりしとしたた広さを感じた。大きな松が数本、重厚な雰囲気を漂わせている。
 その古さから言って、本堂は香波と與鹿がおとずれたときもこのたたずまいであったろう。
 ここに二泊したのだ。もてなしてくれたのは白華上人。香波が大阪で乗船船出したとき門司まで同乗したのがこの白華上人であった。
 頼山陽が九州を訪れたときやはり一人の僧と一緒になった。山陽のあとをたどる香波はその旅の出合いに偶然と運命を感じた。
 また、事実この出合いが、後日香波の人生を大きく変えることになる。
 長崎滞在中にはこの地に白華上人を数回訪ねている。乞われて與鹿が画を描き、香波が詩を添えて贈った。再会を約してふたりは旅立った。
 香波と與鹿は島原へつき雄浜の温泉では数日滯在している。 硫黄のにおいが鼻についた。
 島原から雲仙岳登ったが、その雄大な景色はふたりの眼を楽しませた。
 香坡と與鹿はここで珍しいものを見た。野生馬である
 このころはまだ野生の馬がいたのだろうか。
 ここからどのように海を渡ったのかはわからないが、水郷の柳川に渡っている。
おそらく礼山陽、梁川星巌とおのじみちをたどったのであろう。
礼山陽が海をわたるとき、ひどい嵐に見舞われ九死に一生を得た。いまはのんびりとフェリーが行き交っている。
 操舵室が見えるが、テレビで相撲を観戦しながらのんびりと運行している。
 筑後川仁沿って流れをさかのぼった。
 香坡はここで山を見て一首つくっている。
 佐賀ででの楽しみは佐賀に寄り草場珮川にあうことだった。             
 珮川は鍋島藩の重臣で多忙であり、朝鮮との外交上の藩命でるすであった。
 篠原小竹、頼山陽、草場珮川ら関西より西の詩人六人の詩を集めて出版されたのが「摂西六家詩抄」である。
 この編集には小竹の娘婿である後藤松陰が当たったが、與鹿はやはりこの松陰とうまがあった。ちなみに後藤松陰は美濃の出身である。
 佐賀の取材には大きな期待を寄せていた
 草場珮川は日々の出来事を克明に日記につける習慣があったといわれているからであるていたと聞いていたからである。
 佐賀の駅でタクシーに乗ると、運転手が愛 想よく吉野ヶ里ですかと聞いた、
 一目で観光客とわかったらしい。佐賀城址の県立図書館までといったら少しがっかりしたようで無口になった。
 佐賀じょうしにある図書館は県庁の横手にあり受付の職員は親切であった
 だが、草場珮川日記はなかなか見つからなかった
 一度出版の計画があったのだが、珮川の敗戦の子孫のひとたちがが佐賀を離れ、今は京都に引っ越してしまったため連絡がとりにくいのだそうである。
 職員は少しお待ちくださいといってその場を離れたが、しばらくすると笑顔で帰ってきた。こちらにきてくださるそうです。
 といってある大学教授に仁連絡をとったことを伝えた
 当時の計画の中心にいた人物なので、何か手がかりでも掴めたらと思ってという配慮であった。 気持ちはとてもありがたかったが、これには大いに恐縮した
 しばらくすると教授がやってこられた。
 初対面の挨拶に続いて、恐縮の趣を伝えると、にこにこしながら、司書の説明を聞いていたが、残念なことですがまだ日のめを見ていません。
 また、計画の中心にいたのは家内でしてといって、
 自分は当時大学の方が忙しく、夫人は資料の収集に当たって夫の地位が有力であったということである、当時ずいぶん手伝わされました。
 といって教授は笑ったが温和な感じであった。
 佐賀におけるてがかりはここで切れてしまった。
 與鹿と香坡が草場珮川からどんなもてなしを受けたのか、訪れた日や、滯在の様子などわかると期待したのだが致し方ない。
 他日の縁をまつことにしよう。   
 しかしせっかく来たことだし、せめて珮川のの居住地跡を見たいと思って尋ねると、史跡に指定されていますからすぐわかりますよといって地図を描いてくれた。
 お礼を述べて図書館を辞した

 佐賀城址は石垣を巡らしたゆったりした平城で堀の幅も広く、大きな柳が堀をめぐって枝をを垂れている
 大手門をでると前が松原で、酒家が軒を連ねている。 今日の泊りは佐賀にしよう。
 ひとりでうなずくと一件の店の暖簾をくぐった。旅先の親切くらい心がなごむものはない。
 ほのぼのとした気持ちであった。翌日はさっそく珮川住居跡を訪ねた
 武家屋敷跡新居氏の碑がたっていた
 與鹿と香坡は珮川を訪ねた。
 再会の感激を香坡は詩にしている。
 その珮川の居住した跡がここなのである
 香坡と與鹿がここを訪れた。
 一八〇年の時間を越えて今自分がここにたっている。そのことに感慨を覚えた。
 その模様は珮川の日記に残っているのであろう。
 いつか明らかになる日がくるであろう。
 だが当時珮川は藩命により壱岐に出張しなければならなかった。
 朝鮮の使節を迎えて、 朝鮮との外交交易上の公務があったからである。
 珮川は朝鮮語に堪能であった。
 おそらくあわただしい再会であったであろう

  佐賀を後にすると
 やはり筑後川に沿って豊前に向かった
 秋の日は旅のうちにも日々、短くなってきた
 朝からの秋霖がやまず
 疲れた身体をすっかり濡らした
 かかとがすっかり隠れるようなぬかるみの悪路でふたりは杖をつきながら寒さにふるえて歩いた。
 前方は雨と霧に閉ざされて何も見えない。 左手を流れる筑後川の水の音だけが耳についた。
 それでも、しばらくすると土橋がありその橋の下で少し休息して衣服を絞った。
 これではとても目的地までゆけない
 そのとき母屋のむこうに数戸の民家が眼にはいった
 無理を言って雨露だけでもしのがせてもらおう。
 橋のたもとにつったてておいた杖がすっかりぬかるみにとられて、ぬこうとしても抜けなかった。息は白く、手も身体もすっかり凍えてしまっていたのである。
 香坡は苦笑いして杖を捨てると與鹿と歩きだした。
吉井は立派な町であった

 村にはいって尋ねると、この先に頼めば泊めてくれる農家があるという。
 湯を沸かして熱いお茶をいれ、干し柿をだしてくれたが飯はないという。
 囲炉裏に薪をくべると衣服をひろげて乾かした。
 酒なら少し有るという。
 さっき子どもが拾ってきた銀杏の実が果肉を洗って干してある。
 これを焚火の熾き火で灰に埋めて焼き、肴にして呑んだ。
 少し元気のでた與鹿が、飯がなくても酒があるところはさすが九州男児だとほめたが、その冗談は空き腹にこたえた。
 空き腹で飲んだ強い地酒で、酔いが回ると一度に疲れがでてそのまま囲炉裏の脇でまどろんでしまった。
 すっかり風邪をひいたのであろう、つぎの日は発てなかった。
 農家のひとは親切だった。
 
 前方に櫓が見えてきた
  太鼓をおく鼓楼である
 ひとよんで遠思楼

 あまりにも有名な広瀬淡窓の私塾である。
 ついに豊前日田についたのである。
 広瀬淡窓の遠思楼についたが広瀬淡窓の病が篤く、あうことができなかった。
 まえあここにいるはずの、木下逸雲が一足違いで出立したあとだった。
 ふたりは大いに落胆したことであろう。
 ところが與鹿はここで思いがけない人物にであった。
 遠く故郷を離れて同郷の親しい人物にあったのである。

 一人は上宝村常蓮寺の住職の息子である
 もう一人は、飛騨代官所役人、上村家の息子満義であった。
 おどろいたことに
 常蓮寺の息子は優秀な人物で、淡窓の信認が篤く塾頭をつとめているという。門下生数千人をだしたといわれる遠思楼の運営にふたりの飛騨人が関わっていたのである。
 こののち弘化七年與鹿は広瀬淡窓の弟旭荘をともなって高山に帰ることになるのだが、まさかこのときは想像もしなかったことであろう。
 上村は家督を継ぐため近く帰郷すると言ったが、まったく思いがけないうれしい出会いであった。
 上村の家は與鹿の家とも近くとしは與鹿の方が上であった
 こどもの頃から面識があり、奇遇を喜び懐かしがった。
 後日、上村は帰郷後、上村木曽右衛門満義を名乗って父の後を継ぎ、地役人となった。 公務で飛騨各地に赴いたが、このときの出張を記録して本にまとめたのが「飛騨国中案内」である。
 日田ではなぜかあまり滞在していない。
 ここで水荘に遊んだ香波の詩がある

 日田をあとにしたその日は守実村まで行って泊まった。
 ここにはすこしぬるいが温泉がでる
 たびの疲れをいやすには願ってもない
吉井で秋雨にうたれた後がすっかり心身さわやかになって耶馬渓に向かった。
 香坡と與鹿の旅は正確に頼山陽の旧蹟をたどる。

 耶馬渓、奥耶馬をはじめここでは十日あまりも滯在をして與鹿とともに画筆を揮い詩をつくった。
 香坡の感動はここにきわまったくらい心を動かされた。
 西遊の旅もいよいよここを離れればほぼ尽くしたことになる。
  青の洞門をぬけ川沿いに下ると豊前中津までは二日とかからない。

 中津港の沿革は古い。
 また、ここでは、臼杵、宇佐八満を訪ねなかったのだろうか。
 難波まで船便である 
記録に残るものをさがしているがまだ見つからない。
 ただ、旅程の前後を考えるとこのあたりで1ヵ月くらいは滯在したと思われるのだが
 ふたりは中津から船に乗った
 帰途、備前の下津井を通ったときは、船は港に入らなかった。
 九州に下ったときを思い出して香坡は感慨を新しくした。
  海上はおだやかで、
 明石をすぎると六甲山が見えてきた。
 脱線するが
 香坡は神戸の六甲山を六児山とかいている
のがおもしろい。
 かつては、むくらのやま、むくらのかわで武庫山、武庫川であった。
 今は川にのみ、その名が残っている。
 今の六甲山系よりもう少し山の範囲が広く北の丹波の国との境あたりまでの山を含んでいたらしい。
 能勢にいたる途中に一庫があり、ここにあるむこやまに「向山」の字を当てている。
 また関東には武甲山があり、やはり「むこのやま」こちらの国名が武蔵の国、やはり「むくらのくに」で関西の武庫とは同義と考えられる。
 
 この武蔵の北が今の群馬県で古くは「けのくに」これを上下ふたつに分けて、「かみつけのくに」「しもつけのくに」それぞれに漢字を当てて「上野の国」「下野の国」となった。
 けのくには「毛の国」であり上下ふたつを合わせて両毛という
 橋本香坡はこの群馬県沼田の人で自ら雅号を「毛山」と名乗っている。

 武庫山では読めない人が多かったので親しめるようにと易しい字を当てた六児山、六甲山にしたらこんどは「ろっこうさん」になってしまった。
 
 春になると山の斜面に馬のかたちが現れるそれを適期に・たんぼの代かきを始めた。その目印になる山を代馬と名付けた、そうするとこんどはこのやまをだいばとよぶひとがでてきた、それではまずいというのでただしく「しろうま」と呼んでもらおうと改名して白馬岳にした、するとこんどは「はくば」とよぶようになった。
 少し前まで信濃四谷とよんでいた駅がなくなっており、それらしき場所になんと「白馬駅」がある。
 われわれの岳人仲間は今でも白馬でないと何か親しめない。
 若いひとは白い目でみるがね。

 長旅から帰るともう年暮れであった
 與鹿は香波とと一諸に伊丹にゆき泊まったが夜具が冷えてなかなか寝つかれなかった
 しばらくまどろむと長崎の多いでが脳裏をめぐった

 香波はこの寝つかれない夜を詩にする
 明ければ安政五年となった
 一月二十二日香波は両親の七回忌と妻の三回忌の法要を営むと、大阪に住むところを探しに出かけた。やがて住まいを決めると四月香波は大阪に移った。
 

◆谷口與鹿と松林飯山
 松林飯山。天保十年(一八三九)二月ー慶応三年(一八六七)一月。
 筑前早良郡金武村羽根戸村(現福岡市西区)に生まれた。幼名を駒次郎、字を伯鴻といい、のちに廉之助とあらためた。飯山は号で、飯盛山の麓に生まれたことにちなむ。
父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、絵が好きで南画を得意とした。五教館教授、片山歓治氏の推挙で藩の御典医についている。
飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが父はこれを嫌い、妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。
十四歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。
飯山は伊丹郷町に橋本香坡をたずねているがこのころのことであろうか。香坡は不在であったが、待つうち、香坡は谷口與鹿とともにすっかり酩酊して明倫堂に帰ってきた。「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、深更にいたるまで話し合っているが、飯山はすっかり香坡に心酔した。
安政四年(一八五七)十九歳のとき幕府の昌平校に入り、ここで学才を認められて詩文係に任命された。
二十一歳のとき五教館の教授を拝命し故郷の大村(長崎県)に帰った。北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。土佐の岩崎弥太郎もその一人である。
文久三年(一八六三)十月、二十六歳のとき五教館の祭主についた。
 渡邉昇、楠本正隆らとともに大村藩が倒幕へと向かう、大村藩勤王三十七士の中心人物
となった。
慶応三年正月、大村城中で恒例の謡初式が行われたが、自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら佐幕派の浪士に襲われて死去した。享年わずか二十八歳であった。このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になるが。慶応四年は明治元年と改元された。明治維新はを迎えたのは飯山の死去一年後のことである。
松林飯山の著述に「飯山文存」がある。

 
◆谷口與鹿と草場珮川
 草場珮川(くさばはいせん)は、天明八年〈一七八八〉正月七日の生まれ、慶応三年〈一八六七〉年十月二十九日没、享年八十歳の長命であった。
字は棣芳、通称瑳助、珮川は後に佩川と書き号である。肥前の多久の人で。二十三歳で江戸湯島の昌平黌に学び、古賀精里に師事した。多久侯に仕え、佐賀藩の儒員となり、藩校の弘道館教授をつとめている。漢詩集に『摂西六家詩集』、『佩川詩鈔』(嘉永六年刊、四巻四冊)があり、『文久二十六家絶句』(文久二年刊、三巻三冊)にも選ばれ、諸家より詩文集の序文、跋文、評語などを依頼されている。
師の古賀精里が幕命を受け、朝鮮通信使にあうため対馬に随行し、約二ヶ月間の見聞を記した『津島日記』があるほか、鍋島藩の命でしばしば対馬に渡り、朝鮮からの使節との通詞にあたっている。
若いとき使節と筆談を交わしているが、のちには不自由なく朝鮮語で話せたという。また日々の出来事を記した『草場珮川日記』が知られる。安政四年に谷口與鹿と橋本香坡は西遊からの帰りに佐賀の草場珮川邸を訪れている。この応酬を知りたいと思い旧佐賀城内にある県立図書館を訪れ、渉猟したが見当たらず、図書館の司書の方が佐賀大学に連絡してくださり、ちょうどその時期は草場珮川が藩主の命で対馬に赴いていたことがわかった。草場珮川とは会うことができなかったのである。
橋本香坡は、篠崎小竹門の後藤松陰とともに摂西六家詩抄の編集に関わっており、谷口與鹿とともに伊丹郷町で酒を酌んでいる。
逢えなかったのはさぞ残念だったろうと思われる。

 
◆谷口與鹿と木下逸雲
 木下逸雲は、寛政十一年(一七九九)長崎八幡町の木下清左衛門勝茂の四男に生まれ
た。木下家の本姓は藤原氏で、代々八幡町の乙名職を勤めている。幼名を弥四郎といい、成人後は志賀之助といった。名を相宰、字を公宰、号を逸雲は号で、如螺山人、物々子、養竹山人、住居を荷香深処、養竹山房と名づけている。諱を隆賢という。
谷口與鹿、橋本香坡と共通の交友があり、與鹿と香坡が長崎を訪れたときは出会いの楽しみにしていたが、逸雲はちょうどそのころ流行した天然痘と取り組んでおり、豊後日田(大分県)にいたため会うことはできず、安政四年の秋に日田の市山亭で会っている。
逸雲は博才な人物で書画、音曲、煎茶にうぐれた才能があった。
遠州灘沖を航海する外国船と富士を一幅の画におさめ「富士山に蒸気船を写したのは余をはじめとす」と興じている。

  
◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一
 谷口與鹿は、まだ高山に居た若いころ、野島玄機というひとから俳句を学んだといわれる。野島玄機は、安永年間に、高山にあった【雲橋社】の講中の人物で、代官所の字役人だったとも言われるが詳細は不明である。
 野島玄機の作ではないが、雲橋社で詠まれた俳句に、

   佛とは 涼しき風の おこりかな
   つくづくと 見ておれば散る 櫻かな

 ほかがあり、尾張で出版された江戸時代の俳書には、雲橋社の講中の人らの句が選ばれている。
 国分寺境内には、雲橋社が建てた、松尾芭蕉の、

   藻にすだく 白魚のとらば 消えぬべき

 が、庭園の池に面して立てられている。
 谷口與鹿は、高山では屋臺彫刻に数々の名品を残した屈指の名工であるが、伊丹郷町では、寧ろ文人として知られた。谷口與鹿の過去帳にも、「文人にて…」とある。
 伊丹郷町では多くの人らとの交流があり、茶会、俳諧の席には必ずといってよいほど招かれて、俳句を詠んでいる。その何首かは、俳書として出版されている。
 大和田屋金兵衛は、酒造家の大番頭で、俳句の号を照顔齋(てるがおさい)といった。伊丹風俳諧で知られる上島鬼面(うえしまおにつら)を意識してつけた号である。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二
 谷口與鹿が伊丹郷町(兵庫県伊丹市)を訪れた嘉永三年(一八五〇)は、江戸時代、文化ー文政期に江戸送りの酒を最盛期には年間二〇万樽近く送り出している。しかし、その殷賑を極めた繁栄もさすがに翳りをみせはじめたころであった。
 飢饉が続き、米を醸造に当てることを幕府が禁じたためである。
 しかし、町民の間では依然として繁栄時の町民文化は盛んであった。なかでも茶の湯と俳諧の席はしばしば開かれている。茶の湯は、飛騨高山の城主金森可重(かなもりありしげ)の長男、金森重頼(かなもりしげより)にはじまる【宗和流(そうわりゅう)】が行われていた。
 金森重頼は、号を宗和といい、金森宗和とよばれる。本来飛騨高山の城主を嗣ぐ身分であったが家督を弟に譲り、自らは母とともに京都に出た。京都には、大原三千院の庭園、鹿苑寺金閣には南天の床柱の茶室、曼珠院庭苑、紫野大徳寺塔頭の真珠庵、庭玉軒には、建物の内に蹲(つくばい)を設け、七五三に岩を配する小庭などが宗和の遺構として知られる。宗和流の茶室には、千家茶室に見られる躙口(にじりぐち)はなく、刀架石もない。武士は刀を手放さないからである。従って袱紗(ふくさ)は腰の右につける。高山にはかつていくつかの宗和流茶室があったがいずれも三畳臺目立の宗和好みといわれる茶室であった。千家の茶室とは爐の位置が異なり、千家などの茶人が宗和の茶室を使うときのお手前は、いわゆる逆勝手となる。茶筅は百二十本、中央の泡切はすこし長めに仕立てられる。
 茶室の席入りの時も主人は床に手をついて挨拶することは無い。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 三
 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧家では、江戸時代以来、茶道は言うにおよばず、冠婚葬祭などの禮法はほとんどは宗和流に則って行われてきた。
 婚礼では婚礼料理は朱漆塗の膳に朱椀が用いられたが、飯椀、汁椀、つぼ、ひら、かしわん、などは地元の木地師にお願いして特別に轆轤をひいてもらい、能登の輪島まではこんで、漆塗りをしてもらった。江戸時代から、明治、大正期には、稲忠さんにはずいぶんお世話になったものである。八寸は加賀の九谷に誂えた。のちには、飛騨渋艸焼きの磁器が使われている。渋艸は高山市の西部の岡本町にある窯元で、小字を【しふくさ】といったところから地名が窯元の名称になった。詳細は不明であるが、天保時代に開かれたのではないかといわれる。奈良県安堵むらの陶芸家で名高い富本憲吉氏が戦時疎開していたとき、この渋艸で作陶していたことがある。渋艸焼(しぶくさやき)は高雅な作風が好まれ高山のみならず各地から訪れる人は多い。この八寸には雌雄の鱚(きす)二匹を一本の竹の平串に刺し、焼いたものが使われたが婚礼の席には必須の縁起物で、婚礼が決まると相当前から越中の魚問屋にお願いしてそろえてもらうことであった。
 花嫁行列には青年団が総出で先頭に立って、【俄(にわか)】を演じ、高砂の尉と姥(じょうとうば)、鶴亀などをわら細工で拵え、新郎の家に届け、床の間に飾られた。
 火登園は長いものは三日、五日、長いときは一週間におよび、訪問客は朝夕を問わず何度でも押しかけ祝詞を述べたが、どのつど来客には三汁五菜を出してもてなしたが、これには組内のご婦人たちの奉仕があった。
 茶懐石では、宗和流の会席料理が出されたが、高山では今はほとんど行われず、京都、金沢の老舗には今も伝えられているところがある。
 

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 四
 高山の宗和流茶道は、一代相続で、世襲を行わず最も優れた高弟たちに文机が引き継がれ守り伝えられてきた。
 森本栄樹氏は、高山市天満町にある天満神社の宮司をつとめられ、宗和流を継いだ方で、
『飛騨に伝わる宗和流茶道』の出版にあたって、筆者を何度かお訪ねになったが、そのころでもすでに、高山では宗和流の懐石料理が出せる方は無くなっていたと話されていた。
 京都では、近衛家に宗和流が行われていたようであるが、明示のころには既に行われていなかったようである。近衛家に伝わっていた宗和流の道具や書がが、高山の宗和流に御下賜になっているので、これはいまもたいせつにされているはずである。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 五
 石川県金沢市は前田公の加賀百萬石の城下町であるが、ここに宗和流茶道が伝えられ
ている。金沢に宗和流が伝わったのは加賀藩三藩主前田利常のときで、藩主自ら金森宗和に話があったが、宗和はこれを辞し、二代目の七之助方氏が仕えるようになった。
 こうして宗和流は金沢に移り、以後十数代にわたって仕えらが、当初は一七〇〇石、そのあと次第に加増があって、後には約七万石が与えられたと聞いたことがある。しかし、金森氏の直系は七代の知直の時に絶えている。
 十数代続いた金森宗和流は、能登に起こった一向一揆のとき、鎮圧を命じられた当主が自害して宗家は絶えた。
 金沢では新年の茶会で、床の間に椿を活けるが、主として、【西王母】、【初嵐】、【白玉】など他流では聞きなれない椿が用いられる例が多いようである。最近は【野々市】もよろこばれる。とくに雪椿系の椿は花の上に葉一枚が覆うものが珍重される。【霜除葉(しもよけば)】とよばれる。宗和好みだと伝わる。
 金沢城の東南、たつみの方角、兼六公園の一角にある【成巽閣(せいそんんかく)】は、文久三年(一八六三)の築造といわれ、重要文化財の指定を受ける建物であるが、金澤苑から曳いた水を邸内に取り込んだ【流れ蹲(ながれつくばい)】という様式になっている。これも冬の茶会で外に出ないで済む工夫で、京都大徳寺。真珠庵の庭玉軒とおなじ思想がうかがわれる。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 六
 飛騨高山(岐阜県高山市)と、泉州岸和田(大阪府岸和田市)は、金森氏、あるいは、金森宗和を通して因縁浅からぬ関係がある。
 岸和田は、室町期には単に【岸】とよばれていたようであるが、一説に、建武元年(一三三四)、楠木正成の一族である和田高家が、「岸」の地に城を築き、この故をもって「岸の和田殿」と呼んだのが、【岸和田】となったといわれる。
 戦国時代もほぼ終わりを告げようとした慶長九年(一六〇四)、豊臣秀吉の叔父にあたる小出秀政の死後、その子、小出吉政は出石藩(兵庫県)から和泉国岸和田藩に移封され、
岸和田城主となって入城した。当初の家禄は三千石、のちに三万石に加増されている。
 戦国時代の岸和田は、紀州根来寺を監視する重要地であった。大坂夏の陣のとき、金森可重(かなもりありしげ)は大坂城の戦には加わらず、小出大和守吉英の岸和田城の守備を命じられた。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 七
 岸和田は、丹波國出石(兵庫県)を領した小出秀政の死後、その子、小出吉政のとき岸和田に転封となった。以後、小出秀家、小出三尹へと家督が引き継がれた。この小出三尹
のとき、【陶器藩】初代藩主として一万石で封じられた。三尹は、秀政の四男である。以後、小出有棟、小出有重、小出重興と続いたが小出重興には子供が無く、陶器藩は四代で断絶した。
 陶器藩初代藩主の小出三尹は、金森宗和の茶道の弟子であり、その妻の菊は、高山城主金森可重の三女であり、宗和の妹にあたる。金森可重が岸和田の警備にあたって以来続いていた圓がむすばれたのであった。陶器藩の過信には、宗和流の茶をたしなむものだでてきたのも当然といえよう。
 陶器藩という名称は珍しいが、和泉国大鳥郡陶器庄(大阪府堺市)に陣屋がおかれた小藩である。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 八
 黄檗山 萬福寺
 京都府宇治市木幡(こわた)にある、黄檗山萬福寺は、隠元隆g禅師(いんげんりゅうきぜんし)が六十三歳のとき、度重なる徳川幕府の招請にこたえ、承応三年(一六五四)に中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺から来日し、万治四年(一六六一)に開基された巨刹で、山門を一歩はいるとそこには、九万坪といわれる広大な敷地には、中国風の整然とした伽藍が並び身の引き締まる思いがする。
 本尊は弥勒菩薩であるが、豪快に笑う布袋和尚が本坐に座る。中国では布袋和尚は中国に現れた虚空蔵菩薩とする思想があるからである。
 江戸時代の俳人、菊舎尼は、

   山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄

 と詠んでいる。
 昭和四〇年のはじめころ、正月に訪れたときには、写真家の土門拳氏が凍てつく堂内で本の撮影に取り組んでおられた。
 この地に萬福寺の建立が決まったとき土地は、近衛家の所領であった。幕府は近衛家に対し代替地を用意した。それが伊丹郷町である。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 九
 戦国時代有岡城に一世代を築いた荒木村重が滅んだあと荒廃していた伊丹は、近衛家という公卿の所領となった。大名の所領地を藩というのに対し、【摂領】という。
 大陸からもたらされた麹(こうじ)をつかった醗酵技術は小豆島(香川県)の醤油となり、紀州湯浅(和歌山県)、房総(千葉県)へと伝えられいまも、他の追随を許さない定評を得ている。
 越前に伝わった醸造技術は、東大寺(奈良県)の僧らにより、味噌が醸造された。この醸造技術を応用して酒が醸造されたが、酒の醸造家に大和屋、大和田屋などの屋号が多いのは
苑ゆえだといわれる。
 摂津池田(大阪府池田市)に伝わり、丹波から、天王七曲がりの急坂を越えて、酒を醸造する御倉米が届き、丹波杜氏が訪れた。
 四条派の画家で知られる松村呉春、松村景文の兄弟を生んだ池田は酒の町であり、いまも【清酒呉春】は、容易に愛飲かに届かない銘酒として知られる。
 池田の繁栄は次第に伊丹に伝わった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 一〇
 伊丹郷町の運営は、近衛家から委嘱されたが、約二〇名の宿老をおきその上に総宿老がおかれ、白雪を醸造する小西家がその職についた。宿老とは、藩における家老、総宿老は、大老に相当するといえるだろうか。
 しかし、徳川幕府の支配を受けない伊丹郷町には、参勤交代の制度は無く全国的に見ても非常に自由な町であった。
 伊丹郷町の酒の醸造はやがて、池田をも凌ぐようになった。酒の販売によって得た財力は巨大なものであり、諸国の文人墨客が訪れるようになった。郷校・明倫堂が設置され、橋本香坡が学等に就任してさらにその数が増えた。
 伊丹郷町の繁栄振りを記す一緒がある。近年伊丹文藝叢書として刊行された、『茶の湯百亭百回記』である。伊丹郷町で開催された茶会の記録であるが、眼を惹くのは用いられている道具の豪華さもあるが、宗和作の花入れ、茶杓、消息の数々である。伊丹郷町の茶の湯は近衛家に行われていた宗和流が主流であった。また茶の湯の席は、はいかいの席でもあった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十一
 当初、谷口與鹿が伊丹郷町を訪ねたときは、伊丹郷町の猪名野神社の祭礼で曳く屋臺(山車)建造のためであった。しかし、與鹿が伊丹郷町をたずねたころは、すでに伊丹郷町の繁栄は峠を越して、経済が下向きに転じたときであった。その建造資金の調達が思うようにゆかなかった。しかし、酒造家の旦那衆との交わりが重なり、俳諧、茶の湯、音曲、絵画を通じ、また伊丹明倫堂の橋本香坡との交友が深まり兄弟以上となった。香坡の妻の静がまたよく面倒を見てくれた。静は上州沼田藩(群馬県沼田市)の平尾戟の娘で、香坡の父の坦翁が、沼田藩士だったこともあって迎えた妻であった。與鹿はそこで代用教員のようなこともしていたらしい。
 

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十二
 谷口與鹿の茶の湯の師匠は、中川吉兵衛であった。冬頭町にあった旧家、中川長衛門の分家筋にあたり、高山市(寺内)下一之町の屋臺、【布袋臺】の彫刻を始め、西之一色町の東照宮本殿に立派な四神を彫ったが、この彫刻は今は見当たらない。諏訪の和四郎こと、立川
和四郎の信頼が厚く、委嘱されて、各地の彫刻を手がけている。信州安曇野の有明山神社の
裕明門は【日光東照宮の用命門、信州有明山の裕明門】と言われるほど立派な建造物で、立川一門の彫刻が配されている。そのまえにある手水舎の工匠は、斐太ノ工・山口権之正で、中川吉兵衛の弟子だったといわれる。

◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十三
 谷口與鹿がはじめに浪華の土を踏んだのは、今橋にあった篠崎小竹の篠門・梅花舎であった。ここで娘婿である後藤松陰を知った。松陰は、美濃の出身で人あたりのいい、物腰の穏やかな人だったようである。頼山陽ら関西以西の著名詩人六名の詩を集めた『摂西六家詩鈔』の編纂は後藤松陰の手によるが、当為頼山陽は、後藤松陰を評して【才あって、気たらず】と評している。後藤松陰は與鹿の晩年まで、その後長い付き合いになった。後藤松陰が伊丹郷町にきたときに一緒に猪名川を舟で下った様子を詩に詠んだが、與鹿は竹製の酒容器に彫刻した合作があえい、池田氏の某家の所蔵になっている。高山の赤田臥牛の孫にあたる誠軒も梅花舎をたずねており杜氏はまだ健在だった篠崎小竹と面談している。小竹の日誌に記述がある。
 蝦夷の物産を扱って巨富を築き、陸奥の大間(青森県)に居館を構えていた、飛騨屋久兵衛は浪華の天満に居住していた。武川久兵衛の屋敷があった。久兵衛は、【鳩亭】の号が遭ったらしい。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十四
 武川久兵衛邸の近くに酒造家の鹿嶋屋があった。岡田家といい與鹿が後半生を通じてお世話になった家である。伊丹郷町の宮前に醸造所と屋敷があった。岡田家の当主は俳号を糠人(ぬかんど)と言って俳諧をよくし、ほとんど伊丹郷町を住まいにしていた。明倫堂の橋本香坡とは、篠門の同門である。
 與鹿はその伊丹郷町の岡田家の離れをあてがわれていた。明倫堂へは、伴家の裏庭伝いに通じていたらしい。與鹿は至極当たり前のようにここを通っていたが、伴家の主人は伴善衛門といい、伊丹郷町の宿老の一人で、面倒見が良い反面、いわゆる口やかまし屋であった。與鹿はたびたびつかまって、説教を食らっている。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十五
 このころ、伊丹郷町に商才に長けた傑出した人物がいた。
 梶曲阜(かじきょくふ)と言い、通称を大和田屋金兵衛、俳句の号を照顔齋(てるがおさい)
と言った。上島鬼面(うえしまおにつら)を意識した号である。猪名野神社の境内には大和田屋金兵衛の名で寄進した立派な燈籠があり、多くの諸国の俳人と交わっている。
 與鹿を伊丹郷町に招いたのは。【劔菱】の酒造家である坂上桐陰、それにこの照顔齋の意見が強かった。劔菱は、頼山陽が最も好んだ伊丹の酒で、母親を伴ってきたときには母には白雪を進めたと伝わる。当時の醸造は現在と違って管理が難しく、苦労して仕込んでも腐敗してしまうというようなことも少なくなかった。そのため、劔菱では醸造にあたっては、大阪府の西国四十八箇所の一ヶ寺、勝尾寺に近い箕面の滝の水を寒中に酌んで加えた。劔菱の剣は箕面の滝不動明王の倶利伽羅(剣)であり、飾樽(化粧樽)の中央に剣、右上に瀧水、左には伊丹の銘酒であることを示す、【丹醸】の文字がある。文人好みの酒といわれ、愛飲家が多いが、現在は、灘の酒になっている。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十六
 …朧月夜との仲が世に知れ、困惑した光源氏は身を退くこととし、須磨へひきこもり、侘び住まいをはじめる…
 『源氏物語』、【須磨】の冒頭である。谷口與鹿は橋本香坡、岡田糠人、照顔齋ら伊丹の諸友らとこの須磨に遊んでいる。現在須磨離宮公園の近くにある月見山で須磨の中秋の名月を詠む外界が行われたのである。昼は「青葉の笛」など平敦盛の遺品を伝える須磨寺に参詣し、のぼり来る名月を見ながらの俳句の会であった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十七
 谷口與鹿が、三本松の妓楼で遊び呆け、勘定ができず、褌まで取り上げられて路上に放り出された話はすでにしたが、破れた絽の羽織を頭からかぶって、明倫堂の裏口からすごすごと現れたときには、さすがに香坡の妻静、女中のまつは仰天した。まるで堤燈のおばけである。尻など丸出しである。しかし、それが與鹿だとわかると顔を見合わせて辛抱していたが、堪えきれずに笑い出した。
 騒ぎを聞きつけて香坡も現れる。香坡はしばらくその様子を見ていたが、ひとこと、「愛婦の病」かと言った。静、何か着物を出してあげなさい。
 そこへ伴善右衛門が顔を出し、この様子を見ると顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。「あんた、ええかげんにしなはれや!」。
これが口癖である。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十八
 伴善右衛門、橋本香坡、鹿嶋屋の岡田糠人の三人が與鹿を連れ、三本松のくだんの妓楼を訪ねた。主人を呼び出すと伴善右衛門は大声で怒鳴りつけた。「あんた、ええかげんにしなはれや!」。主人は青くなった。伴善右衛門は伊丹郷町切っての実力者である。間違ってもこの人に逆らえば、たちまち所払いにもなりかねない。善右衛門は與鹿を指差し、「この方は、飛騨の高山から来てもろうた、われわれの大切な客人や」。「へへえ」。主は平身低頭、ただただ恐れ入っている。
 鹿嶋屋の岡田糠人は、鹿嶋屋の屋号の入った【通い帳】を取り出すと妓楼の主人に渡しながら、「これから與鹿さんがお見えのときはよろしゅう頼みます」と頭を下げた。
 「へへえ」、妓楼の主人はひたすら恐縮している。「掛け(つけ)」で遊郭遊びをする話なんてついぞ聞いたことが無い。
 伊丹の明倫堂には各地からの客が絶えない。香坡と與鹿は、それらの客と妓楼で歓談、飲食する。しかしその代金は鹿嶋屋が黙って支払い苦情ひとつ述べたことが無かった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 十九
 梶曲阜(かじきょくふ)、通称大和田屋金兵衛こと照顔齋は、各地の俳人と交わりがあったが、その交流を物語る例を挙げておこう。
 奥州須賀川(福島県須賀川市)に、市原たよという女性がいた。通称は須賀川のたよ女の名で知られる。安永五年(一七七六)に裕福な酒造家に馬あれ、七人の兄弟とともに育てられたが、婿を迎えて家業を継いだのがこのたよであった。
 ところが、多予が三十一歳のとき突然不幸が訪れた。夫の有綱が三人の庫を残して先立ったのである。家業と子育てで艱難の暮らしが続き、ついに過労でたおれたが、このころ、近くに住む、俳人の石井雨孝にすすめられて、俳句の道を志すようになった。
 たよは八十九歳で生涯を閉じるまでに、およそ四千句を残し、句集に『浅香市集』ほかがある。晩年に、松尾芭蕉の、

  風流の はじめや奥の 田植え唄

 の句碑を、十念寺の境内に建てている。
 須賀川のたよ女は、伊丹郷町の俳人とも交流を持っており、照顔齋に味醂(みりん)の醸造方法を尋ねており、照顔齋は懇切に教えている。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二〇
 梶曲阜(かじきょくふ)、照顔齋が、商用で江戸に旅したときの様子を克明に記した自筆の道中記『照顔齋道ノ記』がある。これを見ると、旅は東海道を下り、帰りは中山道を通っている。須賀川のたよ女とは江戸で逢ったはずだが、その記録は見当たらない。木曾についたとき、土産を買っているがそのときの句に、

   桶の輪を 藤で曲げたる 木曾土産

 とある。よほど珍しかったらしい。伊丹の酒樽は、醸造用から、販売用まで竹の箍(たが)で締めたものだった。その竹材は、西は有馬、北は佐井寺(吹田市)、水無瀬から京都洛西にまで及ぶ厖大なものであった。現在もなお竹林が見られる。神足(こうたり)の錦水亭はその筍料理で知られ、旬の季節には訪れる人が多い。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二一
 谷口與鹿の肖像を写した絵が二点知られる。まだあるかもしれないが、現在知られているのは、淹留先の岡田家の主人である糠人が、周甲(還暦)を祝して出版された俳句集『かさりたる』で、「かさりたる」とは、【飾樽】のことで、よく神社などに奉納してある綺麗な薦で巻いた酒樽のことである。與鹿はこの冒頭に自筆の自画像を描いている。もうひとつは、照顔齋が、伊丹郷町とかかわりのあった俳人らに自筆の一句を書かせて、照顔齋その人物の似顔絵を描いたものである。この本には、與鹿の、

   枯れそうな 気色も見せず 鬼薊

 の句があることはわかっていたが肝心の肖像画が描かれた本を見る機会が無かった。このことを知ってから十数年も経ってから、はじめて現物を見る機会があった。はやる心を沈めながらその箇所を開いたときはあっと驚いた。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二二
 照顔齋が描いた谷口與鹿の似顔絵とは、驚いたことになんと後ろ向きの姿だった。鶴毟衣を着て、髪をあげて総髪にし、まとめてからげ、背中を向けて胡坐をかいて座っている。  サトイモ科、テンナンショウ属の植物に、マムシグサというのがある。飛騨地方では方言で「へんべのだいはち」とよんでいる。へんべは蛇のことである。
 直射日光の当たらない半日陰の山道などでときどき見かけるが、花(佛炎苞)は淡緑色から暗紫紅色で、蛇が鎌首を擡げた姿に似ていて、あまり気持ちのよいものではない。群馬県でたくさん作られている蒟蒻(こんにゃく)はこの仲間である。
 ところが、このマムシグサは案外はにかみ屋で? 人の通るほうを向いて咲いているものはほとんど無い。
 與鹿の似顔絵を見ていてふと気がついた。
     
   枯れそうな 気色も見せず 鬼薊
 
 葱坊主のような頭はまさに鬼薊であり、「枯れそうな気色も見せ」ないのは、谷口與鹿が自身を詠んだものであった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二三
 高山市上一之町に谷口與鹿が作った刳り貫き盆がある。一枚の板に鯉を彫っただけの一見平凡な作である。観覧車も與鹿作と気づいても、さほど気にせず行過ぎる。
 池などで鯉に麩などの餌を投げ与えると、鯉は水面近くまで浮いてきて、水輪ができる。この一瞬を盆にしたものだが、水輪は、天然の年輪(木目)であり、この年輪を見て鯉を彫る趣意がわいたものである。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二四
 安政年間に、【花ノ本 八世 林□(□は文字なし)】という俳諧の師匠が伊丹郷町にしばしば招かれている。伊丹の俳人が出版した俳句集などにも名が見えるから、伊丹郷町の俳人らとは相当親しい交わりがあったようである。
 【花ノ本】とは、連歌、俳諧の世界で、頂点を極めたものに与えられる最高の権威と名誉の称号であり、【官許】である。この階位を授与する権限は京都の二條家にあった。
 連歌では里村昌琢がこの称号を授与されており、里村家がこれを受けている。俳諧では加藤暁臺が許しを得ている。暁臺は現在の名古屋中区の出身で、享保一七年九月一日の生まれ(一七三二) 、没年は、寛政四年正月二十日(一七九二) 。京都市の東山区に居住した。墓は名古屋市にある。
 生前の名前は、周挙、通称は平兵衛。俳諧の号に買夜子、他朗、暮雨巷などがある。宝暦十三年(一七六三)には、『蛙啼集』、安永元年(一七七二)に『秋の日』を刊行している。
 また、天明三年(1783)には、滋賀県大津市の幻住庵などで、松尾芭蕉の百回忌追善俳諧を興行し、『風羅念佛 法会の巻』を刊行した。
 尾張(愛知県)を中心に多くの門人がいたが、 越後の良寛の父、山本以南が暁臺と師弟関係を結んでいる。
 この【花ノ本 八世 林□(□は文字なし)】から、梶曲阜(かじきょくふ)、通称大和田屋金兵衛こと照顔齋に、【花ノ本】の照合を許す【官許】が与えられる報らせが届いた。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二五
 照顔齋は、花ノ本の称号授与を受けるyため、花ノ本 八世 林□(□は文字なし)をはじめ、谷口與鹿、橋本香坡、岡田糠人、それに伊丹郷町の俳人たちがうちそろって京都に上った。仙洞御所での拝受も無事に西之一色町終わり、引き続いて、観月会に移った。当時の記録には【月の御会】とある。おりしも仲秋の名月である。
 ここで與鹿は帝に自作の香盒を献上した。帝は親しくこれを手にとって観賞されたが、いざ蓋を開けて中をごらんになろうとしたところ、驚いたことにこの蓋が開かないのである。居並ぶ公卿たち数名もこれを空けようとしたが、やはり蓋はあかず首を傾げるばかり。香盒は、一回りして帝の前にふたたび戻った。この有様を固唾を呑んで見守っていた伊丹郷町の人々は青くなった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二六
 このとき、いったん昏れた外が、ふたたび朧に明るくなってきた。京都東山に平家物語に曰う、「三五夜中新月白く冴え」た仲秋の名月がのぼりはじめたのである。
 異変はこのとき起きた、献上臺の上の香盒の兎が静かに東山のほうに向かって、回りだしたのである。耿々とした名月が東山の峰を離れたとき、兎は、ぴょんと跳ねたと見るや香盒の口が開いたのだった。
 孝明帝はたいへん驚かれ「おお」と驚きの声をあげられ、谷口與鹿が作った香盒を凝視されたのだった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二七
 ここで、孝明帝より所望があり、谷口與鹿は琴を弾くことになった。飛騨高山を出るとき以来携えている鑑製琴【浅水】をとりだし調律を終えると弾きはじめた。かつて、備前鴨方の藩士であった浦上玉堂の所持していた、【霊和】とおなじにつくられた七弦琴である。一般に「琴(こと)」とよばれる楽器には、箏(そう)と琴(きん)に二大別されるが、その大きな違いは、箏は、琴柱(ことじ)がたてられるが、琴にはこれが無い。琴には一弦琴、二弦琴、七弦琴があり、與鹿が日常的に演奏していたのは一弦琴か二弦琴であった。いずれも自作琴である。
 霊和は、中国からの舶載品で、【伏羲(ふっき)】とともに中国でも名琴として名高い。
 浦上玉堂の所持していた霊和は、日向延岡藩主、延陵公の旧蔵品であった。浦上玉堂の手に渡ってからは、【玉堂琴】と呼ばれることが多かった。與鹿が弾いている琴は浦上玉堂が飛騨高山に来たとき、中川吉兵衛によって作られたものである。與鹿は、催馬楽の浅水を演奏したのであった。
 孝明帝はたいへんなご機嫌で、弾き終わると、淡竹の笛【初雁】のご下賜があった。


◆谷口與鹿 伊丹風俳諧 二八
 一同は宿に下がり、大宴会のあと京都で一泊したあと、翌日は中書島で三〇石舟に乗り込み淀川を下った。かつて一世を風靡した広沢虎造氏の浪曲、清水次郎長伝でよく知られる名調子【森の石松 金毘羅代参】の森の石松も乗った、かの三〇石舟である。橋本香坡は始終無言で深く考えに沈んでいた。
 谷口與鹿は、宿酔いか、疲れたのか、寝込んだまま動きもしなかったが、やがて、舟が枚方(ひらかた)の湊について、名物のくらわんか餅の売声が聞こえるとようやくもぞもぞと動き出した。
 香坡はしんみりと與鹿に話しかける。
 「ひどい酒だったなあ」
 昨夜の月の御会で振舞われた酒のことを言っている。酒の銘柄は【緑川】、数ある丹醸野中でも屈指の銘酒である。しかし、出された酒は、饐えて、腐った酢のようであった。孝明帝は何事も無いようにそれを口にはこんでおられたが、香坡はこのことが気にかかるのである。
 実際、幕末の皇室の御台所は火の車で、最低のそのような酒でなければ到底買うことができないのであった。
 ついに言葉に詰まって、香坡は落涙する。
「われわれは、毎日のように美酒が呑めるというのに……」
あとは言葉にならなかった。
舟は、大坂の八軒家の船着場に無事ついた。
よろくはこのときの酔おう酢を、

   よともやはたも 寝て過ぎるうち

 よともやはたもとあるのは「淀も、八幡も」の意で、八幡は【男山岩清水八幡宮】のことである。麓は橋本で、妓たちの嬌声が交わされ、三弦、鼓の音がひびく湊であり、伊丹の一行はここで下船の予定だったが、與鹿があまりにも熟睡していたので仕方なく素通りしたのであった。
 照顔齋はのちに與鹿のことを【無醒】とよんでからかっている。


◆谷口與鹿 天誅組と高取城
奈良県高市郡高取町
 文久三年(一八六二)八月、孝明天皇の大和行幸がきまり、これを布告された。孝明天皇は皇居をあとにされたが、おもてむき大和国畝傍山稜に詣で、陵前で攘夷断行の勅命を下すことにあり、かねての手はずどおり、天誅組が呼応して旗揚げすることになっていた。八月十四日、吉村寅太郎等が京都東山の方廣寺で、公家の中山忠光を主将に天誅組が旗挙げを行った。中山忠光はこのとき弱冠十七歳だったという。
 八月十七日、尊王、攘夷を旗頭に天誅組が決起した十津川郷士らと合流して、まず行動を起こしたのは五條代官所の襲撃であった。この襲撃はみごとに成功し五條代官の首をとり、五條御政府を樹立した。孝明天皇は笠置(現京都府と奈良県の県境近く)まで進まれたが、ここで異変が起きた。
翌十八日、薩摩と会津の謀議による政変で、三条実美ら尊皇攘夷の公卿十九名が参内停止を申し渡され、「七卿の長州落ち」が起きた。
 孝明天皇の大和行幸は急遽中止となり、わずか一日にして天誅組は賊軍扱いとなり
事を重視した幕府は、郡山藩に天誅組の追討を命じ、二十三日にはさらに
高取藩をはじめ大和の各藩に、つづいて二十四日には、和歌山藩、彦根藩、藤堂藩
などに天誅組志士の追討を命じた。しかし、いったん行動を起こした天誅組はあとに戻れず、高取城を攻めたがついに及ばず敗退し、志士らは四散したが、追捕の手は容赦なくのび、首魁の藤井蘭田らは、吉野の鷲家口(わしかぐち)で幕府の軍勢に包囲され討ち死にした。しかし、一部田中光顕らはきびしい包囲から逃れている。
 元冶元年(一八六四)禁門の変(蛤御門の変)が起こり、長州藩は薩摩、会津、桑名各藩の連合軍に敗れ京都を去った。これにつづいて長州征伐が行われ長州藩は敗れた。
慶応元年(一八六五)長州藩の高杉晋作らが奇兵隊を組織して挙兵、尊王倒幕派が藩政を掌握した。幕府はこのあとふたたび長州征伐を行ったがこんどは幕府軍の敗退となった。 さらに孝明天皇の急死(岩倉具視による暗殺という)、幕府の崩壊を経てあわただしく明治維新を迎えることになった。
 伊丹郷町の明倫堂の塾頭であった、橋本香坡は、谷口與鹿とともに天誅組の首魁であった、藤本鉄石、藤井蘭田、吉村寅太郎、森田節齋、伴林光平らと交流があり、長州藩が蛤御門の変で敗れて都落ちするとき、藩士らにおにぎりを振舞ったが、これが幕府に咎めを受けることになり逮捕された。取り調べのあと一度は帰されたが、所持品の中に藤井蘭田の書状が見つかったことから再逮捕。大阪下寺町にあった新撰組屯所の囲われここで獄死した。谷口與鹿の死去後わずか一年のちのことであった。死去後死体は下げ渡されることはなかった。伊丹郷町黒墓には生前香坡が両親の墓を定め自らの生壙を設けたが、ここに納骨されることはなかった。橋本香坡は生前、自らの死を予見していたといえる。


◆名残月
安政三年。十月四日。
 谷口與鹿は山口米女より橋本香坡とともに、山口大乙を偲ぶ俳諧の席に招かれた。香坡の妻益子死去半年のちのことである。場所は、伊丹の願成山正覚寺であった。このときの詠草はのちに「なこ里月」という書名で出版された。この俳書に跋文を書いたのは橋本香坡である。
以下に全文引用する。

なこ里月

太乙業暇好俳偕並
嗜茶愛酒良展美景未
嘗廃賞□□一□之風
流人也以甲寅之歳九月歿
鴈実可惜哉  其室及
嗣子等諸友謀集平生所
作及四方唱和與其大祥祭
所奠諸家之句以為一巻
贈之同好開新巻□居士
之把杯念華欣然於雪
月花之間也可以想見矣矣
居士姓山口名恭伊丹人也
業醸酒太乙其号也
安政丙辰 □月香坡通 序

                  通印  大路

安政三年丙辰十月四日於願成山
大祥忌追善正式の俳諧

        太乙居士
名残りして雲もへだたぬ月夜かな
一羽遅れて声寒き雁   米女
塞がせる窓に菊のかこもるらん            梅賀
見習いもなき役をつとむる               喜久里
□□□□□の□しきのとうさに            曲阜
ぬるむにつれて淀む水おと                太丈
何時のまか土筆のたけて影を杲      糠人
思い出しては書す短冊          白雀女
不自由さは長き房の奥住まい       梅陰
綟子の蚊帳のにおいたちけり              春人
桶に輪を藤で曲げたる木曽土産            環春
呼べば畑から戻る飼鳩                    古樵
小庇はくれぬうちにも月の澄む      鳴々
むかしめいたる大鼓念仏         元機
舟揚げの西瓜を山につみあげて            孝月
よき雨降りし八専の明                    岳明
花つぼむ木々も静かな朝の内       可大
春まだ寒きはりまぜの文                  桃雄
鴬の餌を摺るうちも舌つづみ              橙江
もろうた絹の名のしれぬなり       藤涯
言いしことの嘘にもならぬ気しんどさ   金陵
夢のここちぞ枕橋こす          梅賀
ちりかかるまでは□□□□雪の空     春人
□下げてくる□□の□                    糠人
毛羽織に頤の毛のもつれ合い       岳明
平家の筋は出さぬたしなみ                梅陰
道分けの石方□□建てらるる       藤涯
いのらば利生ありそうな楠        曲阜
夫れだけのかけには明るき三日の月    喜久里
雨戸を繰ればセキレイの啼く       鳴々
中殿の献上もはやしまいなり       古樵
手足あらえば気の楽になる                環春
する墨の音に閉まりし机もと       桃雄
日和定まる家普請の中          太丈
南無やなむ散りての後も匂う花      林曹
つらなりうかん苗代の露         □筆

この「むかしめいたる太鼓念仏 元機」とあるのが與鹿。元機は俳号である。

この翌月の十一月、橋本香坡は自ら生前の墓をたてた。


◆谷口與鹿死去
 谷口與鹿現在は、現在の猪名川町の一庫(ひとくら)温泉に、かって伊丹明倫堂の塾頭だった橋本香坡と保養に出かけたが滞在中に死去した。元治元年九月、享年四十一歳であった。
香坡は当時すでに大坂にでていたが、伊丹の諸友ともはかって、かねて與鹿が描いた十六羅漢図をかけて葬儀をおこない、墨染寺に葬ったり、墓がたてられた。墓誌は橋本香坡が撰んだ。
よく與鹿の記述に「酒が好きで、墓も徳利がたになっている」とあるのは誤りで、正しくは印紐型である。
過去帳に「文人にて」とあるが、いかにも與鹿の墓にふさわしい。
この橋本香坡もこののちわずか一年後に不慮の死を遂げることになる。
(寥郭堂文庫資料)。


◆谷口與鹿の墓
 橋本香波の媒酌で高畑の娘を妻女として迎え、三子をもうけたという話が残っているが事実は不明である。

谷口與鹿の墓碑

墓は印紐型

 與鹿は酒が好きで、死後も酒徳利の形の墓を望んだ。という言い伝えがある。
 避けず揮だった與鹿の逸話を助長するおもしろい話しで、説得力があるので信ずる人もいる、だが、実際には、 

 墓は印鑑のつまみに凝らせた「印紐型」でいかにも文人の面目を感じさせてくれる。


  與鹿の死を惜しむ人達の寄付で建てられた。
わけても香波の悲しみはいかばかりであったか。
 香波は自ら墓をデザインし、墓誌を撰んだ。


 葬儀は墨染寺で執り行われた、このとき堂内に與鹿の画がいた十六羅漢が十六幅かけられたのが人目をひいた。生前墨染寺にある兆殿主筆の宝物である十六羅漢を参考に描いたものである。
 この十六羅漢像の行方が不明であった。
 当然墨染寺にあるものとばかり思っていたのであるが、私が訪ねた節は同寺にはないということであった。
 再三おたずねしたが、住職は寺宝の兆殿主の十六羅漢はあるが、そんなものは聞いたこともない一体どこで聞いてきたか、と大変な剣幕で、ほうほうの体で辞したのである。
 後日十数年たって、伊丹博物館主催の展示会において出品されたのを見せていただいたのは感動であった。

 やはり存在したのである。
 

 ◆橋本香坡死去


 

 ◆日本山車論
目次
 ◆左甚五郎傳
左甚五郎傳
 ◆斐太ノ工
斐太ノ工
 ◆谷口與鹿
谷口與鹿
 ◆論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆阿波國
◆安房國
◆安藝國
◆伊賀國
◆隠岐國
◆越後國
 ◆古代祭祀と神南備山
古代祭祀と神南備山
 ◆玉依姫  様