論攷 斐太ノ工 一
斐太ノ工は大和の都の建設にあたり、律令税制で定められた租と庸を免じられ、「調」として、斐太から多くの工が徴用されたというのが通説になっている。 しかし、それ以前すでに斐太の工は技術集団(テクノクラート)として各地に居住していたと考えられる。 神を山から迎えて祀る拝殿が里に作られるようになったとき、その神殿や拝殿の建造に関わった氏と民、それが「ヒ氏」だったと推定される。「ヒ氏」の出自は不明であるが、按ずるにそれは「日氏」とも推定され、 常陸(日立)、斐伊、氷上、氷見、氷川、簸川、樋川、日田、日吉、比叡、日向、日の岡、斐太、飛騨など「ヒ」と結びついた地は「ヒ氏」が古くから定住した地であろう。ほかにも「ヒ」のつく地名はたくさんある。 それは、さらにはやくから古代出雲氏と褶合し、行をともにしながら各地に展開した痕跡が多く認められる。
論攷 斐太ノ工 二
「斐太ノ工」の遠祖はどこまで遡れるか。これは政史からややそれるため、資料を渉猟してみてもはなはだ少ないことがわかる。日本史とは伝統的に皇国史をたててきており、国史の研究には、いま猶その傾向がつよい。史論はどのように立派な論をたてても、実証される史実が明らかになれば、一夜にして覆される。 たとえば、大国主命と大物主の命は同じ神か、異神か。近年著名となった高松塚古墳の被葬者は、中国人か朝鮮人か、壁画の人物は中国か、朝鮮か。論議はいろいろなされても断定できない期間が長すぎる。つまり、わからないということだろう。 また、「邪馬臺國」はどこにあったか。邪馬台国に関する研究書ははなはだ多いが、いまだに畿内か、九州かさへ不明のままである。研究が史論にまで昇華しない。卑弥呼を埋葬した墳墓が見つかれば実証され。どのような立派な考察や、論議も実証された結果の前には霧消することになる。 ゆえに、歴史学者は臆病になる。もっと大胆な推理や、研究が出てきてもいいのではないだろうか。
筆者は、【日本の山車】を考える上で、「これは仮説である」と前置きして、これまでも諸問題をとりあげてきた。このたびの「論攷 斐太ノ工」もその思惟と思想の延長上にある。誤りをただすにはやぶさかではないので、ご意見や異論のある方はご遠慮なく指摘していただきたい。 いささか飛躍するが、はじめに概説して方向を示すと、斐太の工の遠祖は物部氏とおなじ、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)と推察する。そして、古代においては、大物主の命、物部氏、カモ氏と共存関係にあったと考えられる。これが時代が下がるにしたがって、中臣氏と強く結びつき、また石上氏と強いてゆくが、権力の抗争からは距離を起き、カモ氏と同じように一族安泰の方途をとっている。
論攷 斐太ノ工 三
唐松神社と唐松山天日宮 秋田県仙北郡協和町境 唐松神社 □祭神 唐松神社 カグツチノミコト 軻具突命 オキナガタラシヒメ 息氣長足姫命 トヨウケヒメノミコト 豐宇氣姫命 タカミウスビノミコト 高皇靈命 カミムスビノミコト 神皇靈命
唐松山天日宮(日天宮) □祭神 ニギハヤヒノミコト 饒速日命 タマホコノカミ 玉鉾神 アイコノカミ 愛子神
大仙市(旧協和町)の唐松神社と唐松山天日宮は、同じ場所に祀られる二社である。いずれも、物部氏の創祀と伝えられる古社であるが、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)は雄物川から更にその支流である淀川を遡り、鳥海山(鳥見山)の「潮の処」に降臨したといわれ、日殿山(唐松岳)に「日ノ宮」を祀ったともいわれ、「韓服神社」の古社名(旧社名)があったと伝わる。物部氏の天祖三神を日殿山に祀り、十種の神宝を安置して日宮と称したのを創祀としている。その後饒速日命は畿内に降り、後裔の物部氏子孫は神功皇后の安産祈願と香具土神、宮毘姫命の御霊代を併せて祀り、大和に社殿を建立したとあって、大和に一大勢力をもつにいたるのは秋田県の降臨よりあとだったと記す。 物部氏の天祖三神とは「大神祖神、天御祖神、地御祖神」があげられ、「十種の神宝」とは、羸都鏡、邊都鏡、八握劔、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比禮、蜂比禮、品物比禮のあわせて十種だという。 天日宮(日天宮)三神、饒速日命は斐太ノ工の祭神でもある。 現在の天日宮は、延宝八年、秋田藩主佐竹義処により、山頂にあった社殿が現地に遷されたと伝えられる。堀を引き回した円形の地の上部には、丸い二段の葺石で覆われるが、上談は小石、下段はやや大きな丸石で、あいだには小道状の帯地がある。古来子授け、安産を願う婦人の信心が篤く、近隣のみならず広範な遠方よりも多くの参詣者があったといわれ、参詣時には男性は社殿を右廻り、女性は左廻りに社殿を一蹴するのだそうである。 唐松神社には、古い『秋田物部文書(仮題)』が伝わるといわれるが、公刊にはいたっていない。近年その一部が、秋田県大仙市(旧協和町)の進藤孝一氏により『秋田物部文書、伝承・無明社』として紹介された。
論攷 斐太ノ工 四
香取神宮と鹿島神宮 千葉県香取市香取 香取神宮 □祭神 フツヌシノオオカミ 経津主大神
鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中 □祭神 タケミカヅチノオオカミ 武甕槌大神
香取神宮は千葉県に鹿島神宮は茨城県に祀られる由緒ある古社である。異県に祀られる神社であるが両社はきわめて近い距離にある。香取神宮は下総国一宮、鹿島神宮は常陸国一宮であり、延喜式神名帳に記載される古社であり且つ、延喜式神名帳に【神宮】と記載されるのは、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社 のみである。奈良市の春日大社は、香取神宮からフツヌシノオオカミ(経津主大神)、鹿島神宮からタケミカヅチノオオカミ(武甕槌大神)、東大阪市の枚岡神社(ひらおかじんじゃ)からアメノコヤネノミコト(天児屋根命)とヒメガミ(比売神)の各祭神を勧請して創祀されている。 鹿島神宮の祭神、タケミカヅチノオオカミ(武瓱槌神)は、また「建御雷之男神(建御雷神、建羽雷神)であり、香取神宮のフツヌシノオオカミ(経津主大神)とおなじ神とする説がある。東大阪の枚岡神社も物部氏の創祀になる神社であるが、「日の立つ国である常陸」に建立された創祀時の社殿は、おそらく斐太ノ工によると推察される。
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