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日本の山車 日本の山車
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標題の写真説明
2014-07-01
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  表題の写真説明
 ボックスのタイトル : 関東
 題名 : ◆栃木県

日本の山車 栃木県

栃木県総論

●09201 宇都宮市
◆05143 宝国神社祭
□社名 宝国神社
□所在地 栃木県宇都宮市宝木
□祭神
□祭は十一月下旬。  
□山車
屋臺
・仁良塚
もとは天棚だったものを屋臺に改造する。
組内に保存される収納箱には安政二年(一八五五)の墨書があり、江戸末期にはすでに山車(屋臺)が存在したことをうかがわせる。
□汎論

◆00049 石那田祭
□社名 高麗神社
□所在地 栃木県宇都宮市石那田
□祭神
スサノオノミコト 素盞鳴尊
□祭
□山車
・一番 仲内
猿田彦
山車(屋臺)を保有しないが、祭礼の先導をつとめる猿田彦を奉じていることから祭礼順位は一番を与えられている。
猿田彦は各地に「道案内」「境界の守護神」などの信仰がある。
・二番 桑原屋臺
創建は不明。
石那田の屋臺の中では製作年代が一番新しいとされるが、屋臺が建造される前には「飾臺」があったと伝わる。
繊細な彫刻があるが、素木(白木)の地彫り彫刻で彩色されていない。
彫刻は、菊政の名で知られる上都賀郡久我村(現在の鹿沼市上久我)の「菊彫」の名人といわれた彫刻師、上山政五郎と弟の泰で製作にはおよそ十年を要したという。
上山政五郎は農家の出身で、文化五年生まれ明治二十五年に八五歳で死去した。磯邊の流れを汲む石塚知與に師事した。
神山泰吉はかれの一子、門下に大貫長之助、大出常吉がいる。明治一五年、桑原屋臺が完成したときは政五郎七五歳に当たる
鬼板は飛龍と左右に鯱
懸魚は波に鯱
後部の鬼板と懸魚は鷹と松
正面内障子は鶴に牡丹
蹴込みは二頭の獅子
脇障子、障子廻り、柱隠しは繊細な彫刻の菊、葡萄、木鼠が配されている
障子廻りの上部、欄間は小鳥の彫刻
勾欄下は鯛
車隠しは波に
正面の車隠しには波に二羽の鶴
後部の障子は獅子に牡丹
彫刻は一部に朱が入れられた箇所があるが、他は白木彫りである
屋根は唐破風
踊場がある
・三番 六本木屋臺
工匠は、屋臺職人、越後國大工直吉の名がある。
彫刻師、富田御内後藤方野州中里村高田伊兵衛
文政十一年子九月の記録が残る。
塗屋臺で、彫刻は高田伊兵衛 
富田御内後藤方 中里村(現在上河内村大字中里)の彫刻師は、ほかにも、河内村大字上田原にある屋臺にも文政四年(一八二一)「中里住彫物□工 後藤金重」の名があり
中里村の彫刻師後藤家の一門というより、止宿していたか、また招聘されたのではないだろうかと推定されている。おそらく出造りであろう。
後部鬼板の獅子の裏に「彫工 當國下都賀郡富田住磯邊義兵衛、下総國香取郡南玉造住山瀬□□」と記されている。
柱隠しは鹿沼の旧屋臺のものを譲り受けたといわれる。
鬼板は獅子、左右に二頭の獅子を従える。
懸魚は二頭の子獅子。
正面内障子、側面の脇障子菊に鶏。
脇障子の下部は「龍馬」(麒麟か?)。
後部障子はいずれも菊。
柱隠しは下方が菊。
中部以上には金の瓢箪と木鼠。
障子廻りと外欄間構図が一体化しており、梅に小鳥が配される。
勾欄下は波に鯛。
車隠しは波。
・四番 原石那田屋臺
塗屋臺
屋臺の建造期、彫刻については不詳。彩色屋臺は素木のままの屋臺より建造期が古いことから、初期に作られたと推定する。石那田の屋臺の中ではもっとも小さいのも初期の屋臺を特徴付けており、後年他の屋臺が次第に大きくなっていることと対照的である。
前鬼板は龍?(飛龍?)
懸魚は鯱
後部も同じ
菊の彫刻を基調とする。
勾欄下、車隠し、障子廻りは明治末期に後補されたもの。
脇障子、障子廻りは菊で埋め尽くされている。
外欄間は牡丹。
柱隠しと梁は葡萄に木鼠。
勾欄下は火焔龍。
車隠しは波に千鳥。
後方左右の障子は虎と龍。
左は笹を背にした火焔の虎。
右は梅を背にした火焔の龍。
車隠しは波と菊。
この屋臺はもと塗りと白木彫刻の混在する屋臺であったが昭和五十一年の修復工事のときすべて彩色された。
・五番 岡屋臺
素木屋臺で、製作年代は不明。
鬼板の牡丹の裏面に「野州鹿沼宿 彫物師 後藤常吉正秀 作之」とある。
彫刻は牡丹を基調としている。
牡丹は素木だが一部に朱が使われる。
後部の鬼板、懸魚正面とほぼ同じ構図。
正面内障子は牡丹に雉子。
内欄間は牡丹に小鳥。
正面は牡丹。
脇障子は松に梅、小鳥。
障子廻りは菊と小鳥。
欄間は菊と波。
勾欄下は龍。
車隠しは波と小鳥。
後部の障子は左右とも二頭の龍。
柱隠しの彫刻はない。
・六番 仲根屋臺
龍の彫刻の裏面に「巻龍體 當國大平山麓 富田住 職姓後藤 免許 平五郎改 磯邊儀兵衛 字松濡 藤原敬信 生之二十五齢」の墨書きがある。
儀兵衛は、磯邊の名乗を許された名工で、三代目を襲名したと考えられている。
この彫刻をしたときの二十五歳は逆算すると、嘉永五年に相当する。正面の鬼板の獅子、脇障子の牡丹獅子は明治に入ってから作られたという。
後部の鬼板は媼。
懸魚は菊と鳥であるが、作風が異なる
正面内障子は波に龍。
笹と梅を背にした虎。
柱隠しは牡丹と鶏。
梁は鳳凰、藤の透し彫。
脇障子は素木の牡丹と獅子。
障子回りは葡萄と木鼠。
欄間は菊と小鳥。
後部左右の障子は牡丹。
車隠しは波に菊。
左右両側面の勾欄にも二匹の小龍を彫る。
・七番 坊村屋臺
塗屋臺で、製作年代は不詳。
彫刻師は、脇障子の下に「礒松需」とあることから、仲根屋臺と同一の人物、磯邊儀兵衛敬信と考えられる。
欄間と障子は明治三〇年頃の作。
鬼板
懸魚
柱隠しはいずれも火焔龍。
柱隠しの龍は左右ともに下り龍。
内障子は上と左右に獅子。
蹴込みも左右中に三頭の獅子。
脇障子は獅子に牡丹。
障子回りは菊。
欄間は梅に小鳥。
勾欄下は龍と亀。
車隠しは亀。
勾欄は水平でなく中央部が上部に彎曲した太鼓橋の欄干の形になっている。
後方鬼板、懸魚は龍で、正面より数が多い後部の障子は左が葡萄に梟。
右が葡萄に木鼠。
勾欄下は菊。
□汎論
 高麗神社は通称を天王様という。
 石那田は日光との関わりが深く、ことに徳川幕府の日光東照宮造営期には、鹿沼、徳次郎、宇都宮、氏家などとおなじように屋臺に大きな影響を与えたと考えられ、見事な彫刻が作られている。
屋臺は、三空間を具象した思想により、欄間など上位は、空の世界とし、彫刻も見合うものが作られる。鬼板と懸魚は上下の関係で一体化しており、同一の対象物または、関連性の深い対象物となっている。
中位は地上の世界で、中臺の障子などには地上にかかわる鳥獣,花卉の彫刻で飾られる。下位は、海の世界で勾欄下などには、浜千鳥、玄武、波濤など海にちなむ事物がある。
・石那田屋臺の由緒
石那田に屋臺が創建された時期は、日光東照宮造営期の寛永年間と推定されている。
諸説があるが、製作年代を裏付ける資料としては、六本木屋臺の彫刻師芳名板に「文政十一年」の年号が記される。
仲根屋臺の龍の彫刻裏に「磯邊儀兵衛、藤原敬信」の銘があり嘉永六年と推定されている桑原屋臺は明治十五年の建造(再建か?)
製作年代を知る手がかりを持つ屋臺は三臺あるが、他の屋臺からは手がかりが得られておらず不明である。
彫刻は東照宮造営に関わる名工の作といわれるが、判明しているものは、富田(現在大平町)の磯邊一族の手になるものが知られる。
磯邊一族による磯邊系の山車は、北関東に優れたものが多く残されている。
ことに、三代目磯邊儀兵衛敬信は各地に秀作を残している。
また名工で知られる後藤系一門の手になるものが見られる。
・文化財指定
石那田六臺の屋臺は仲内の猿田彦の祭祀具とともに昭和四九年三月一日n宇都宮市民俗文化財に指定された。
ほかに彫刻屋臺で文化財に指定されている例として、宇都宮市伝馬町の屋臺一臺が昭和三〇年七月に栃木県有形文化財に指定されている。
□参考文献
徳次郎の彫刻屋臺 池田貞夫
しのいの史跡 篠井公民館
栃木県大百科事典 大百科事典刊行会

◆00302 智賀都神社夏祭
◆00302 智賀都神社夏祭
□社名 智賀都神社
□所在地 栃木県宇都宮市徳次郎(とくじら)
□祭神
□祭は八月上旬(三年毎)  
□山車
屋臺
・門前
安政年間の建造と伝わる。
彫刻は大出常吉、野村幸吉。
・西根
安政二年(一八五五)の建造。
彫刻は磯部儀兵衛敬信。
・田中
嘉永七年(一八五四)の建造。
・上町
黒漆塗彩色彫刻屋臺。文化五年(一八〇八)鹿沼市田町(現中田町)が建造したもの。明治六年に譲り受けたと伝わる。
・中町
黒漆塗彩色彫刻屋臺。天保七年(一八三六)に、宇都宮市新田町(現清住町)が建造したものを安政年間に譲り受ける。
このほかに、昭和八年に建造された屋臺がある。
・下町
安政三年(一八五六)の建造。
彫刻は磯部儀兵衛。
(順不同)
□汎論
 徳次郎(とくじら)、智賀都神社の祭礼には石那田から参観に出かけ、石那田、高麗神社の祭礼には、徳次郎から出かける地域的交流があった。山車の概形も酷似している。鹿沼、宇都宮の山車が譲り受けられていて、この地域の山車文化には相互に共通する点が多い。

◆05140 宇都宮二荒山神社祭
栃木県宇都宮市馬場通
二荒山神社
□祭神
トヨキイリヒコノミコト 豐城入彦命
配祀
オオモノヌシノミコト 大物主命
コトシロヌシノミコト 事代主命
□祭は一〇月下旬。
山車(山車、屋臺)を曳く
□山車
山車
・本郷町
人形山車。
弘化二年(一八四五)の建造。
本坐人形は神功皇后、應神天皇。武内宿禰がのる。
明治十四年原舟月の作。
曳行に支障が生時じたたため上部が除去され原初の姿をとどめていない。
・伝馬町
嘉永六年(一八五二)の建造。
彫刻は高田信吾、磯部隆信、後藤浄信法眼。
・蓬莱町
黒漆塗彩色彫刻屋臺。
弘化二年(一八四五)の建造。
工匠は高田仲右衛門。
彫刻は高田慎吾。
彩色は菊池愛山。
・大工町
素木造彫刻屋臺。
昭和二十九年の建造。
工匠は阿久津与平次。
彫刻は彫師は千葉の後藤直光
・大黒町
花屋臺。
明治三十四年。山車が改造された。
・鉄砲町
休止。
戦災で罹災し、現在は部材の一部が残る。
□汎論
 二荒山神社は下野國一宮であり、延喜式に記載される古社。
 創祀は不詳。社伝によると仁徳天皇四十一年(三五三)下毛野国造奈良別王、すなわち祖神として豐城入彦命を荒尾崎に祀ったとされるがあるいはオオナムチノミコト(大己貴命)アジスキタカヒコネノミコト(味鋤高彦根命)、タケミナカタノミコト(健御名方命)を祀るとする異説がある。境内神として、柿本人麻呂霊、、日光三所神、太郎大明神、小野猿丸を祀る。

◆00449 八坂神社祭
□社名 八坂神社
□所在地 栃木県宇都宮市田野町
□祭神
□祭は七月上旬ー中旬。  
□山車
屋臺一臺を曳く。
もとは天棚として用いられていたものを屋臺としたと伝わる。
□汎論

◆05142 湯殿山神社祭
□社名 湯殿山神社
□所在地 栃木県宇都宮市御田長島町
□祭神
□祭は七月下旬  
□山車
山車
花屋臺一臺を曳く。
□汎論
 湯殿山神社は、出羽國(山形県)の、羽黒山、出羽山、湯殿山の三山で知られる古社であるが、宇都宮市の湯殿山神社は、湯殿山神社から分祀を受けた神社である。
 他府県ではやや珍しい神社といえるが、日光市の湯西川にも湯殿山神社があり、こちらは地区内で温泉が発見された天正年間(一五七三−一五九二)の創祀と言い、湯の守神として出羽三山の羽黒山から土を移して盛り、建てられたと伝わり湯西川の総鎮守となっている。
 湯殿山神社の祭神はオオヤマツミノミコト(大山祗命)、オオナムチノミコト(大己貴命)、スクナヒコナノミコト(少彦名命)などの出雲系の神々であるが、ユドノサンオオカミ(湯殿山大神)、ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)だともいう。
 宇都宮市の湯殿神社は、ほかに八坂神社、金勢大明神が祀られ、子授け、安産祈願の女性の陰参りが行われているようである。栃木県には古代の男体山の信仰から生まれた金勢大明神がひそかに祀られる所が多い。
 山車の出る祭は境内社の八坂神社の祗園祭である。

●09202 足利市
◆00307 足利祭
□社名 篠生神社
□所在地 栃木県足利市葉鹿
□祭神
篠生神社
境内社
織姫神社
八坂神社
浅間神社
末社
□祭は七月
□山車
・葉鹿上町
四輪の山車、漆塗。
組内の道具保存箱に天保六年(一八三五)の墨書があり、山車が当時すでに存在してと考えられる。
左右が張り出し構造になっており、歌舞伎などを上演できる「藝山」である。
・葉鹿下町
彫刻の墨書に、下野国下都賀郡 例幣使街道富田宿 磯部儀左衛門 とある。
足利本町四丁目に貸臺時火災でに遭い、桐生で曳かれていた山車を譲り受けて代替返納したという。
・葉鹿仲町
山車に残る記録より、建造期は文政年間に着工、天保六年(一八三五)に完成。
上州山田郡新宿村の弥七、和助、弥八。
彫刻は冨田宿の磯部儀左衛門ほか二名。
細工師は、武州埼玉郡羽生領串作村 江原伝蔵 ほか五名。
の名がある。
□汎論
祇園祭といわれるが、境内社の八坂神社の祭になるのだろうか。山車が曳かれる。
葉鹿上町、葉鹿下町の両町の山車は名工で知られる磯部儀左衛門の建造。
市内に、孔子を祀る「孔子廟」がある。江戸時代には各地に見られた孔子廟は相次いで姿を消し、いまも「釈奠(せきてん)」を行っているのは、足利だけではないだろうか。
「木造 孔子坐像」、 木造 小野篁坐像」があり、宋刊本 文選(国宝)、宋版 禮記正義(国宝)、宋版 周易注疏(国宝)、 宋版 尚書正義(国宝)、足利学校旧鈔本(周易五、周易伝三、古文孝経一、論語義疏一〇、宋刊本 附釈音毛詩註疏、宋刊本 附釈音 春秋左氏傳註疏、宋刊本 周禮、 宋版 唐書列伝残巻が保存される。

●09203 栃木市
◆00200 栃木秋祭
□社名 
神明宮
護国神社
太平山神社
□所在地 栃木県栃木市
□祭は十一月中旬(五年毎)
□山車
山車九臺を曳く。
・万町一丁目
本坐人形は天照大神。
明治二十六年、万町の有志者が東京日本橋本石町の人形師、三代目法橋原舟月により作られた
屋臺の下臺を飾る大幕は金襴幕四張
中臺は金糸による刺繍
人形の衣装は綾蘿錦繍(りょうらきんしゅう)
緞帳も金糸銀糸の刺繍が施される
人形の衣装と持物
天叢雲剣、八たの鏡、八勾曲玉
三味線胴の彫刻
四神
中段の木瓜
半割枠の極彩色十二支
額縁
波に亀
この山車は、天照大神の人形の前に劉備玄徳を飾っていた
このため岩座の四神は名残となっている
上段大幕は黄帝が反乱を鎮めるため力を借りた飛龍が刺繍されている
十二支に見立てる
・万町二丁目
本坐人形は三國志の関羽雲長
明治二十六年東京日本橋の人形師、
三代目法橋原舟月に依頼して製作
屋臺の上臺大幕は金襴幕四張
中臺の幕は緋毛氈に刺繍される
衣服は綾蘿錦繍
三味線胴の龍の箔押し
下臺二重臺の唐獅子に瑞雲の彫刻
台輪の波の深彫
意は二と同義?
・万町三丁目
本坐人形は素盞鳴尊
明治二十六年東京日本橋本石町の法橋原舟月の作
中臺は四神を刺繍している
正面は朱雀
右は白虎
左は青龍
裏面は玄武
上臺はせりあげ式(繰上式)
彫刻は
青海波
牡丹に唐獅子
など
三味線胴の箔押し、龍の彫刻
二重臺の唐獅子の彫刻
柱隠しの菊の透かし彫
臺袴の波の深彫
囃子臺欄間の鳳凰
衣服は綾蘿錦繍
・倭町一丁目
雌雄の獅子頭を舁く舁山で、
右に雄
左が雌
江戸時代、日光東照宮の造営に当たった工人が、当地に足をとどめ
作ったという言い伝えがある
何度か火災に見舞われたが、災難を逃れ夫婦健在であることから
夫婦和合、鎮火の霊験があるといわれている。
・倭二丁目
本坐人形は神武天皇
明治二十六年、東京日本橋本石町の人形師、三代目、法橋原舟月の作
三味線胴のなかに彫られた牡丹に唐獅子
欄間は鳳凰
臺袴の極彩色牡丹、孔雀、錦鶏
中段の大幕は羅紗地に八方睨みの龍
地元、渡辺喜平治や一門の手になる
・倭三丁目
本坐人形は静御前
もと東京日本橋の伊勢、小田原、瀬戸物の三町共有の山車であった
もの、明治七年に譲られた
太刀を背に扇を持って舞う姿
作者は松雲齋徳山で、嘉永元年(一八四七)の作と伝える
鶴ヶ岡八幡で舞う静の姿
三つ巴の神紋が向拝幕や刎勾欄の金具に見られる
清和源氏の流れを汲む花菱紋
が三味線胴の隅金具
特に
上段大幕の鶴と瑞雲
下段大幕の若松
は見事というほかない
静御前山は、かって江戸の室町ほかの共有で、加茂の能人形、本石町の所有、乗妙一來法師、などとならぶ山王祭では五指にはいるといわれる名臺だったが、幕末の元治元年に曳かれたまま曳かれることはなかった。
江戸の山王権現社も明治以降は日枝神社と改名され、吉野静は舟に積んで隅田川を上り巴波川(うずまがわ)を経て栃木に着いたという。
・室町
本坐人形は桃太郎
山車は三段式
総欅造
中段大幕正面には御祭禮の文字が金糸で刺繍されている
明治二十八年
佐野の大沢銀之丞の作
正面六尺
奧行九尺高さ十八尺
その上に七尺五寸の人形を飾る
囃子臺欄間の波に千鳥の彫刻
正面に昇龍
側面は遊泳する鯉
・泉町
本坐は諫鼓鳥
もと宇都宮にあったものを明治七年に譲り受けた、幕末頃の作といわれる。
作者は不明
中国の故事に、尭帝のころ朝廷の門前に太鼓を置き、政道の誤りある時は
人民にこれを打たせて民意を聞こうとしたが太鼓は一度も鳴ることはなく、諫鼓苔深くして、鳥驚かずという状態だった。このことから、国がよく治まる天下太平の象徴となった江戸の山王祭には、大伝馬町の諫鼓鳥が曳かれている。
・大町
本坐人形は武蔵坊弁慶
ときに変更される
正面の柱には昇龍、降龍の彫刻
欄間の正面は花鳥の彫刻
裏格子(側面?)は葡萄に木鼠
豊作祈願
松に鶴
千年の寿齢を賀す。
脇は波に亀
前垂れは鶯宿梅
これらの彫刻は嘉永年間、富田宿の二代目、自在甚五郎をなのる通称、儀兵衛、磯部蟻義の作と
いわれる白木透かし彫。
□問い合わせ
栃木市商工観光課
電話0282-22-3535
□郷土芸能
□山車文献資料
・栃木市史 民俗編、史料編、近現代編1−2、通史編
・栃木の江戸型山車 平成六年十二月三日発行 編著者太田義男
・江戸型山車の行方 千代田区教育委員会 千代田区
・東京年中行事 1−2、若月紫蘭
・易と日本の祭祀 吉野裕子
・神々の誕生 吉野裕子
・暦と占いの科学 永田久
・年中行事を科学する 永田久
・十二支物語 諸橋轍次
・日本のかたちアジアのかたち 杉浦康平
・韓国紋様辞典 河出書房新社
・武江年表、1−2 斉藤月岑著、金子光晴校注
・絵本江戸風俗往来 菊池貴一郎
・江戸建築叢書 大熊喜邦
・面とペルソナ 和辻哲郎

◆00556 栃木山車会館
栃木県栃木市

◆00896 大神神社の御鉾祭
栃木県栃木市惣社町
大神神社
□祭神
ヤマトオオモノヌシクシtマノミコト 倭大物主櫛玉命
コノハナサクヤヒメノミコト 木花咲耶姫命
ニニギノミコト 瓊々杵命
オオヤマツミノミコト 大山祇命
ヒコホホデミノミコト 彦火々出見命
□祭は十一月中旬ー下旬
□汎論
 大神神社の創祀は崇神天皇四十八年(紀元前四九)といわれるが、不明。
 下野國では最古の神社といわれる。下野惣社大明神、惣社六所大明神、八島大明神などと称されている。延喜式神名帳の旧都賀郡に惣社大神神社とあるのが当社と推定されている。オオモノヌシノミコトを祖神とする古代出雲系氏族によって祀られた神だろうと推定する。オオモノヌシノミコトとオオナムチノミコトを同一神とする考え方があるが、安易に受け入れがたい。寧ろ、当地が大和(奈良県桜井市)に開かれた古代出雲とおなじ氏族の氏地だったと考えるほうが自然ではなかろうか。
 境内には、室の八嶋とよぶ八つの島があり、かつては池から煙が立ち上ったといわれる。それぞれの島に、筑波、天満、鹿嶋、雷電、浅間、熊野、二荒山、香取の八神を祀る小祠がある。
 京では、東国の歌枕として親しまれ、

  くくる夜は 衛士のたく火をそれと見よ 室の八嶋も都ならねば
  藤原信実朝臣 続古今和歌集

  下野や 室の八嶋に立けふり 思いありとも 今こそは知れ
  俊成郷女 続古今和歌集」

  東路の 室の八嶋に思い立つ 今宵そ こゆる逢坂の関
  藤原定家郷 新勅撰

 などと詠まれている。
 松尾芭蕉は元禄二年(一六八九)奥の細道の旅で室の八嶋に立ち寄り、

  糸遊に 結びつきたる けぶりかな

 と一句をしたため、境内に句碑がある。
 十一月には御鉾祭が齋行される。

●09204 佐野市
◆00428 佐野祭
栃木県佐野市

●09205 鹿沼市
◆00060 鹿沼祭
◆00060 鹿沼祭
□社名 今宮神社
□所在地 栃木県鹿沼市今宮町
□祭は十月中旬。
□山車
彫刻屋臺。
・御成橋町
 江戸時代、将軍が日光にお成り(日光御社参)の際、新しく黒川の橋をかけかえた
ことから、その名を御成橋と呼び、かつて並木と呼ばれていた例幣使街道沿いを、明治に入って、橋名にちなみ御成橋町と言うようになった。
 明治十年には、今宮神社の付け祭に番外として参加している。
大正四年の御大典祝賀行事に協賛し同六年に花屋臺が建造された。その後も、宇都宮市の徳次良(とくじら)門前から彫刻屋臺を借り付祭に参加している。
 昭和十年ごろ、彫刻師石塚直吉(三代目)の孫にあたる石塚広吉が彫物を引受け、花屋臺を改修した。
 戦後、総体黒漆塗に、彫物は彩色された。
・戸張町
 鹿沼宿の木戸外の道筋に、店が設けられるようになって外張といい、後に戸張町として文化五年(一八〇八)に今宮神社の付祭に参加した。
 町内の星宮神社大破目彫刻は、町内住の彫師石塚直吉吉明と、その門人同栄吉明儀の作で、戸張町屋臺も吉明とその父知興の手になったといわれる。
 屋臺彫刻は彩色される。
鬼板と懸魚は「獲物を狙う大鷲と藤に身を隠す三匹の猿」を相対にしており、琵琶板や外欄間の「栗鼠と葡萄」の彫刻は、文政十二年(一八二九)の作で、より厚肉彫になっている「葡萄と金鶏鳥」の脇障子と、勾欄下彫刻は天保六年(一八三五)の作といわれるわれる。
・上材木町
 戸張町の屋臺と似ている。黒漆塗彩色彫刻屋臺である。伝承では両町同時期に作られたといわれる。石塚知興の刻名と、天保十二年の屋臺箱墨書銘が見られる。
 知興はその子吉明とともに田沼町の生まれで、三代にわたり直吉を襲名し、鹿沼に住居を移し、社寺や屋臺の彫刻に腕をふるった。知興の代表作は薬王寺本堂内欄間の天女で、文政七年(一八二四)の作である。
 当町屋臺には、内欄間彫物「鶏に牡丹」に代表される、石塚知興は花鳥を得意とし、ほかにも、脇障子の「孔雀に藤と牡丹」が見られる。
 鬼板は金獅子で、二匹の子獅子は破風の両端上に離れて位置し、鬼板としては変形である。相対する懸魚も金獅子二匹。昭和四十九年鹿沼市の重要文化財の指定を受けている。
・天神町
 白木造屋臺、脇障子のみ飾金具付黒漆塗、彫刻材は銀杏あるいは栃とも言う。白木彫で、一部朱が入る。
 鬼板と懸魚は、二匹の龍が波間に対峙する。琵琶板や外欄間は尾長鳥に梅(一部桜を交える)を配し、緻密な「小桜」の技法を見せている。
 彫物は龍が中心で、脇障子の「龍虎」は秀逸である。後障子も龍の彫物である。
 勾欄下および車隠しは「牡丹に唐獅子」
 明治以前の記録がなく詳細不明であるが、かつてこの屋臺を調査した氏家町の土屋喜四郎氏は、彫刻は磯辺儀兵衛敬信としている。
・銀座二丁目      
 上横町から東横町が分離したので、一時西横町を称していたが、明治七年に上横町の旧称に復し、さらに昭和二十九年に銀座二丁目と改称した。
 弘化四年(一八四七)の大火で屋臺は屋臺蔵とともに類焼にあい、安政三年(一八五六)が当番町に当っていたこともあつて、嘉永六年(一八五三)から屋臺製作に入った。
 製作は一時中断し、おくれて安政五年に完成している。後藤音次郎のもと、同、音吉、磯辺平五郎(義兵衛敬信)、神山政五郎などの彫師による白木彫屋臺である。
 古くからの屋臺では柱飾り彫物を有する唯一のものである。桜樹を骨組に花鳥を配した外欄間と障子回り、勾欄下と車隠しには力強い「波に龍」、内琵琶板と内欄間いっぱいに五匹の親子獅子など、全体としての調和のとれた構図が当屋臺の見どころであり、棟梁音次郎の特色でもある。
・仲町
 寛政六年(一七九四)に、以前からあった踊屋臺が改修され、彫刻屋臺となった。塗屋臺彩色彫刻であつた。天保七年(一八三六)に新しく白木屋臺が完成している。内琵琶板の菊の彫物には彩色があり、これは古い屋臺からの転用とも考えられる。
 白木彫といっても、火炎や口内などには朱を入れる例が見られるが、仲町のは、朱、緑、青、黄、白、黒、金色がつかわれている。
 その外の特徴としては、手のこんだ鬼板の「龍」がある。彫刻は文政元年(一八一八)に再建された日光五重塔彫物方棟梁の後藤周二正秀で、江戸本彫三流派のー、後藤系に属し当地方彫師の第一人者である。
・麻苧町
 新町は、鹿沼宿の西の門戸として新しく発展した町で、明治七年に麻苧町と改称された。文化十五年(一八一八)には白木屋臺が完成し、すぐに塗屋臺となる。彫師は富田宿(現大平町)の磯辺木齋とその一門である。
 この屋臺は、明治六年に白沢宿(現河内村)に譲渡されたが、金龍四匹は除外されて残り、現屋臺の勾欄上に掲げられている。
 現屋臺は、安政四年(一八五八)に完成した白木屋臺である。
 彫刻は、同じころ銀座二丁目の屋臺を手がけた後藤音次郎である。鬼板など、彫物の主題が「獅子に牡丹」となっている。箱棟には丸彫の小獅子三匹がのる。昭和四十七年鹿沼市の重要文化財に指定されている。
・石橋町
 花鳥の精緻な彩色、保存のよさが際立つ屋臺である。文化四年(一八〇七)、鹿沼宿大火の際、石橋町の屋臺も類焼した。しかし、文化九年の屋臺道具箱が現存していることから、まもなく新屋臺が建造されたと考えられている。
 当時の彫物と残るのは、鬼板、懸魚の「菊」、脇障子の「菊に孔雀」、勾欄下、車隠しだけである。
 大正三年には、鬼板の下を削って「鳳凰」をつけ加え、さらに外欄間の彫物を加え、同四年の御大典記念行事に参加した。さらに、大正五年から十五年にかけて、琵琶板、内欄間、後障子、障子回りなど、「菊」の彫物が補われた。
 その際の彫師は、久我村神山政五郎の弟子で、今市瀬川の大出常吉政次とその子啓一郎で、親子とも当地方に作品をたくさん残している。政次は、古い彫物も彩色しなおし、華麗な石橋町屋臺が完成した。なお、屋根は銅板葺である。
・下材木町
 黒漆塗彩色彫刻屋臺である。飾金具はなが、屋根は布張りで瓦捧、垂木など丁寧に作られ、屋根裏は朱塗となっている。
 彫物は、全面「龍」づくしで、金龍なので黒漆塗屋臺に一段と光彩をはなつ。龍の彫物のうち、懸魚に隠れる琵琶板は緑主体の彩色であり、うしろ琵琶板は白龍である。
 彫刻は、欄間彫物四ヵ所の裏の墨書銘によると、富田宿(現大平町)の磯辺儀左衛門信秀四代目で凡龍齋と号號っている、天保三年(一八三二)、六十八才の作である。同じ年に銀座一丁目の屋臺を手がけている。
 四代信秀(歳重)は天明元年(一七八一)、十七才の時すでに、兄である三代信秀(秀重)とともに現油田町日吉神社に作品を残している。彫師後藤の弟子で、兄弟とも下野内外に活躍し、それぞれ信秀凡龍齋を名乗つた。
・寺町
 亀の彫物で有名な通称亀の子屋臺といわれた寺町の屋臺は、明治四十年三月二十一日、寺町、蓬莱町百四十七戸罹災の大火で類焼した。
 その後、大正六年には大芦から、同十年には文挟(現今市市)から屋臺を借りるなどして今宮の付け祭に参加してきたが、昭和三年、御大典を記念して新しく屋臺が造られた。大工棟梁は自町の宮大工半貫金太郎で、建造に加わったその子文太郎は、戦後、蓬莱町などの屋臺を造ることになる。
 花屋臺として今宮の付け祭に参加して来たが、戦後二回ほど助谷(現壬生町)の天棚彫物を借りて、彫刻屋臺のかたちをとつたこともあった。
 その後、鹿沼在住の彫刻家東山玉秀こと山ロ忠志に彫物を依頼、二年半の年月の後、昭和五十三年の市制三十周年秋祭に参加、現白木彫刻屋臺が出来あがった。鬼板と懸魚が未完なので、上深津天棚の彫物を借りて間にあわせている。
・蓬莱町
 明治に入ってから、新町内の今宮の付祭への参加は、鹿沼宿(町)発展のあと
を示しているといえる。明治十年には泉町と御成橋町、同十四年には蓬莱町、同
十六年には鳥居跡と今宮前(現今宵町)の町名が出てくる。
 蓬莱町にも明治期の簡単な屋臺があつたが、明治四十年三月、蓬莱町四十八戸
のうち三戸を残して焼失という大火で、寺町の屋臺とともに焼けてしまつた。
 その後、加園、大沢(現今市市)、文挟(同)、徳次良(現宇都宮市)から屋臺を借りるなどして、今宮の付け祭に参加してきた。
 戦後、今市春日町から借りた屋臺の一部を破損して弁償金をとられたことなどから、屋臺新造にとりかかり、たまたま油田の旧家長屋門に収蔵してあった舞臺の彫物を買取ることが出来、それにあわせた白木屋臺が出来あがつた。彫物は久我の神山政五郎という伝承がある。大工棟梁は寺町の半貫文太郎である。
・鳥居跡町
 奈良時代に勝道上人が日光開山後、この地に四本のえのきを植えたと伝えられ、
鎌倉時代に源頼朝が日光神領として寄進したとされる押原六十六郷の山緒あるこ
の地に、日光山の遠鳥居が建てられたと言われている。のち、その跡が地名となっ
て鳥居跡(とりいど)となったという。
 江戸時代のはじめ、鹿沼宿をつくる際、鳥居跡から分岐造成された新道が現在の
大通りであると古記録にある。鹿沼宿ヘの入口に当つている。
 明治十年臺には人家が建ちならびはじめたが、鳥居跡町として今宮の付け祭に
参加したのは大正十年からである。その際は久我の屋臺を借りてきている。
 戦前、戰後三回ほど、徳次良町下町(現宇都宮市)の屋臺を借りているが、前から
気運はあったが、北隣である蓬莱町の屋臺完成に促がされて、昭和三十年に花屋
臺が新造された。
 有志による材料の寄付のほか費用は約五十万円かかった。大工は寺町の半貫文
太郎である。
・文化橋町
 文化二年(一八〇五)に、御成橋際やや南から黒川の水を引いて、鹿沼宿の東から東南に広がる田の用水路をつくる工事が始まった。文化用水と称し、いまは木島用水と名をかえている。旧帝繊西工場の南西端に接してかけられた文化橋の名は、文化用水にかけられたことから由来している。
 大正二年の日本麻糸工場(後の帝繊西工場)の建設や、上田町十字路から北への新道新設などにより、新しい町が生まれ、歴史ある橋名から文化橋町と名ずけられた。
 大正十三年から今宮の付け祭に参加、戦後は宇都宮から屋臺を借りるなどしている。どうせなら自前のものを持ちたいと、市制十周年を期し、昭和三十三年に花屋臺が新造された。
 工匠は寺町の半貫文太郎である。
・上田町
 現在の屋臺は昭和二十八年に造られたものであるが、彫物裏銘に「下野国都賀郡 鹿沼上田町中 宇都宮大町 後藤周次正秀」とあり、これら彩色彫刻は古い屋臺からの転用であることがわかる。正秀は、かつて日光五重塔彫物方棟梁をしていた。
 また、文政五年(一八二二)の銘により、そのころ上田町の屋臺が造られたと考えられる。黒漆塗彩色彫刻屋臺であつた。
明治の末年、屋臺は火災にあって損傷を受け、その後、山車に改造される。人形を乗せ、正面藝場は唐破風付向拝のかたちをしていたが、昭和のはじめには姿を消してしまつた。
 鬼板、懸魚、脇障子など、古い屋臺の彩色彫物は、山車をへて現代の白木屋臺に引継がれている。ただ、鬼板の金龍と懸魚は、前から後に位置をかえ、現屋臺の前鬼板などの白木彫物は栃窪の天棚彫物を譲り受けたものである。
・末広町
 文化五年(一八〇八)には、すでに宮海道として.町内を形成していたが、今宮の付け祭には上田町とともに参如している。明治十五年には末広町と改称し、単独で今宮の付け祭に加わるようになった。その後小型屋臺がつくられたが、明治の末ごろ、上田町の屋臺蔵に収蔵していた彫物類は、上田町のものとともに火災にあって焼失した。
 屋臺の本体は自町内にあったがため、その後花屋臺として活用し、大正、昭和と今宮の付け祭に参加していた。
藝場は低く、臺輪と同じ高さに床を張り、勾欄はついてはいたが、屋臺のつくりは簡単であつた。
 その後、屋臺は作りかえられ、昭和二十三年ごろ、手岡(現今市市)の天棚彫物を手に入れ、屋臺を飾ることが出来た。売買価ニ,五〇〇円で、手岡では神社の修理費にあてたという,鹿沼では数少ない柱飾の彫物がある。
・中田町
 鹿沼宿の大きな町内であつたがため、明治のはじめまでは上組、下組に分かれて、今宮の付祭に参加していた。
 文政十一年(て八二八)に、中田町屋臺が今宮境内で前例を破った奉納手踊を強行し、宮司に訴えられる事件がおきている。
この時の屋臺は、恐らく塗屋臺で、現在の白木屋臺は天保以降のものと考えられる。
 現屋臺は、日露戦争後の不況時に日光の十字屋に売却され、一部(外欄間か)彫物が補われて商品として陳列され、宇都宮の宮島町に譲り渡された。
 中田町は、大正四年の御大典記念には鯛の山車を出し、同六年の屋臺総出の大祭には宇都宮西川の手踊を呼ぶなどしていた。
 宮島町では、屋臺を出すごとにけが人が出るなど不吉な出来事が続き、曳きあぐねていたところ、旧所有町の中田町では第一次世界大戦後の好景気でもあり、若衆の熱望もあつて買戻された。
・下横町
 鹿沼宿は、内町(大通り)と田町の南北二本の道筋からなり、それぞれを結ぶ東西二本の横町が発展して、北が上横町となり、南が下横町となった。
 下横町は宿内では一番小さいが、屋臺を有して今宮の付祭に参加していた。
 下横町の塗屋臺は、脇障子が黒漆塗で、額付明かり障子窓のかたちをとり「これは花頭窓などとともに文政年間に作例が多い。東横町(現銀座一丁目)から譲り受けたと伝えられているが、同町にはそれ以前の文化年間に造られた塗屋臺が現存し、彫物は後平に白木彫で作られているので、塗屋臺にともなう脇障子や彩色彫刻だけが譲られたのかもしれない。
 安政三年(一八五六)に屋根を作りかえ、大正十五年には臺輪をとりかえるとともに、彫師芥川により、それに見合った勾欄下や車隠しに取りかえられ、また障子回りなどが新しく作られた。
・下田町
 下田町屋臺は間口、奥行きはほぼ標準であるが、箱棟までが屋臺中最も高く、逆に臺輪は最も低いので、彫物の占める面積が広く、覆いかぶさるような鬼板の龍と相まって、豪壮雄大、重量感ある白木彫刻屋臺となっている。屋臺の方向転換の際は梃子を用いる。
 右脇障子右下隅に「石塚吉明彫刻」と刻銘がある。また、石塚吉明が文久二年(一八六二)六月に描いた下田町屋臺図により、その頃に屋臺が造られたと考えられる。ただ、一部彫物は明治のはじめまでかかつていた。
 吉明は戸張町に住み、父直吉知興の死後直吉を襲名し、また檜刊亭を号とし、弘化(一八四三)以降、今宮神社本殿彫刻など各地に作品を残し、慶応四年(一八六八)七十四才で世を去った。
 その子喜代松も直吉を襲名、父に劣らぬ彫物の腕をもつていたが、それがわざわいして明治四年、三十二才の若さで世を去った。
(順不同)
□汎論
 鹿沼屋臺の歴史と変遷は天明年間初期に、移動出来る簡単な屋根つきで彫刻などもない吹き抜けの屋臺があったようで、「踊屋臺」と呼ばれ、踊りなどの舞臺に供されていたようである。
 寛政(一七八九)に入ると、今宮神社の付祭は盛大となり、各町内は踊り、狂言を競い合った。屋臺は造りかえられ、囃子方が中に入ったがために芸場は狭くなり、別に「踊り臺」を設けて屋臺の前面に据え、狂言や踊りを演じた。現在の屋臺にも脇口を供えた屋臺が見られる。
 華美な演藝とのつり合いから、屋臺は黒漆塗となり、彩色彫刻で飾られ、ここに彫刻屋臺の祖形が出来あがった。
 太平の文化、文政期のあと、幕府は関東一円の取締まりを強化、これが文政十年(一八二七)の改革で、「祭礼は質素に、在郷芝居は禁止」され、その禁令は天保(十二年=一八四一)の改革でさらに強化された。
 芝居が禁止されたことで、各町内の付け祭における意気と力の競い合いは屋臺を飾ることに移った。鹿沼宿は日光西街道と例幣使街道の宿場町である。近くの日光山社寺の豪華な彫刻の影響もあり、全面彫刻のみによって飾られた屋臺が完成したのである。当時の建造物の彫刻はすべて彩色されていたが、華美の禁止令と演藝が取り締まられたため、彫刻は彩色されず、白木造屋臺が作られるようになり、安政(一八五四)以降の屋臺は白木造屋臺に定着してしまった。
 彫刻屋臺の形成過程を見ると、日光の近くに位置する鹿沼宿が発祥の地であり、寛政年間(一七九〇年臺)をその端緒とし、はじめは彩色彫刻黒漆塗屋臺で、その究極は全面白木彫の白木造屋臺にあり、全国でも類のない屋臺と言うことが出来る。
 鹿沼には、現在二十八臺の屋臺があるがそのうち江戸時代からの屋臺は十三臺あり、すべて旧鹿沼宿の町内にあるものである。十三臺のうち彩色彫刻塗屋臺は六臺、白木彫刻塗屋臺は一臺、白木彫刻白木造屋臺は六臺ある。
 屋臺の構造は単層館型で四ツ車、内部は内室と藝場の二室である。臺輪(上臺)は二重で、塗屋臺のなかには一重のもある。そこに柱を八本立て、内法長押(うちのりなげし)は、白木屋臺では例外を除いて一本の通し、塗屋臺では脇障子上と外障子上に長押が段違いになっているのが多く、通し長押の方が新しい屋臺であると思われる。側面二間に障子を入れ、勾欄をつけ後ろにも回す。
 勾欄は塗屋臺、白木屋臺共に直勾欄が多いが虹勾欄とするものが白木屋臺のなかに見られるが、年代的に新しい。例外として久保町の塗屋臺であるが、側面は虹勾欄、後ろは直勾欄である。屋根は唐破風付で、棟は箱棟、瓦棒で押さえ、軒下二重垂木である。飾り金具は塗屋臺のみにみられる。
 彫刻は、唐破風板上・下の鬼板と懸魚、芸場左右の脇障子を最高の見せ場としている。脇障子(彫刻)は蝶番でとめ、かつては前方に踊り臺を設けて演芸を行うとき外側に開いたので、宇都宮では「開き」といったが、今は固定している。彫刻部位の名称は屋臺解説図を参照されたい。解説図にはない後ろ障子(後ろ羽目)は、塗屋臺の場合、例外を除いて竪繁明り障子であるが、白木屋臺の場合は、すべて彫刻を嵌めこんでいる。
 彫刻の題材は「龍」が圧倒的に多い。屋臺の顔である鬼板・懸魚を見ると、過半(七)の町内が龍で、勾欄下・車隠しでは十町内を算し、全く見られないのは石橋町のみである。次が牡丹と唐獅子で、鬼板では二町内だけであるが、どの部位かに見ることが出来るのは六町内ある。
 そのほか、栗鼠に葡萄、鷲に猿などの外は、下横町のふようを題材としたのが目を引く程度である。彫刻材は、栃、銀杏、柳が多い。
 屋臺彫刻については、日光山造営の彫師たちが、冬仕事が出来なくて山から下り、あるいは日光からの帰途に作ったという伝承がある。
 富田宿(現大平町)の磯辺氏の出である後藤周二正秀である。正秀は、文政元年(一八一八)に再建された日光五重塔の彫物方棟梁をつとめ、その後、上田町屋臺や仲町屋臺などを手掛けている。
 磯辺の本家儀左衛門系では、四代儀左衛門信秀凡龍斎が銀座一丁目と下材木町の屋臺を、分家儀兵衛系では、杢斎国隆が旧麻苧町屋臺を、三代議兵衛敬信が銀座二丁目屋臺など。
 田沼町から鹿沼宿に移住して来た石塚初代直吉知興は上材木町屋臺を、二代直吉吉明は下田町屋臺を、上久我出の神山政五郎は銀座二丁目屋臺に名を残している。
 鹿沼は「木のふるさと」とよばれる伝統のまちである。日光東照宮の造営には飛騨の工が大勢参加したが、以来鹿沼のまちとは長い交流があり、鹿沼の寺社建築、彫刻師の系譜、また屋臺には飛騨の工の技法が秘められている。飛騨高山のふるい友人のお姉さんが鹿沼市にお嫁いりされていて、その奇縁で鹿沼からは多くの方々が来飛されている。

◆00510 木のふるさと伝統工芸館
栃木県鹿沼市

◆00516 仲町屋臺公園
栃木県鹿沼市

◆01245 板荷のあんばさま
□社名 
□所在地  栃木県鹿沼市の大杉神社と板荷地区一帯
□祭神
□祭は三月上旬。  
□山車
天棚
□汎論
 板荷のあんばさまは、栃木県の北部で行われる、大杉神社(日枝神社)と旧板荷村であった上板荷地区、下板荷地区では三月上旬に行われる。【あんばさま】とは、【阿波さまこと、大杉神社】のことで、茨城県の稲敷市阿波に鎮座する大杉神社をいい、「あんば囃子」、「大杉囃子」、「災禍囃子」は関東地方では名高い祭囃子である。
 悪疫退散、地域内の安全の神、また水神とされ信仰を集める。
祭には、大天狗、小天狗、獅子が各家々を訪れ、賑やかなお囃子とともに屋臺が曳かれ、魔除けと春の事触(ことぶれ)を行う。
◆01248 鹿沼の天棚
栃木県鹿沼市

◆01249 屋臺のまち中央公園
栃木県鹿沼市

◆05146 神船神社祭
□社名 神船神社
□所在地 
□祭神
イワサクノカミ 磐裂神
ネサクノカミ 根裂神
□祭は  
□山車
(順不同)
□汎論
 神舟神社の創祀は治承元年(一一七五)とみえる古社。社号の神舟は地名に由来するとある。明星天子(虚空蔵菩薩)の信仰を斎りて星宮大明神の異名がありこれは、明星天子(虚空蔵菩薩)の信仰に由来する。イワサクノカミ(磐裂神)、ネサクノカミ(根裂神)を祀るやや珍しい神社。イワサクノカミ、ネサクノカミは、イザナミノミコトが産んだカグツチノミコトが障りとなってイザナミノミコトが死去したためイザナギノミコトがカグツチノミコトを斬ったあとに生まれた神だとされている。
日光東照宮の近く、日光市上鉢石町に日光星ノ宮 磐裂神社がありやはり祭神がイワサクノカミ(磐裂神)となっている。

●09206 日光市
◆00088 日光弥生祭
栃木県日光市
二荒山神社
祭は四月中旬。
山車(花家体)約二〇臺を曳く。
□汎論
日光東照宮は,東照宮は,束照大権現・徳川家康を祀るため、元和三(一六一七)年四月一七日に創建され、主要な建築物である社殿は、寛永一一年ー同一三年(一六三四ー三六)、奥社は寛永一七年ー同一八年にかけ、三代将軍家光により造替された。
この時造替された本殿や、著名な陽明門を始め,諸社殿五十五棟が,国宝、重要文化財の指定を受けている。
□問い合わせ
日光観光協会
電話0288-54-2496
□山車文献資料
・日光山東照宮造営帳
・徳次郎の彫刻屋臺 池田貞夫
・しのいの史跡 篠井公民館
・栃木県大百科事典 大百科事典刊行会
・日光東照宮の装飾文様 植物鳥類
・日光東照宮の装飾文様 人物動物絵画
・日光東照宮の彫刻について 高藤晴俊
・日光東照宮文庫(株)グラフィック社
・日光東照宮龍図案集
・車輪付き花屋台の誕生 吉新諒次
・とちぎの祭り一〇〇選 月刊さつき研究社
・栃木の祭りと芸能 栃木県立博物館
・狩野了承『日光霊屋彩色仕本』
・日光御宮彩色仕本 文化一〇年三月
・吉祥図案解題 野崎誠近 平凡社
・中国建築の日本建築に及ぽせる影響 飯田須賀斯相模書房刊
・日本建築細部変遷小図録 天沼俊一 星野書店刊星野書店刊
・古建築装飾文様集成 鳥獣・草木・風月編 近藤豊 光村推古書院刊
・日本の唐草 大淵武美 光村推古書院刊
・支那建築細部集 蔵田周忠 洪洋社刊
・石印宋李明仲営造法式 中華民国八年
・東洋建築の研究 上・下 伊東忠太 竜吟社刊
・居庸関 京都大学工学部刊 村田治郎
・日光東照宮建造物装飾文様調査報告I 多摩美術大学刊
・神道史研究 第一二巻第六号神道史学会刊
・東照宮 JSD選書五二 大河直躬 鹿島出版会刊
・日光東照宮建築装飾図集 角南隆 大塚巧芸社刊
・日光東照宮及び各東照宮関連社寺修理工事報告書
・東照宮再発見 高藤晴俊 栃木新聞社刊
・束照宮の彫刻 資料編 東照宮社務所 束照宮文庫
・日光東照宮の彫刻について 高藤晴俊口光来照宮文庫長
・陰陽五行による日本民俗の構造的把握 吉野裕子
・民俗学研究 四五巻 二号
・五行からみた馬と猿の民俗 
・大日光 六二号
(順不同)

◆05148 八坂神社太々神楽
栃木県日光市
八坂神社
□汎論
 八坂神社の創祀は康平六年(一〇六三)と伝え古い神社である。この八坂神社に太々神楽が伝わる。
昭和四十三年に、宇都宮市無形文化財に指定されたが、演じられることが無かったが、平成十九年四月に四十数年ぶりに二荒山神社神楽殿において奉納された。
演舞には次の八番がある。
一 国定めの舞(くにさだめのまい)
二 猿田彦〈天狗〉の舞(さるたひこのまい)
三 二神の舞(にじんのまい)
四 三狐の舞(さんこのまい)
五 天の岩戸の舞(あまのいわとのまい)
六  恵比寿の舞(えびすのまい)
七 大黒の舞(だいこくのまい)
八 山の神の舞(やまのかみのまい)

◇05149 木彫りの里工芸センタ−
栃木県日光市

◆21701 日光輪王寺延年舞
栃木県日光市
□延年舞は五月中旬に行われる。
□汎論
 日光輪王寺の延年舞は、慈覚大師円仁が唐から帰国後に日光山で広めたと伝わる。

●09207 日光市(今市市)
◆03590 瀧尾神社例大祭
□社名 瀧尾神社
□所在地 栃木県日光市(今市市)今市
□祭神
オオナムチノミコト 大己貴命
タゴリヒメノミコト 田心姫命
アジスキタカヒコネノミコト 味耜彦根命
□祭は四月中旬。  
□山車
屋臺
やや不定期に曳かれる。
・住吉町
彫刻は石塚直吉、石塚吉明。
・相生町
建造は明治七年。
彫刻は大出常次郎。
・春日町一丁目
建造は安政六年(一八五九)。
彫刻は後藤音次郎。
彫刻屋臺。
・春日町二丁目
江戸末期の建造と伝わる。詳細不明。
彫刻は神山政五郎、大出常吉。
・小倉町一丁目、二丁目
・小倉町三丁目
・東町
日光市下鉢石町より譲り受ける。
花屋臺。
・仲町
花屋臺。
・朝日町
花屋臺。
・大谷向町
花屋臺。
(順不同)
□汎論
 瀧尾神社の祭神は、日光市山内にある二荒山神社の祭神と同じで、二荒山大神となっているのは、オオナムチノミコト(大己貴命)タゴイヒメノミコト(田心姫命)、アジスキタカヒコネノミコト(味耜高彦根命)だとされる。出雲系のオオナムチノミコト(大己貴命)、タゴリヒメノミコト(田心姫命)、アジスキタカヒコネノミコト(味耜彦根命)とされる。タゴリヒメノミコトはタギリヒメノミコトとされることもあるが、宗像三女神 の一神であリ、オオナムチノミコトとは夫婦神でもある。アジスキタカヒコネノミコトはその夫婦の子で、下照比賣の名が見られないのがちょっと淋しいが、夫婦と子供が仲良く一殿に祀られる。

◆01902 大桑八坂神社祭
□社名 八坂神社
□所在地 栃木県日光市(旧今市市)大桑
□祭神
□祭は七月中旬。  
□山車
屋臺一臺を曳く。
□汎論

◆05152 文挟八坂神社祭
□社名 八坂神社
□所在地 日光市(旧今市市)文挟
□祭神
□祭は七月中旬(不定期齋行)  
□山車
屋臺一臺を曳く。
□汎論

◆05153 大沢八坂神社祭
□社名 八坂神社
□所在地 栃木県日光市(旧今市市)大沢町
□祭神
□祭は七月中旬(不定期齋行)  
□山車
屋臺
・上町
・下町 
(順不同)
□汎論

◆06045 山口滝尾神社祭
□社名 滝尾神社
□所在地 栃木県日光市(旧今市市)山口
□祭神
□祭は八月下旬。  
□山車
屋臺一臺があるが解体保存。
□汎論
 日光市(旧今市市)には瀧尾神社が二社ある。また、日光二荒山神社
は、祭神を二荒山大神としているが、これは、オオナムチノミコト(大己貴命)、タゴリヒメノミコト(田心姫命)、アジスキタカヒコネノミコト(味耜高彦根命)の三神をいい、男体山、標高二四八六メートルにはオオナムチノミコト(大己貴命、千手観音)。女峯山、二四六四メートルにはタゴリヒメノミコト(田心姫命、多岐理姫命、阿弥陀如来)。太郎山、標高二三六八メートルには(味耜高彦根命、馬頭観音)があてられる。三山は神奈備である。日光市には森友瀧尾神社があり、こちらの祭神もおなじ三神に愛宕山の祭神であるカグツチノミコト(軻遇突知命)が祀られる。
 旧今市市(現日光市)の瀧尾神社も同じ祭神が祀られる。オオナムチノミコト、タゴリヒメノミコト、アジスキタカヒコネノミコトの三神は夫婦と子の関係である。古い祭祀の歴史を偲ばせるが、もしかしたら、現在は痕跡をとどめないものの、祭神はセオリツヒメ(瀬織津姫)が祀られていたかもしれない。
 
◆00207 日光杉並木祭
栃木県今市市

●09208 小山市
◆00887 間々田の蛇祭
栃木県小山市

●09209 真岡市
◆00070 真岡夏祭
□社名 八坂神社
□所在地 栃木県真岡市東郷
□祭神
□祭は七月下旬。  
□山車
山車、屋臺
・並木町
・市若
・真若
・田町
・台町
・泉町
・寿町
・旭町
・桜町
(順不同)
□汎論
 真岡夏祭は、従来大前神社の境内にある八坂神社の祭として齋行われてきた。大前神社は延喜式神名帳下野國芳賀郡に記載される古社。
祭神はオオナムチノミコト(大己貴命)。おなじく芳賀郡に記載される荒樫神社が合祀される。祭神はコトシロヌシノミコト(事代主命)現在はアマテラスオオミカミ(天照大神)が併祀される。
 境内には八坂神社 祭神スサノオノミコト(須佐之男神)ほか、雷神社(大雷神)、琴平神社(大物主神)、大物主大国魂神社(大物主神・大國魂神)、大杉神社(大山祇神)、天満宮(菅原道眞命)、荒神社(素盞嗚命)、淡島神社(少彦名神)、稲荷神社(稻倉魂神)、足尾山神社(猿田彦神)、恵比寿神社(事代主神・彌都波能賣神)ほかが祀られる。

●09210 大田原市
◆03576 大田原屋台まつり
□社名 大田原神社
□主催 大田原市屋台まつり実行委員会
□所在地 栃木県大田原市
□祭神
オオナムチノミコト 大己貴命
スクナヒコナノミコト 少彦名命
□祭は四月中旬。  
□山車
屋臺
・寺町
江戸時代にはすでに屋臺があった。嘉永元年(一八四八)に、茨城県美和村鷲子地区宿組に譲渡された記録が残る。
大正初期に花屋臺を建造したが昭和三八の大改修で彫刻屋臺となった。
・大久保町
旧臺は火災により焼失。戦争末期の昭和二〇年に建造された。
・荒町
幕末には山車があったと伝わり、たびたび改修された。
・上町
嘉永二年(一八四九)の建造。
・仲町
幕末の建造。
大正八年に大改修。このとき彫刻が付加された。
改修時の彫刻は中尾萬太郎。
・下町
文政元年(一八一八)の建造。
彫刻は後藤正秀と、後藤政冶。
大田原市に現存する屋臺ではいちばん古い建造の歴史がある。
・栄町
昭和二二年、従来のに花屋臺を彫刻屋臺に改修。
工匠は鈴木源一郎。
彫刻は神山寅吉。
・元町
昭和五五年頃、益子町より譲り受けた。
(順不同)
□汎論
 大田原神社は龍城公園の北丘陵にあり、創祀は不明当初は温泉神社の名称があったといわれる。藩制期には大田原藩主の崇敬が篤かったと伝わる。

●09211 矢板市
◆05159 塩竃神社祭
□社名 塩竃神社
□所在地 栃木県矢板市
□祭神
シオツチノオジ 塩土翁命
タケミカヅチノミコト 武甕槌命
フツヌシノミコト 経津主命
□祭は七月下旬。  
□山車
屋臺、小屋臺。
・第一区
・第四区
・第五区
・第六区
・末広町
(順不同)
□汎論
 矢板市の塩竃神社の祭祀形態は、宮城県塩竃市の祭神と同じ形になっている。鹽竈神社は全国各地にあり塩釜神社、塩竃神社などと号し、祭神シオツチノオジノカミの表記も、塩土翁命、塩椎神、塩土老翁、塩筒老翁などと多様であり、コトカツクニカツナギサノカミ(事勝因勝長狭神)は別名だとされている。
 塩竃市の鹽竈神社は左右に鹿島神と香取神が配されながら、本来なら中央にあるべき鹽竈神(塩土翁命)は、別宮に祀られている。
 延喜式神名帳が編まれたときにはすでに存在していた神社であるが記載がなく、延喜式外社となっている。
 シオツチノオジノカミは、海神族(綿津美氏)の祀れる神であり、
海幸彦、山幸彦の日本神話でよく知られ、借りた釣針を失くした山幸彦に目無籠を与えてワダツミノミヤ(海神、綿津美)へ導いたのが
シオツチノオジノカミだということになっている。
 大和朝廷が台頭した初期に、皇室は祭政一致の理念から、皇室の先祖である、トヨタマヒメ(豊玉姫)以下、海神族(綿津美氏)に祭神の引渡しを求めたが、いずれも失敗に終わっている、チュウアイテンノウ(仲哀天皇)とジングウコウゴウ(神功皇后)が九州に西征したのもその大きな目的だったはずであるが、いずれも目的を達することが出来ず、新しく住吉の三神をたて、オウジンテンノウを祀る宇佐神宮を掌中に収めたことで近畿へ戻っている。
 塩竃神社も鹿島神と香取神は皇室の膝下にはいったが、鹽竈神(塩土翁命)は節をまげず、皇室からの位階もすべて事態している。
 製塩の神としてよく知られるが、安産の神として祀られるのも各地に共通している。岐阜県北部の飛騨市(旧宮川村)に祀られている塩竃神社も、やはり婦人の信仰が厚く、当地が縄文時代の遺物である石棒の出土する土地であることからなんらかの関係が憶測される。

●09212 黒磯市
◆00574 黒磯
栃木県黒磯市

●09301 上三川町
◆02474 白鷺神社例大祭
栃木県上三川町

●09302 南河内町
◆00747 南河内
栃木県南河内町

●09303 上河内町
◆01208 上河内梵天上げ
栃木県上河内町

●09304 河内町
◆05160 白馬神社祭
栃木県河内町

◆05161 上田原八坂神社祭
□社号 八坂神社
□所在地 栃木県宇都宮市(旧河内町)上田原
□祭は七月中旬。
屋臺三臺を曳く。
□山車
・天王原
大正七年の建造。工匠は地元の加藤清次と上組の湯沢長吉。彫刻はかって下組の天棚で使われていた文政期のもの。
・東組
大正一〇年に宇都宮市本郷町で曳かれた弘化二年(一八四五)建造の屋臺を取得。
・西組
昭和一〇年の建造。工匠は戸村由太郎。彫刻は昭和三〇年代に付加。

◆05162 白髭神社白沢宿祭
□社名 白髭神社
□所在地 宇都宮市(旧河内町)白沢
□祭神
□祭は十一月下旬。  
□山車
屋臺
・白沢甲部
黒漆塗彩色彫刻屋臺。
天保四年(一八三三)の建造。
工匠は常蔵。
彫刻は磯部儀兵衛
明治期に修復が行われ、坂本虎吉による漆塗り、手塚卯之吉により
錺師が補われている。
・白沢南
黒漆塗彩色彫刻屋臺。
建造は、現鹿沼新町(現麻苧町)により文化十三年(一八一六)にはじまり、文政三年(一八二〇)の竣工。明治初期に譲り受けた。
その後さらに磯辺木齋と一門により彫刻が付加されている。
(順不同)
□汎論
 白髭神社の創祀は不明。参道には白髭神社ではみかけない神明型鳥居が立つのが珍しい。白沢の地名は【シラ】にちなむと考えれる。江戸時代白澤宿は、奥州街道の宇都宮に続く宿場であった。
鬼怒川の鮎と白沢の牛蒡(ごぼう)が名産として知られ、稚児ヶ坂にあった茶店で出す牛房汁が有名であった。
 祭には古くに作られた立派な屋臺があるが、近年の曳行は不定期となっている。檜を削りだした【梵天(ぼんてん)】があがるが、秋田県の【ぼんてんあげ】に連続する。

◆05163 高尾神社祭
□社名 高尾神社
□所在地 宇都宮市(旧河内町)大字下ケ橋
□祭神
タカオカミノカミ 高□神(□は文字なし)
□祭は十一月中旬。  
□山車
屋臺一臺、ほとんど曳かれない。
黒漆塗彩色彫刻屋臺。
彫刻は神山政五郎と伝わる。
□汎論
 高尾神社は、水を司る神であるタカオカミノカミ(高□神)を祭神とする神社。タカオカミノカミは京都貴船神社ほかに祀られ、ミズハノメノカミ(罔象女神)とともに、農耕に欠かせない水の神として祀られ、干天時には雨乞いの対象として祀られている。

●09321 西方町

●09322 鹿沼市(旧粟野町)
◆00328 口粟野神社例大祭
栃木県鹿沼市(旧粟野町)粟野

●09323 足尾町
◆01251 足尾祭
栃木県足尾町

●09341 二宮町

●09342 益子町
◆00206 益子鹿島神社祭
栃木益子町

●09343 茂木町
◆00175 茂木祇園祭
栃木県芳賀郡茂木町茂木
御獄神社
栃木県芳賀郡茂木町規木
八雲神社
□祭は七月下旬。
屋臺を曳く
□山車
・上砂田
・下砂田
・上横町
大正末期から昭和初期にかけて建造。
・下横町
江戸末期の建造という。
・大町
万延元年(一八六〇)の建造。
彫刻は佐野の立川芳冶。
・仲町
大正ー昭和初期の建造。
・上ノ町
大正ー昭和初期の建造。
・上新町
大正ー昭和初期の建造。
・下新町
大正ー昭和初期建造。
□問い合わせ
茂木町商工観光係
電話0285-63-5644

◆05165 八坂神社祭
栃木県茂木町

●09344 市貝町
◆00529 田野辺の天祭
栃木県市貝町
たかお神社
□祭は八月下旬
□汎論
たかお神社[高□(文字なし=雨かんむりの下に口を三つ並べさらに下に龍を書く)神社。青森県八戸市に「おがみ神社(たかおがみ神社)」があるがおなじ文字である。
天祭(てんさい)は、五穀豊饒と風水害の除難を祈願する祭という。仏教色が濃くかつては、夜を徹して念仏を唱え天棚をまわったという。お盆の棚に縁起をもつという説もある。天棚は依代として一定の期間つくられる。いわば車輪のない山車ともいえる置山である。栃木県内に行われる天棚は。次第に数を減じており、現在は二十数箇所くらいとなっている。和初期のころにはおよそ二百くらいあったというから約十分の一になってしまったわけである。鹿沼市や近隣には見事な彫刻屋臺が見られるが、天棚から流用されたものもある。各地にみられる天棚には神の迎え方、棚を設ける場所、祀りかたなどに若干の差異があるが、
日、月、十二支の軸をかけて供物を供え、天棚下では太鼓、笛、笙などの楽器によりお囃子が演奏される。

●09345 芳賀町
◆00181 祖母井祇園祭 
栃木県芳賀町祖母井七四九
祖母井神社(うばいじんじゃ)
□祭神
ヒコホホデミノミコト 彦火火出見命
コノハナサクヤヒメノミコト 木花開耶姫命
スサノオノミコト 須佐之男命
□祭は七月下旬。
□汎論
 祖母井神社は姥ケ池の西にある。平安時代、久安元年(一一四五)の創祀と伝わる。芳賀の地の鎮守であり、華麗な本殿は、明和七年(一七七〇)に、当地の豪農であった横堀仙左衛門より寄進された。栃木県の指定文化財となっており、夏祭は「とちぎのまつり百選」に選ばれて祭には人形山車、屋臺が曳かれる。川口松太郎のゆかりの地で、

  秋空の 晴れしが涙 さそいけり

 の句碑がある。

□問い合わせ
芳賀町祖母井749
電話 028-677-0277
Fax 028-677-0277

◆06469 星宮神社祭
栃木県芳賀町

●09361 壬生町
◆00264 壬生雄琴神社祭
栃木県壬生町

●09362 石橋町

●09363 国分寺町

●09364 野木町

●09365 大平町

●09366 藤岡町

●09367 岩舟町
◆01200 下津原八坂神社祭
栃木県岩舟町

●09368 都賀町
◆02480 鷲宮神社祭
栃木県都賀町

●09382 栗山村

●09383 藤原町

●09384 塩谷町
◆05166 大杉神社祭
栃木県塩谷町

●09385 氏家町
◆00563 今宮神社祭
栃木県氏家町

●09386 高根沢町
◆00544 阿久津
栃木県高根沢町阿久津

●09387 喜連川町
◆00886 喜連川天王祭
栃木県喜連川町

●09401 那須烏山市(旧南那須町)
◆01209 三箇塙の天祭
栃木県那須烏山市(旧南那須町)

●09402 烏山町
◆00002 烏山山あげ祭
栃木県那須烏山市(旧烏山町)
八雲神社
□祭は七月下旬。
□山車
・元田町
御拝飾 鶴に鯉 明治十年の作。
建造記録は不明。
・金井町
御拝飾 神功皇后と武内宿禰。
寛政八年(一七六九)。常陸美和村国鷲子(茨城県)の薄井武衛門の建造。
・仲町
御拝飾 須佐之男命の八岐大蛇退治。
明治三十七年の建造。
・泉町
御拝飾 神武天皇と金鵄。
明治四十一年の建造。
・鍛冶町
御拝飾 少彦名命大鷲退治。
明治四十年の建造。工匠は井上卯吉。
彫刻は鷲子の小林兵衛門
塗師は佐藤為義
・日野町
御拝飾 牛若丸と烏天狗。
山車の建造は大正元年。
旧鍛冶町だったが分離独立した町。
□汎論
 烏山山あげ祭の行われるのは盛夏。眼もくらむような暑いさなかに行われる。山車は前部およそ四分の一が屋臺
、後部四分の三ほどが、山あげの部材を積む臺車の形態で、町の辻に山車をとめて山をたて、歌舞伎が上演される。 永禄三年(一五六〇)那須資胤は天下泰平、五穀豊穣、疫病消除を祈願して城下五町の鎮守牛頭天王(素盞鳴命)を祀る八雲神社を創建した。永井氏が領主だった元禄期には狂言が行われたといい、やがて城主が大久保侯に移った
享保から宝暦年間にかけては、江戸歌舞伎が隆盛になったのを受け、山車藝能がはじまった。舞臺装置や背景も「山あげ」による大規模なものになり、江戸時代末期には、今日のような全国にも例を見ない絢欄豪華な「山あげ」による野外歌舞伎が行われるようになった。
山あげは、六町内が年番となって交代に行われ、山車の舞臺を中心に道路上の約一〇〇メートルに大山(おおやま)・中山(なかやま)・前山・館(やかた)・橋・波などを配し、舞臺のすべてをつかい、 新緑が一瞬にして紅葉に変わるなどの陰の演出には青年らが巨大な山を操作する。
歌舞伎は常磐津にあわせて上演されるという壮大なものである。盛夏の炎天で観客は身じろぎもせず見入る。所作狂言が終演すると、装置はあっというまにとりかたづけて山車に積み、つぎの上演場所に移動する。
山は竹を割って網代に編み烏山和紙を幾重にも重ね張りしてつくるが、山があまりにも大仕掛のため、和紙をはるのりにするうどん粉を多量要するため値上がりしたというエピソードがのこされている。
これまで演じられた藝題には
「平将門」
「戻り橋」
「宗清」
「狐忠信」
「梅川忠兵衛」
「関の扉」
「蛇姫様」
「自雷也」
「奥州安達ヶ原・黒塚」
などがある。

●09403 馬頭町
◆00184 たけのこ祭
栃木県馬頭町

●09404 小川町
◆05176 小川町町民まつり
栃木県川町

●09405 湯津上村

●09406 黒羽町
◆00390 鹿島神社祭
栃木県黒羽町

●09407 那須町
◆00295 大助祭
栃木県那須町

●09409 西那須野町
◆01334 三島神社祭
栃木県那須塩原市(旧西那須野町)

●09410 塩原町
◆00888 梵天あげ
栃木県塩原町

●09421 田沼町
◆00543 田沼祇園祭
栃木県佐野市(旧田沼町)閑馬町
□祭は七月下旬。
花屋臺を曳く。
□汎論
示現神社の境内に摂社八坂神社が祀られていて祇園祭を行う。
花屋臺が四臺ほどでる。

●09422 葛生町
◆00797 八坂神社夏祭
栃木県葛生町

20130106 更新

 ◆日本山車論
目次
 ◆左甚五郎傳
左甚五郎傳
 ◆斐太ノ工
斐太ノ工
 ◆谷口與鹿
谷口與鹿
 ◆論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆阿波國
◆安房國
◆安藝國
◆伊賀國
◆隠岐國
◆越後國
 ◆古代祭祀と神南備山
古代祭祀と神南備山
 ◆玉依姫  様