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日本の山車 日本の山車
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標題の写真説明
2014-07-01
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  表題の写真説明
 ボックスのタイトル : 近畿
 題名 : ◆京都府

日本の山車 京都府

京都府総論
◆20037 京都の鉾と鉾差
□汎論
鉾 一本柱山車
 桓武天皇による平安遷都は、延暦十三年(七九四)十月二十二日。いご長きにわたって「都・みやこ」として歴史、文化を育んできた。八世紀以後京都には多くの神社が建立され、祭が行なわれてきた。祇園祭の鉾はこの鉾がおおきく発展した山車と考えられる。いまでも祭に伝承の鉾を出す神社がある。春祭と秋祭に大別され、京都から他地方に伝播したものもある。記述に洩れるものもあるだろうが、例示すると次のようになる。またいまもこれらがすべて鉾の出る祭をしているかどうかは不明である。
春祭
・熊野神社 東山丸太町
・神泉苑 善女龍王社
・清和天皇社 水尾
・大豊神社 鹿ケ谷
・八大神社 一乗寺
・今宮神社 紫野
・鷺森神社 修学院、山端
・崇導神社 上高野
・地主神社 清水各町
・藤森神社 東福寺、深草
・八瀬天満宮社
・須賀神社 聖護院 西天王
・吉田神社 吉田
・新日吉神宮
・菅大臣神社
・市比賣神社
・ゑびす神社
・梛神社 元祇園 壬生
・御霊神社(上御霊神社)
・下御霊神社
・愛宕神社、野宮神社
秋祭
・三嶋神社 馬町
・晴明神社
・瀧尾神社 東福寺
・住吉神社 中堂寺
・北野天満宮
・平岡八幡宮 梅ケ畑
・春日神社 西院
・今宮社 吉田
・北白川天神宮
・長谷八幡宮 岩倉
・木嶋坐天照御魂神社 太秦
・御香宮 伏見
・山国神社 御霊神社境内社
・粟田神社 感神院新宮
・五条天神社 天使社
・岡崎神社 東天王
・八神社 浄土寺
・今宮神社 花園
・住吉大伴神社 龍安寺
・福王子神社
・山王神社 山ノ内
・城南宮
・三栖神社
・由岐神社
・石座神社 岩倉
・幡枝八幡宮 岩倉
・天道神社

●26101 京都市北区
◆00957 花脊松上げ
京都府京都市北区
 
◆01112 京都北区大森
京都府京都市北区 

◆01842 今宮祭
京都府京都市北区

◆04950 北野天満宮
京都府京都市北区 

●26102 京都市上京区

●26103 京都市左京区

●26104 京都市中京区

●26105 京都市東山区
◆06297 粟田神社大祭
□社名 粟田神社
□所在地 京都府京都市東山区粟田口鍛冶町
□祭神
スサノオノミコト 素盞嗚命
オオナムチノミコト 大己貴命
□祭一〇月中旬。
大きな剣鉾がでる。
□山車(剣鉾)
・阿古陀鉾(瓜鉾)
・第一番 地蔵鉾 西村家守護
・第二番 柏鉾
・第三番 三鈷鉾 東町の守護。
・第四番 菊鉾 堀池町の守護。
・第五番 弓矢鉾 五軒町の守護。
・第六番 鷹羽鉾 東小物座町の守護。
・第七番 葵鉾 今道町の守護。
・第八番 橘鉾 分木町の守護。
・第九番 松鉾 南西海子町の守護。
・第十番 獅子牡丹鉾 大井手町、今小路町の守護。  
・第十一番 瓜巴鉾 西町の守護。
・第十二番 垣夕顔鉾 夷町の守護。
・第十三番 葡萄栗鼠鉾 古川町の守護。
・第十四番 竹虎鉾 堤町の守護。
・第十五番 琴高鉾
・第十六番 日月龍鉾 七軒町の守護。
・番外 桐鉾 中之町の守護。
□汎論
 神社の創祀は不明。一説に粟田氏の氏神として祀られたといわれる。京都に通じる七道のひとつ東海道口にある。茶道村田珠光の弟子だった粟田口善法の旧地、陶器の粟田焼きでも知られる。
 鉾の古態様を伝える大きな剣鉾が十八基あり、そのうちから例年六基づつがでる。
 近くに知恩院の七不思議のひとつとされる「瓜生石(うりゅういし、かしょうせき)」がある。スサノオノミコト(素盞嗚命)が天から降った石だといい、神職、僧職らにより神事と法事が行われる。神籬である。 

◆00023 祇園祭
□社名 八坂神社
□所在地 京都市東山区
□祭は七月。
□山車
・長刀鉾
四条通東洞院西入
鉾の名は鉾先に疫病邪悪をはらう長刀を付けていることによる。
古来籤取らずといいかならず巡行の先頭を行く。稚児がのる。
いまは長刀鉾のみ。
前掛
胴掛
はともに一八世紀の絨毯。
・芦刈山(あしかりやま)
綾小路通西東院西入
妻が去ったあと、難波で芦を刈る老爺の姿をあらわすご神体の古衣装に、天正の在銘の小袖があり重要文化財に指定されている。

・綾傘鉾(あやがさほこ)
綾小路通室町西入
傘鉾の一つ
棒ふり囃子がつく
棒ふり囃子は
赤熊をかぶり、棒を持ったものが鉦、太鼓、笛に合わせて踊る。
・郭巨山
別名「釜掘山」
中国の故事二十四孝の一人郭巨の物語に因む。
・岩戸山(いわとやま)
新町通仏光寺下ル
天照大神の天の岩戸隠れの神話。
天照大神
手力雄尊
など三体の御神体を祀る
イザナギノミコト(伊弉諾命)は屋根の上に安置する。
・菊水鉾(きくすいほこ)
室町通四条上ル
町内に菊水井戸があった。鉾頭には金色の菊花をつける。
長年休止していたが、昭和二七年、八八年振りに再興された。
・橋弁慶山(はしべんけいやま)
蛸薬師通室町東入
弁慶と牛若丸が五条の橋の上で闘う姿をあらわしている。これらの人形には永禄六年の銘がある。
・鶏鉾(にわとりほこ)
室町通四条下ル
中国、堯の時代
天下がよく治まり、訴えを聞く太鼓が鳴らず鶏が巣をつくったという古事にちなむ。
見送りはトロイの王子と妻子の別れを描いた十六世紀ベルギーで製作された毛綴。
重要文化財に指定される。
・月鉾(つきほこ)
四条通室町西入
鉾頭に新月を付ける。「天王座」には月読命を祀る。
屋根裏の草花図は丸山応挙
破風蛙股の彫刻は左甚五郎作と伝える
軒桁
四本柱
などの飾り金具はみごと。
・黒主山(くろぬしやま)
室町通三条下ル
歌人大伴の黒主が櫻の花を仰ぎ眺める図
ご神体は寛政元年の作。
前掛は中国の雲龍文綴錦。
・山伏山(やまぶしやま)
室町通蛸薬師下ル
ご神体の山伏は昔、八坂の塔が傾いたとき法力によりなおした浄蔵貴所の大峰山入りのすがた。
・四条傘鉾(しじょうかさほこ)
四条通西洞院西入
傘鉾の一つ
傘の上に御幣と若松を飾る。
踊りは昭和六十三年に復元された。
棒ふりなどを、子供八人が演じる。
・浄妙山(じょうみょうやま)
六角通烏丸西入
宇治川の合戦で三井寺の僧兵筒井浄妙と一乗法師の奮戦の一瞬を見事な人形組で表現する町内所有の鎧は重要文化財に指定される。
・占出山(うらでやま)
錦小路通室町東入
神功皇后が、三韓出立に当たって、肥前の国松浦で鮎を釣って戦勝の吉兆とした。
前掛
胴掛
日本三景を描く。
安産のお守りを授与する。
・太子山(たいしやま)
油小路通仏光寺下ル
聖徳太子が四天王寺を建立に当たり自ら山中にはいって良材を求めた聖徳太子を祀る。
知恵のお守りを授与する。
・南観音山(みなみかんのんやま)
新町通錦小路上ル
楊柳観音と脇侍に善財童子を祀る。
新しい見送りは加山又造。
「龍王渡海図」
旧前掛はペルシャ絹絨毯。
・伯牙山(はくがやま)
綾小路通新町西入
中国の周の時代琴の名人伯牙が知人の鍾子期の死を聞いてその琴の絃を断った「伯牙断琴)の故事にちなむ。
前掛は「慶壽裂」の逸品
・白樂天山(はくらくてんやま)
室町通綾小路下ル
白樂天が道林禅師に仏法の大意を問うところ。
前掛はトロイ戦争のトロイ城陥落を描いた十六世紀の毛綴。
・函谷鉾(かんこくほこ)
中国、斉の時代孟嘗君が家来の鶏の鳴き声により函谷関をあけさせ脱出できた故事による。前掛は旧約聖書前世紀の場面を描いた十六世紀の毛綴で重要文化財。
・保昌山(ほうしょうやま)
東洞院通松原上ル
平井保昌が和泉式部のために紫宸殿の紅梅を折ってくる姿をあらわしている。
前掛
胴掛
丸山応挙の下絵
縁結びのお守りを授与する。
・放下鉾(ほうかほこ)
新町通四条上ル
鉾の名は、天王座に「放下僧」を祀ることによる。
鉾頭は「日月星」の三光が下界を照らす。
下水引幕は与謝蕪村の下絵
・北観音山(きたかんのんやま)
新町通六角下ル
山の上に楊柳観音像と韋駄天像を祀る。
もとは舁山であった真木には松の木を立てる。
飾り金具は精巧で豪華。
・孟宗山(もうそうやま)
烏丸通四条上ル
筍山ともいう。病身の母を養う孟宗が母のほしがる筍を掘り当てた姿をあらわす。中国二十四孝のひとつ。
見送りは、竹内栖鳳の白地墨絵の孟宗竹図。
・木賊山(とくさやま)
仏光寺通西洞院西入
我が子を人にさらわれてひとり信濃の国伏屋の里で木賊を刈る翁。
ご神体は元禄五年の墨書き銘がある。
・役行者山(えんのぎょうじゃやま)
室町通三条上ル
修験道の祖
役行者が一言主神を使って葛城と大峰の間に石橋を架けたという伝説にちなむ。
見送りは中国の唐美人図。
綴錦
・油天神山(あぶらてんじんやま)
油小路通綾小路下ル
朱塗りの社殿に天神像を安置する。
見送りは「宮廷園遊図」で、毛綴の逸品。
・鈴鹿山(すずかやま)
烏丸通三条上ル
伊勢の国鈴鹿山で人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現を女人の姿であらわす。
前掛
胴掛
中国故事人物図の秀品。
・蠎螂山(とうろうやま)
西洞院通四条上ル
「かまきりやま」ともよばれる。
蟷螂と、御所車の車輪が動く。京都祇園祭では唯一の「からくり」。
装飾は近年新調された。
・霰天神山(あられてんじんやま)
錦小路通室町西入
京都に大火があったとき霰が降り猛火は消えた。そのとき天神が降ったので、それを祀ったのが起こりだという。
日除けのお守りを授与する
□汎論
 祇園会は、古くは祇園社、感神院などと呼ばれた京都八坂神社の祭礼である。
 八坂神社が、祇園社として登場するのは『日木紀略』延長四年(九二六)六月、修業憎が祇園天神堂を供養したというのがもっとも早いとされ、次いで天徳二年(九五八)五月、石清水・上賀茂、下鴨以下の諸社に疫病防除のため『仁王般若経』の転読を命ずる官宣旨があり、その中に西寺御霊堂、上出雲御霊堂と並んで祇園天神堂の名が見られる。
 この官宣旨は祇園天神堂が平安時代初期の御霊信仰と深くかかわることを示すとともに、一方では古い天ツ神の信仰が根強く残つていたことをものがたる。
 平安京以前の京都盆地には、北に賀茂の上・下の社、西に蜂岡寺(のちの広隆寺)や松尾社、東南に稲荷社、東に八坂塔で知られる法観寺や祇園天神堂の前身である社など、その四周に社寺が点在し、それぞれ集落が営まれていた。
北部の加茂氏、西南部の秦氏、六世紀後半ごろ高句麗からの渡来人である狛氏(高麗氏)が東部の愛宕郡八坂郷に居住した。狛氏は『新撰姓氏録』にあるように、八坂造の中心となる。
 当初、八坂郷の鎮守として八坂造によって祀られた祭神は、賀茂氏の上社や、秦氏の松尾・稲荷社と同じように農耕の神であったと考えられる。
 農耕の神は下鴨社の祭神が加茂別雷命であり、北野天満宮が菅氏の神となる以前、雷を天ツ神として祀る北野の天神社であったように、稲作にとって不可欠な雨をもたらす雷神を祀ることが多く、この八坂郷の鎮守も雷を天神として祀っていたと考えてよかろう。
 八坂神社蔵『八坂郷鎮座大神記』は、斉明天皇二年(六五六)に韓国の調進副使伊利之使主の再来にあたつて、新羅の牛頭山にまします素凌嗚尊を祀つたと記している。
 後世の伝承ではあるが祭神を素凌嗚尊とするのは、社が天神の荒御霊として雷神を祀り、斉明二年とするのは、おおよそ七世紀の中ごろ神社としての祖型が成立していたと推定される。
『二十二社註式』、『祇園牛頭天王縁起』は、その祭神と創始を天竺の祇園精舎の守護神である牛頭天王とし、はじめ明石浦に垂流し、同じ国の広峰に移り、貞観十八年(八七六)八坂郷の樹下に迎えられた。農耕祈雨の神から疫病退散の神へという。
 延暦十三年(七九四)平安遷都により、愛宕郡八坂郷は平安京の条坊に隣接することとなり、その住民が洛中に進出し、その鎮守である農耕神の性格もしだいに変化していった。
 平安京遷都に先立つ藤原種継暗殺事件で憤死し、のち崇道天皇と恐れられる廃太子早良親王、平城天皇即位にあたり、謀叛の疑をかけられた伊予親王とその母ら、事に座して殺された多くの怨霊が、都市化が進む中で起こる疫病の流行もその御霊たちの崇りだと考えられるようになつた。
 貞観五年五月二十日には、勅命により神泉苑において崇道天皇以下六大の怨霊を鎮める盛大な御霊会が営まれた。この年は春以来、風邪の流行がひどいので、朝廷が御霊会を修した。
『三代実録』によればこれ以前より御霊の崇りによる疫病退散を願う御霊会は、当時の社会の習俗として広く定着している。

日吉山王祭礼図
京都東山の祇園社と、日吉山王社は密接な関係をもってきた。祇園社は祇園感神院が天台宗となり、天台宗守護の護法神である日吉社とは本末的関係とにある。院政期以来、奈良春日社の神木とともに強訴にあたっては日吉社の神輿がいわゆる「神輿振り」で入洛する時は祇園神人が加勢し、また祇園社の神輿がそれに加わっている。

祇園御霊会のはじまり
 貞観五年五月二十日、神泉苑で営まれた御霊会は、四方の門を開放して一般の観覧が許された。
 儀場には崇道天皇以下六つの霊座が設けられ花果が供えられた。まず『金光明最勝王経』一部と『般若心経』六巻の読経ののち、雅楽寮の伶人による楽、天皇近侍の児童らによる舞が奉納され雑伎、散楽など様々な芸能が競演されたが、勅命により王公卿士もみな列席するというものであった。このころ「風俗ト成ル」とある。

社会的習俗として行われた御霊会
『三代実録』は一般的な御霊会の流行を述べ、その御雲会は仏を祀り、経を説き、御霊を慰撫してその崇りを鎮めるために、歌舞・演劇・相撲・騎射・競馬などの歓を尽くす、と記載されるように、衆目を集める祭礼要素を備えていた。
 貞観七年六月十二日の御霊会には、御霊会に事寄せて「濫りに徒衆を聚め、走馬騎射」することを禁じ
御霊会の営まれる地は、神泉苑のように平安京の条坊内はむしろ少なく、多くは出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・東寺・西寺・白川など条坊を少しはずれた郊外の地であった。 御霊会の中心となる祇園八坂の地もその祭場の一つであったが、その祇園御霊会が歴史に見るのは『二十二社註式』の「祇園社祭礼」の項にある、「円融院、天禄元年(九七〇)六月十四日御霊会を行なう」とあるのが最初とされる。
天徳二年。御霊会とは称していないが、疫病防除の祈祷が西寺御霊堂、上出雲御霊堂とともに祇園天神堂で営まれ、貞観五年には勅命による神泉苑の御霊会に関わった藤原基経が、元慶年間(八七七ー八五)この地に観慶寺(感神院の別称ともいう)をつくっていることから見ても、祇園八坂が御霊会の地となったのはこれより前であろう。
『祇園社本縁録』によれば、貞観十一年天下に疫病流行し、これを牛頭天王の崇りとして、六月七日に、日本六十六国の数に準じて六十六本の鉾を作り、洛中の男児が神泉苑に送ったという。
御霊会が盛行し、疫病が蔓延するなかで病魔退散の牛頭天王が迎えられ、それまで天神を祀っていた八坂の鎮守の上に牛頭天王を祀ることになり、祇園天神堂とも呼ばれて御霊会が営まれるようになった。
『二十二社註式』には、祇園御霊会は天禄元年に始まるとしているのは、牛頭天王を祭神とする祇園社の御霊会の神威が世間に広がり、朝廷もこの年より官祭として御霊会を祇園社で営むようになったことが考えられる。
 本来、疫病流行などの節、臨時祭として挙行された御霊会が、この年より祇園御霊会が年中行事となったとみられる。

標山
 天長一〇年(八三三年)十一月、『日本後紀』に続くといわれる、『続日本後紀』は、文徳天皇の勅命により齋衡二年(八五五)に編纂がはじまり、貞観十一年年(八六九)に完成した平安時代の歴史書である。これに、仁明天皇の即位式である大嘗会(だいじょうえ)に、標山が曳かれ記録があって、これは標山最古の記録とされている。
 標山には、「しるしのやま、ひょうのやま、しめやま」などさまざまな呼び方があり、移動神座の性格から山車の原型と考えられている。大嘗会にはかならず標山が曳かれるというものではなくときに中断され、のちには標山は廃止され、出なくなっている。

无骨の柱
 長保元年(九九九)六月十四日の祇園天神会のさい、无骨(むこつ・無骨)というものが、柱を作って祇園社の社頭に渡そうとした。无骨は法師だったともあり、軽業師だったという説もあるが、生国不明、身分不詳の人物である。京都の人物ではなかったらしい。 无骨の柱は話題となったが、一方で、これは天皇即位の標山に似ているというものがでてきて騒然となった。朝廷では検非違使を遣わしてこれを阻止、禁止するとともに、无骨をとらえようとしたが、これを知った无骨はいちはやく逃亡してしまっていた。
 ところがこの事件はあとを曳いた。祇園社では呪師憎が禮盤から顛落する事故が発生。また、修理職から出火して皇居の内裏が炎上するという不祥事が発生し、人々はこれらを天神の怒りと噂し、无骨の柱が御霊会のさい渡御できなかったことへの神の怒りときめつけた。
 標山は天皇の即位の時だけに立てられるものではなく、また当時、大嘗会の標山に定型が確立していたわけではない。その後は庶民の強い支持があって、无骨の柱は次第に京都の町に定着していき、都大路を練ることとなった。また以後これの取り締まりも行われていない。京都祇園祭、山鉾の濫觴として無視できず、山鉾の起源として考えられ、論じられる。

八坂神社と御霊會
 京都東山の八坂神社の創祀はその起源を詳らかにしない。
 平安遷都が行われたのは、延暦十三年(七九四)であるが、平安京が次第に形成されてゆく過程で、遷都にともなう多くの犠牲者が出た。これと相前後して疫病が流行し、これを鎮めんとたびたび、御霊會が行われている。貞観五年(八六三)五月二十日、勅命により神泉苑において崇道天皇以下の六大怨霊を鎮める盛大な御霊会が営まれている。平安京に蔓延する疫病は怨霊のしわざと信じられていたからである。
 上御霊神社、下御霊神社そして、祇園社は霊を鎮める勅願寺だったが、いうまでもなく祇園会は、祇園社、感神院などと呼ばれた京都八坂神社の祭礼である。八坂神社が祇園社としてその名が見られるのは『日木紀略』延長四年(九二六)六月に、修業僧が祇園天神堂において御霊を供養したとある。
 天徳二年(九五八)の五月には、石清水八幡宮、上賀茂神社、下鴨神社に疫病退散を祈願するため『仁王般若経』の転読が命じられている。しかし、延喜式神名帳に八坂神社の名はない。延喜式神名帳が編まれているころは、神社より寺院として見られていたのかもしれない。
 祇園社は朝廷より天臺宗の寺院として、たびたび怨霊の御霊を鎮める命を受けていたことがうかがわれ、実践してきた歴史がある。これは厳然とした事実である。このことから、祇園祭に曳かれる「山車・山と鉾」は市中に群れる怨霊を賑やかに囃し、華麗な山と鉾にあつめて神仙苑に誘い、ここで山車から悪疫を放逐するとする、「祇園御霊會」が定説化して、現在見られる解説書でもほとんどがその説を採っている。
 しかし、筆者はこれは大きな誤りではないだろうかと考える。

祇園祭
 祇園祭の山鉾は、京都の町に流行した疫病を、山車に集め、神仙苑で放逐する考えは誤りでないかと指摘した。各方面に多くの異論があることと思う。筆者としてはその根拠を示さなければならない。
 八坂神社が古来、怨霊の御霊を鎮める社寺であったことを述べた。
 怨霊が跳梁するのは、その相手が為政者・権力者であるべきで、怨念が大衆に向けられるべきものではない。
 御霊の降魔、調伏、慰霊、鎮魂、清め、祓いなどを行うのは社寺の神事、あるいは祈祷、法力などによるべきところであって、町方の山鉾が担うべき筋合いのものではない。
 仮に京都の山車がそれを担うことがあったとすれば、その除霊のため、四条大橋をわたって八坂神社に参内して御祓いを受けるのは当然であろう。いまは四条大橋は鴨川より高くなってしまっているが、山車曳行が千年もつづいていれば鴨川で禊をする慣習が生まれていても不思議ではない。しかし、山鉾は四条大橋を渡って祇園町に向かうことはない。おそらく過去においてもなかったのではなかろうか。
 山鉾は、国宝、重要文化財の多くを飾り、且つ、とてもたいせつに扱われる。鉾たて以後の各組では、粽をつくり、お守り、お札を求める人に丁重に応じている。たとえば、船鉾には、身重の神功皇后が乗るが、身にまとう岩田帯は、安産のお守りとして妊婦がこぞって求める。山車が怨霊病魔の巣窟だったら事態はどうなるか。
 柱(真木・しんぎ)に降る神は、素盞嗚命ではなく、悪霊でもない。
 无骨以後の山車はまちがいなく町衆のものであり、豊穣、健康、豊産、福運などをもたらす予祝の存在と考えられる。
 山車は祭に曳かれるが、神社とは一線を画しているのは日本各地いずこにも共通する。 山車どうしをぶっつける。山車とみこしをぶっつける。喧嘩はする。山車を曳く態様は一様ではなく、中には当然病魔を追い払う妥当な解釈ができる祭は存在する。だが、京都の祇園祭の山鉾の解釈は考え直すほうがいいのではないか。

祇園祭の傘鉾
 祇園祭には、四条傘鉾、綾傘鉾の二基の傘鉾が出る。

◆23444 八坂神社
京都府京都市東山区祇園町
八坂神社
□祭神
中間
スサノオノミコト 素戔嗚尊
東間
クシイナダヒメ 櫛稲田姫命
ダドクケノカミ 蛇毒気神
西間
ヤハシラミコノカミ 八柱御子神
□汎論
 八坂神社の創祀は、齋明天皇期二年(六五六)に、朝鮮半島高句麗より来日した調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られているスサノオノミコト(素戔嗚命)を祖神として山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるという。これは、平安遷都以前のことである。貞観十八年(八七六)に僧、円如が播磨国廣峯(兵庫県姫路市)の牛頭天王の分霊を遷したとされる。
 祇園社は奈良興福寺の支配下にあったが、一〇世紀後半には比叡山延暦寺の末寺となった。滋賀県坂本に鎮座する日吉大社と関わりが深く、中世しばしば行われた僧兵の強訴には行動をともにしている。
 延久二年(一〇七〇)に鴨川の西岸地域を「境内」として認められ、朝廷の「不入権」が承認されている。山鉾を所有する町、および四条通り、四条川原町、烏丸通りで囲まれる範囲は概ね祇園社の旧境内地であったと考えてよいだろう。
 一三八四の南北朝期、足利義満は祇園社を比叡山から独立させたが、祇園祭は経済力をつけた京の町衆が執行するようになった。山鉾はこの権力者の支配を受けないなかで、おおきく花開いた。
 八坂神社は明治の神仏令により、神社となったが、江戸末期までは神仏習合の寺院としての性格が強かった。この時期における祭神は、次に記すように仏教のほとけが本地としてあてられている。
垂迹 本地
祇園大明神 牛頭天王 素盞嗚尊 薬師如来
波利采女 稲田媛命 十一面観音
八王子(総) 八柱御子神 文殊菩薩
八王子(各)
太歳神 相光天王 普賢菩薩
大将軍 魔王天王 文殊菩薩
歳刑神 徳達神天王 観音菩薩
歳破神 達尼漢天王 勢至菩薩
歳殺神 良侍天王 日光菩薩
黄幡神 侍神相天王 月光菩薩
豹尾神 宅相神天王 地蔵菩薩
大陰神 倶摩良天王 龍樹菩薩
東王父 普賢菩薩
西王母 虚空蔵菩薩
蘇民将来 摂社 疫神社 薬王菩薩
粟佐利女 薬上菩薩
蛇毒気神 弥勒菩薩
海龍王 龍樹菩薩

 八坂神社には全国に約二三〇〇社ある八坂神社の惣社であるが、兵庫県姫路市にある廣峰神社も、八坂神社の惣社を主張している。八坂神社は廣峰神社から分祀を受けて祀られたとされるが外部の人間である筆者は、八坂神社と廣峰神社の関係に言及できない。
 八王子神は、スサノオノミコト(素盞鳴命)とアマテラスオオミカミ(天照大御神)の誓約(うけい)によって生まれた子である。誓約は普通は結婚と解されるところだろうが、両者が後に不和となったこともあって、あいまいさに隠れ不明のままとされている。
 蛇毒気神は、他の神社では見受けられない特殊な神である。御霊の象徴神とでもいえようか。

●26106 京都市下京区

●26107 京都市南区

●26108 京都市右京区
◆01099 大辟神社の牛祭
□社名 大辟神社
□所在地 京都府京都市右京区太秦
□汎論
 マタラシン(摩多羅神)は、マタリシン(摩怛利神)ともいい、もとはインドの神で、仏教では天台宗の本尊とされ、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。
天台宗の円仁が唐代に五臺山において引声念仏を相伝し、帰国の船にあったとき、虚空から摩多羅神の声を聞いたといい、帰国後比叡山に常行堂を建立して日夜籠り、阿弥陀信仰を始めたとされる。
摩多羅は、丁礼多(ていれいた)、膩子多(にした)の二童子を従えた三尊であらわされる。
仏教の大黒天は仏教の守護神で、天部の尊像であり、忿怒形であらわされる。しばしば大國主の命と混同されることが多いが、摩多羅神とも褶合することがある。

●26109 京都市伏見区

●26110 京都市山科区

●26111 京都市西京区

●26201 福知山市
◆01184 日室ヶ嶽
□社名
京都府福知山市大江町内宮
元伊勢 内宮皇大神社
元伊勢 外宮豊受大神社
□所在地 京都府福知山市大江町天田内
□汎論
 これは仮説である。
 元伊勢 内宮皇大神社と、元伊勢 外宮豊受大神社は三重県の「伊勢神宮」の元宮にあたり、創祀は三重県の伊勢神宮よりおよそ七〇年あまり古いとされる。棟を支える棟持柱が外部に立ち、屋根は直線に葺きおろされる。この形式の神社は、屋根に反りを持たせる一般に見られる神社建築の唯一神明造で、また、出雲大社に見られる「大社造」とも一線を画する建築様式である。『任那と日本』の著者である、金廷鶴氏の記述の中に、韓国で国立博物館を建造する計画図に添えられた建築透視図の建築物は伊勢神宮そっくりだったことから、批判を招いたとあり、同氏は、いまは存在しないが、かって朝鮮半島にあった神社が伊勢神宮にそっくりであったとの指摘がある。つまり、元伊勢内宮皇大神社と、元伊勢 外宮豊受大神社の神社建築は、朝鮮半島から渡来した人々によってもたらされたとうことになる。 現在、神社の存在しない韓国に伊勢様式の建築物を索めることは至難であるが、記憶の中にはとどめておく必要があるので問題提起しておく。
 日室ヶ嶽は、両社の至近距離にある神南備山である。登頂禁則地であったが、近年はまれに登頂する方があるらしい。非公式ながらそのレポートによると、山頂には磐座があるらしい。筆者按ずるに、日室ヶ嶽は山そのものをご神体とする神南備山と推定する。元伊勢 内宮皇大神社と、元伊勢 外宮豊受大神社はその里宮にあたるものだろう。
 元伊勢 内宮皇大神社の境内には、国歌君が代で歌われる、「さざれ石が巌」になった岩が奉納されている。
 
◆01747 福知山の播州歌舞伎
 福知山市の北部を流れる由良川は、さらに北に流れて丹後半島の由良で、若狭湾に入る日本海に注ぐ川であるが。研究者によると、太古の地質時代には、由良川は現在の綾部市から長田野を通り、兵庫県の竹田石生(いそう)を経て加古川にいたり、播州で瀬戸内に流れる川だったという。地殻の変動により、丹波山地が隆起し、大江町あたりが沈降して流れが変わったということのようである。加古川の堆積積土壌には由良川と同質の成分が層をなしているのが見られるとのことである。
 石生は分水嶺となっていて、ここでは一本の川が中央で二つに分岐し、分かれた水は日本海と瀬戸内海に流れる水流に分かれるのである。このあたりの海抜は百メートルにも見たないらしい。氷上郡の青垣町に古い友人がいて、案内してもらったことがある。
 古代から、中世、さらに近世にいたる歴史には、河川の流域文化が一体となっている例がよく見られる。福知山の播州歌舞伎はその好例といえないだろうか。
 【播州歌舞伎】は、その名称でもわかるとおり播州起源である。元禄時代(一六八八−
一七〇四)に、加西市の北条で始められたとする高室歌舞伎(農村歌舞伎)をその淵源とし、高室の座は昭和十二年頃までは続いたといわれるが、このころに消滅した。
 しかし、兵庫県多可郡多可町中区の【嵐獅山一座】が、その伝統を今も継承している。
高室には、化政期といわれる江戸時代でも華やかな一時代であった文化・文政時代には、高室にもこの時代の役者の碑が残される。
 福知山市でも宝暦年間にはすでに歌舞伎村があったと伝わり、福知山の【嵐玉若座】が御霊神社の祭礼などで歌舞伎を上演していたといわれる。
このように庶民の人気を集めたびたび興行されたようであるが、奢侈を禁じる幕府の度々の禁令により中止となっている。しかし、この程度では庶民は屈することなく、万歳狂言だとの口実で取締りを逃れている。

 藝題(外題)には、
・壽三番叟
・源平咲分牡丹の曲
・繪本太功記
・壺坂雲験記
・假名手本忠臣蔵
・加賀見山旧錦繪通
・一ノ谷嫩軍記
・義經千本櫻吉野山道行ノ場
・傾城阿波鳴門 どんどろ大師の場
・御所櫻堀川夜討 三段目弁慶上使の段

など、播州と共通する演目がある。
 また、丹後方面の舞鶴、宮津、加悦谷(かやだに)などからも依頼を受けて出向き山車の

□典拠
・播磨鑑
・京都府の地名 1981年(昭和56年)3月 兜ス凡社
・福知山市史 平成4年3月 福知山市役所
・御霊神社 ご鎮座三百年 新発見社宝図録 平成18年9月14日 御霊神社三百年祭奉祝事業委員会
・農村舞台と播州歌舞伎(昭和四十八年)
・芸能史研究

◆01439 御勝八幡宮の田楽
□社名 御勝八幡宮(みかつはちまんじんじゃ)
□所在地 京都府福知山市上野条
□祭神
□祭  
□山車
山車はない。
□汎論
 御勝八幡宮は、福知山市の北部にある御嶽山(現在は御岳、あるいは三岳と書かれる)の東麓にある神社。創祀は不詳である。御嶽は沖縄の御嶽(うたき)が北上したものと推定されるが確証はない。おそらく神南備山であり、かつては修験の山として知られ、三嶽神社祭礼が行われてきた。春と秋に各村落がそろって御嶽山に登山して神社に拝礼し藝能を奉納したと伝わる。古い繼軆の古代祭祀の姿を彷彿とさせるが、現在は登山と藝能は行われていない。御勝八幡宮は三嶽神社の里宮だったと推定されるが、これも現在に伝わる資料がない。
 25年に一度行われる御勝八幡神社の大祭には、上野条(かみのじょう)の紫宸殿田楽(ししんでんでんがく)。天座(あまざ)の田楽。下野条(しものじょう)の三嶽練込太鼓(みたけねりこみだいこ)が奉納される。これはもと、御嶽山の山頂にある三嶽神社に奉納されていたものである。
 上野条紫宸殿田楽は社伝の前に正装した楽人、十六名によって行われる。神社正面に向かって【びんささら】が左右に六名づつたてにならび、その間の前列に二名の締太鼓、後列に二名の笛二名がはいる。全体としては、各辺六名で構成される四角形に並ぶ。
 田楽の所作は楽にあわせて行われ、太鼓は左脇。びんささらは正面にささげるようにしてもたれる。
 所作は、足を曲げ腰を落とし、その姿勢で左右に移動する。
 天座の田楽は、裃姿の男子が、鳥とび、びんささら、猩々の三種目を奉納する。「烏とび」は、三名の踊手が日の丸の入った扇を目の前でかざしながら舞い、ときどき左右に飛ぶ
にとぶ。「びんささら」は、十二名が横二列任あって正面を向き、定位置で舞う。
「猩々舞」は、赤い髪、赤い羽織、赤い着物、赤い袴の赤尽くしの衣装で能楽でも知られる猩々を舞う。ときどき酩酊姿の所作が入る。二名が扇をもって行う相舞である。
 古式を伝える貴重な藝能として知られ、

●26202 舞鶴市
◆00840 舞鶴田邊城祭
□祭事 舞鶴田邊城祭
□所在地 
□祭神
□祭は五月下旬。  
□山車
山車(藝屋臺)を曳く。
・寺内町
山車の建造は不明。「石橋」の見送り幕を懸ける。江戸後期の作と伝わる。
・丹波町
山車の建造は不明。見送り幕は【朝鮮毛綴】の「樓閣風景圖」。朝鮮毛綴はきわめて貴重な織物で、朝鮮半島にはすでに存在しないと言われ、京都府では宮津市、亀岡市、京都祇園祭。滋賀県では水口町、日野町。岐阜県では飛騨高山の屋臺・石橋に立派な見送り幕があるが、現在は古い朝鮮毛綴葉保存され複製品が懸けられる。
明治四十一年に調製された替え見送りの「龍虎圖」があるという。
・竹屋町
山車の建造は寛保三年(一七四三)。見送り幕は「唐子遊戯圖」。
・舞引土町
山車の建造は不明。
「鳳凰と牡丹圖」の見送り幕が懸かる。明治三十九年の調製。
・堀上町
山車の建造は不明。
・本町
安政年間の裂くと伝わる「唐子遊戯圖」の見送り幕が懸かる。
・魚屋町
「韓信」の見送り幕を懸ける。
 韓信は、中国の秦代末期から前漢の武将で、漢の劉邦に重用された人物。張良・蕭何と共に劉邦の麾下の三傑といわれる。
 逸話に、韓信の若いころは、たいへん貧しく、諸家に居候する無頼の徒だったといい、どこに行っても嫌われ、馬鹿にされた。ある日、街中でひとりの少年に、「その腰に下げているのは何だ。刀か? それならそれで俺を切ってみな」とからかわれ、韓信が「できない」と答えると、少年は「それなら俺の股の下をくぐれ」といった。韓信は黙ってうなずき、少年の股の下をくぐったと言う。
・紺屋町
「三国志圖」の見送り幕が懸かる。
・新町
「波に日の出鶴圖」の見送り幕を懸ける。
・西町
「項羽と劉邦」の見送り幕が懸かる。
(順不同)
□汎論
 現在舞鶴市の代表的な祭となっている【舞鶴田邊城祭】は、特定の神社に属しない市民祭として行われるが、かつて、朝代神社の祭で曳かれた藝屋臺が曳かれる。朝代神社はJR西舞鶴駅の西方、朝代にある。
 舞鶴の田邊城は、「ぶかくじょうとも言い、天正六年(一五七八)に織田信長の命を受けこの地を攻めた細川藤孝(幽斎)が築城した。幽斎隠居後は、子の細川忠興が嗣いだ。キリシタンに帰依したガラシャ(グレース)夫人は名高い。

●26203 綾部市
◆2892 壱鞍神社祭
□社名 壱鞍神社
□所在地 京都府綾部市十倉志茂町
□祭神
□祭は十月上旬。  
□山車
・志茂町
・名畑町
・中町
(順不同)
□汎論
 壱鞍神社の創祀は、古くは上林川の河床にある磐座を、応永元年に社殿を建てて祭っ多野に始まると伝わるが詳細は不明。

◆18067 阿須々伎神社
□社名 阿須々伎神社
□所在地 京都府綾部市金河内町東谷
□旧国名 丹波國
□祭神
アメノミナカヌシノミコト 天御中主神
カミムスビノカミ 神皇産靈神
タカミムスビノカミ 高皇産靈神
ミチヌシムチノカミ 道主貴神
境内社
大川神社
金刀比羅宮
稲荷社
八幡宮、八坂神社、愛宕神社(同祠)
八幡宮
□汎論
阿須々伎神社は、延喜式神名帳丹波國何鹿郡(いかるがぐん)に記載される、丹波國七十一座のうちの一座。社名阿須々伎神社の【須】は、「さんずい偏に頁」とかかれるが、PCには文字がない。社地の西部、金河内と坊口の境にある【金ヶ峯】に祀られたと伝えられる。おそらく金ヶ峯は神南備山であり、現在の社殿はふもとに祀られた里宮と言うことになろう。
 物部氏の神幸が篤かったと考えられる。
 祭神のアメノミナカヌシノミコト(天御中主神)は、古代に日氏から海神族(綿津美氏)により祀られた神であり。宇宙を根源とする思想から生まれた神である、おなじように、セオリツヒメ(瀬織津媛)は太陽神として祀られた神である。後世他の神に置き換えられている例が多く見られる。当社にはセオリツヒメの祭祀はない。

◆18070 珂牟奈備神社
□社名 珂牟奈備神社(かんなびじんじゃ、かむなびじんじゃ)
□所在地 京都府綾部市十倉名畑町古気良
□旧国名 丹波國
□祭神
アメノシタハルノミコト 天下春命
□汎論
 珂牟奈備神社は、延喜式神名帳丹波國何鹿郡(いかるがぐん)に記載される、丹波國七十一座のうちの一座。創祀は社伝によると和銅年間とある。しかし社号の珂牟奈備(神南備)、まt神南備山のふもとに鎮座した当社の歴史ははるかに古いと考えあれる。祭神のアメノシタハルノミコト(天下春命)は、アメノヤゴコロオモイカネノミコト(天八意思兼命)の子で、兄のアメノウワハルノミコト(天表春命)は、信州(長野県)南部の阿智神社、また、北部の戸隠神社寶光社の祭神となっている。ニギハヤヒノミコト(饒速日命)とともに、大和(奈良県)に進み、大三輪山のふもとに一大王国を築いた。桜井市纏向(まきむく)はおそらくその古代王国の一部であろう。
 丹後半島の間人(たいざ)には、聖徳太子の伝承がある。また、当地が何鹿(いかるが)だったことは、大和の斑鳩(いかるが)後に建立された法隆寺と無関係ではないであろう。丹波國から山城國を経て大和國に至る道は、佛教伝来の道でもあっただろうと推定される。
多摩市の小野神社には祭神として、アメノシタハルノミコト(天下春命)とセオリツヒメ(瀬織津姫)が祀られる。長野県塩尻市(かつては辰野町との境界には小野神社があり、丹波ー信濃ー武蔵がおぼろげながら一本の線でつながる。

●26204 宇治市

●26205 宮津市

●26206 亀岡市
◆00071 亀岡祭
□社名
鍬山神社
八幡宮
□所在地 京都府亀岡市上矢田町
□祭礼は十月下旬
山車が出る・
□山車
 面降山の東麓に鎮座する鍬山神社の秋季大祭で、古くは旧暦九月一日から晦日までのヶ月間行われていた。鍬山神社より鍬山宮、八幡宮のそれぞれの御輿が御旅所に本祭まで鎮座される。鍬山神社の沿革を社伝にみると、和銅年(七九)に創祀されたといい、「延喜式」に記載されている古い神社である。祭神は大已貴命を鍬山大明神として祀り、永万元年には譽田神(応神天皇)を八幡宮として併祀している。
九月九日には、藝に優れた人によって猿楽が上演され奉納されたようである「看聞御記」によると、丹波猿楽の本座としても隆盛をきわめたようである。
天正四年六月、明智光秀が桑田郡に入り、亀山嬢を築いたが、このとき鍬山神社の祭礼はことごとく廃止された。また、祭礼の廃止にあわせて神樂、競馬(くらべうま)、相撲、猿楽などの祭に関わる娯楽も一切癈された。しかし、明智光秀はこの六年後の天正年月日、本能寺に織田信長を討ったが、つづく山崎の合戦では豊臣秀吉に破れたのはよく知られるところである。亀岡は秀吉の支配となり亀山城主には養子の羽柴秀勝(織田信長の四男)がはいった。その後歴代の城主は、神領を寄進するなど崇敬も厚かったが、岡部長盛が城主のとき、鍬山宮、八幡宮の社殿を造営し、慶長年()には猿楽が復興された。延宝九年(八)亀山郷、長杉原守親の記述である、「丹波の國桑田郡矢田郷矢田社之祭法」によると、二十四日のところに、舟造、御鉾飾とあり、同日は樫舟をつくり、鉾を飾ったことがうかがわれる。舟造りとは興味ある表現で、樫舟をさす
「樫舟」は、船中に南社前の榊(賢木)をたて、十人の楽人が大鼓、笛、鼓で楽を奏し今様を謡い、曳く方向を操舵する木挺は四人、曳子は名であったと記録されており、現在見られる舁山や山鉾よりも前に「樫船」とよぶ曵山があった。
杉原氏の写生図が、四季の祭と年中行事に転載されているが、その挿画には龍頭を掲げる船首、四輪の車輪を持つ、車輪は車軸を有するようで、船腹は幕によって覆われており、下部の幕は波幕いい、波模様が描かれている。その上を覆う幕には大きな鳥(鳳凰か?)が描かれ、唐破風の屋根を持つ御殿風の造りである。
 亀岡の山車の曳行記録である「引き山記」によると、鍬山神社の祭りは、表番と裏番があり、城主が在国の表番の年は、御輿や曵山を場内まで曳き入れて上覧に供し、城主が江戸詰めで裏番となる不在の年は、御輿のみ御旅所まで渡御され、曵山は出なかったとある。亀岡祭の山車は、舁山臺、曵山臺、飾山臺(もとは曵山)の臺がある。
江戸時代後期には各町内に鉾が造られ、巡行したようである。山鉾の曳き順は、京都の祇園祭と同じように籤引きによったといわれる。山車の囃子は祇園囃子で、口丹波の祇園祭として親しまれている。
 各組の山車記録をみると、稲荷山の御装束箱の箱書きに「寛延四年未年九月吉祥日」とあるのがもっとも古く、寛延年は(七)である。
高砂山の御人形箱ならびに道具入箱には「宝暦五乙亥歳九月」(七)
三輪山の御装束箱に「宝暦七年丑九月寄寄附」(七七)。
八幡山は建造記録があり、
「宝暦十三年癸未年九月、新たに山を造営して八幡山と号奉(なづけたてまつる)とあり、いずれも九月になっているのはその年の祭に、はじめて用いられたことを示しているといえよう。
・八幡山
「山ノ下幕、木綿地藍染め鳩模様」
「水引幕、蜀甲に額龍文金襴」
「見送り、金更紗綴織、牡丹鳳凰文様綴れ様絽刺」(現在は前懸に使用されている)。
この三点は、建造時の記録にあることから、当初の物が今も使用されていることが明らかである。
・稲荷山
・羽衣山
・浦島山
・翁山鉾
・鍬山
・高砂山
・三輪山鉾
・難波山鉾
・八幡山鉾
・蛭子山
・竹内山鉾
□山車文献資料
・丹波國桑田郡矢田社之祀記
・杉原家文書 樫舟の画が載る
・引山記
・旅籠町会議所所蔵文書
・祇園御霊会細記 全三冊、宝暦七年

●26207 城陽市

●26208 向日市

●26209 長岡京市

●26210 八幡市

●26211 京田辺市

●26303 大山崎町

●26322 久御山町

●26343 井手町

●26344 宇治田原町

●26361 山城町

●26362 木津町

●26363 加茂町

●26364 京都府相楽郡笠置町
◆03207 栗栖神社祭
□社名 栗栖神社 
□所在地 京都府笠置町笠置小字栗栖
□祭神
菅原道真
摂社
牧岡神社
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
久世神社
オオヤマツミノミコト 大山祇命
恵比須神社
コトシロヌシノミコト 事代主命
鹿島神社
タケミカヅチノミコト 武甕槌命
神明宮
オオヒルメムチノミコト 大日□貴命(□文字なし)
老松神社
オイマツドウジ 老松童子
合殿
白太夫神社
ワタライハルヒコ 度会春彦
筒井神社
ツツイゴンノカミ 筒井権之正
八幡宮
オウジンテンノウ 應神天皇
ジングウコウゴウ 神功皇后
若宮神社
菅公の一子
秋葉神社
ホムスビノカミ 火産霊命
多賀神社
イザナギノミコト 伊邪那岐命
祓戸神社
ハライドノカミ 祓戸神
□汎論
 栗栖神社は、笠置町の笠置駅のすぐ近くにある神社。整然と配置された末社にとりまかれ、静かな雰囲気をたたえて鎮座する。由緒を感じさせる神社である。
近くの山上に、昌泰年間に行幸のあった後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)址があり、菅原道真が従ったとある。
 幕末期には孝明天皇の行幸が決まり、十津川郷士、天誅組らとともに倒幕の旗挙げ地となるはずだったが、寸前で中止となり多くの犠牲者をだした。しかし、この動きは一気に勤皇の志士らを奮起させるところとなった。
 静かなこの地はその近世動乱の胎動の息吹をしずかにおりこんいる。
 社伝によると、菅原道真公がみずからを彫刻し、延喜二年に当地の筒井喜久治というものに贈られたと言い、ひととき塚を築き、仮殿を設けて尊崇したが、承平元年(九三一
)現在地に遷したとある。
 祭には蒲団太鼓が出る。

●26365 和束町

●26366 精華町

●26367 南山城村

●26381 京北町
◆00360 小塩の上げ松
□社名 
□所在地 
□祭神
□祭は八月下旬。  
□山車
山車(小塩の上げ松)が行われる。
□汎論
 京都市右京区(旧京北町)の周山街道はいわゆる国道一六二号線で、国道四七七号線が交差するところが周山であった。歴史の舞台にしばしば登城する。古い話になるが、この周山の近くの山道で捻挫して転倒し、あまりの痛さに動けなくなってしまったことがある。
 お若い方にはお笑い種かもしれないが、昔は捻挫、骨折と言えば下呂市の東北にある東上田、奥田又衛門家の下呂膏、これがないときは尾張一宮の浅井万金膏を貼れば、それがよく効いたものである。黒い膏薬は衣服が汚れる、かぶれて痒いなどと言われ和解方たちはすっかり敬遠してしまい、近頃は入手しづらい。
 同行の友人に買ってきてくれと頼んだら怪訝な顔をしていたが、ようやく納得し、探しに行ってくれたのだったが、しばらくしたらニコニコ顔をして戻ってきた。ちゃんとあったのである。
 これを焙って開き患部にはり、肩を借りたらなんとか麓まで下れたので、そこでしばらく鮎の友釣りをしている人たちを眺めていたら、効果覿面。痛みが引き歩行ができるようになったのだった。
 周山とはそんな古風な町であった。
 この周山で桂川に沿って東進すると、九重の桜で知られる常照皇寺があり、その前を過ぎてしばらく行くと小川にかかる橋を渡る。この川が小塩川で、川に沿って北に遡上したところに小塩がある。
 この小塩でも【上げ松】が行われる。

●26382 南丹市(旧美山町)
◆04989 菅原神社祭
□社名 菅原神社
□所在地 京都府南丹市(旧美山町)美山町静原宮本
□祭神
スガワラミチザネ 菅原道真
境内社
春日神社
 アメノコヤネノミコト 天児屋根命
金刀比羅神社
 オオモノヌシノミコト 大物主命
白髭神社
 サルタヒコノミコト 猿田彦命
□祭は十月上旬。 
□山車
しばらく休止していたが、近年(平成十五年)復興した。二十五年ぶりだという。
□汎論
 菅原道真は承和十二年(八四五)に生まれ、延喜三年(九〇三)に九州大宰府において死去したとされる。宇多天皇に重く用いられて昇格し、醍醐天皇朝には右大臣の位についたが、折から行われていた【延喜式・編纂事業】において左大臣の藤原時平と対立し、これに敗れて大宰府へ権帥として赴任することとなった。
 藤原氏のきびしい追捕をかわし、渡会春彦の三つ子の一人である【松王丸】をこの秀才の身代りにたて、捕手の難をのがれたことは【浄瑠璃 「菅原伝授手習鑑寺子屋の段」】で
よく知られる。
 南丹市(旧美山町)美山町静原の【静原菅原神社】は、菅原道真の一子である八歳の【菅秀才】を託された園部の武部源蔵治定が一時引き取ったが、さらに、叔父の慶能法師が引き取りともに住んだ旧地だと伝わる。
 この地を【野々村の庄】とよぶのは、菅原道真が許されたとき、慶能法師は還俗し野々村姓を名乗ったことによるという。
 主祭神に、スガワラミチザネ(菅原道真)を祀るのは当然として、境内に春日神社、祭神アメノコヤネノミコト(天児屋根命)、金刀比羅神社、祭神オオモノヌシノミコト(大物主命)、白髭神社、祭神サルタヒコノミコト(猿田彦命)が祀られているのは注目される。
 丹後地方に共通する祭神で、大物主命を祀る金刀比羅神社、三輪神社は峰山町、大江町ほかにもある。
 亀岡市では、鍬山神社の祭礼に山車【三輪山】が曳かれる。


◆00299 芦生の松上げ
□社名 
□所在地 
□祭神
□祭は八月中旬。  
□山車
山車(芦生の松上げ)が行われる。
□汎論
 八月のお盆からお盆過ぎにかけて、高い柱に、薄の穂、杉葉など燃えやすい物を入れた籠状のいれものを高い柱のうえに取り付け、夜になるとこれに割り木に火をつけて抛げあげて、点火する。この祭事を【松上げ】、あるいは【上げ松】とよび、京都、丹波、越前などで行われる。
 山車の起源となる【柱神事】は、日本各地に行われるが、南丹市(旧美山町)で行われる【芦生の松上げ】は、京都愛宕の燈籠に由来を持つと伝えられる。京都愛宕山は当地からほぼ南にあたる。
 美山町には、懐かしい萱葺き(かやぶき)の民家が地域ぐるみで保存され、きれいな水、美しい山と緑が渾然と一体になって誰の心にもある「故郷」への回帰心を満たしてくれる。

◆00747 川合の上げ松
□社名 
□所在地  南丹市(旧美山町)鶴ヶ岡川合
□祭神
□祭は八月中旬。  
□山車
山車(上げ松)が行われる。
□汎論
 越前小浜と京都市を結ぶ古街道は、小浜からは堀越峠を越え周山街道をさらに東には小野郷を越える長い峠道、さらに高尾を越えて、京都御室仁和寺の前に出た。現在は国道一六二号線となっているが、かつては狭隘で険阻な道であった。小浜からから朽木を経て花脊、大原から京都高野にいたる若狭街道とともに、もうひとつの若狭街道であった。南丹市(旧美山町)鶴ヶ岡は国道一六二号線沿いにある集落である。ここでも鶴ヶ岡殿とおなじように上げ松が行われる。
 京都北山の過ぎは著名であるが、京都鳴滝から周山街道、美山にいたる道筋には見事な杉が見られ、すぐ財を切り出した後に株たちする「台杉」は庭園用に愛好されるので、その古木も培養されているのが見られる。

◆02485 殿の上げ松
□社名 
□所在地  南丹市(旧美山町)鶴ヶ岡殿
□祭神
□祭は八月中旬。  
□山車
山車(上げ松)が行われる。
□汎論
 【上げ松】は、お盆すぎに【燈籠木(「とろぎ)】と呼ばれる高い柱を立て、夜になるとこれに【松明(あかし)】とよぶアカマツ(赤松、雌松)の根を割って作った割り木に火をつけて上部に作られた籠状の部分に競って投げ上げ燃え上がるのを競う民俗行事。丹後から、京都市北部、越前若狭にかけて行われる。
【燈籠木(「とろぎ)】は、お盆で還った精霊の送り火だともいう。

◆01015 盛郷の上げ松
□社名 
□所在地  南丹市(旧美山町)盛郷
□祭神
□祭は八月中旬。  
□山車
山車(上げ松)が行われる。
□汎論
 盛郷はおなじ南丹市(旧美山町)の北部にある。ここでも【盛郷の上げ松】が行われる。上げ松は宝永二年(一七〇五)に愛宕神社神明大祭として始まったと伝えられる。ちなみに、富士山の宝永大噴火が起きたのはこの二年後のことで、江戸お待ちにも灰が降った。富士山は歴史時代になってからは、平安時代の延暦の大噴火、貞観の大噴火があり、宝永の大噴火では東南斜面に宝永山ができ
富士山の形が少し変容した。京都界隈では「愛宕さんは先が読める」と話し合ったと言う。
 話は変わるが、明智光秀が亀山(亀岡市)を出て、南に下ったところに「明智の戻り岩」と言う場所があって、光秀はここで引き返し織田信長を討つため本能寺に向かったが、途中で愛宕神社に参詣し、ここで首尾を祈り、おみくじを引いたところ凶が出た。忌まわしいと思いながらもう一度引いたらまたしても凶であった。三度目に引いたら小吉だったので、やっと安堵して本能寺に向かった。と伝わり、愛宕神社の霊験あらたかなことを知らしめると同時に【御神籤は三度引くものではない】と言うことわざが生まれた。
 盛郷の上げ松は京都府無形民俗文化財に指定されている。

●26401 南丹市(旧園部町)

●26402 南丹市(旧八木町)

●26403 丹波町

●26404 南丹市(旧日吉町)
◆00133 牧山の松明行亊
□寺院名 普門院観音堂
□所在地 南丹市(旧日吉町)日吉町中世木西牧山
□祭神
□祭は八月下旬。  
□山車
山車(松明行亊)が行われる。
□汎論
 南丹市(旧日吉町)の普門院観音堂で行われる松明行亊で、盂蘭盆会と愛宕神社の火祭
が褶合したと考えれる神仏混淆の行事。
 行事の長である【株頭】が、松の割木の束に三本の棒に打ち込んで扇状にした大松明を普門院の鳥居前に立て、境内の川に沿って牧山の家数の小松明が並べられる。観音堂内では、観音経と法華経普門品の読経があり、午後八時の定刻になると観音堂仏前の燈明からそれぞれの松明に点火し、すべての松明に火が配られると、参詣者がお千度を踏む。

●26405 瑞穂町
◆00151 質美八幡宮祭
□社名 質美八幡宮(しつみはちまんぐう)
□所在地 京都府京丹波市(旧瑞穂町)質美庄和ノ上
□祭神
オウジンテンノウ 応神天皇
□祭は十月下旬。  
□山車
山車(山車、屋臺、剣鉾)四臺を曳く。
□汎論
 質美八幡宮の創祀は明らかではないが、閉山時代の鎮座と伝えられる。広い境内に巨杉が亭々と聳え、平坦で広く長い参道には参道には鳥居以外には瑞垣、燈籠、狛犬、石畳などの人工物が一切なく、整然と整備された森厳な雰囲気が漂う。一村の鎮守と言うには実に壮大な神社である。
 参道の突き当たりに二の鳥居があり、石段のある登りとなる。社殿は寛政八年(一七九六)の再建と伝わる。
 明治維新まで、天平十二年(七四〇)に像顕された薬師如来が祀られていたといい、境内には松尾神社、若宮神社、高良神社、武内宿禰社、荒神社、厄除神社などの境内社がある。
 松尾神社は、新羅系と考えられる秦氏ゆかりの神社で、京都市右京区に本社がある。若宮神社は不明であるが、八幡宮の若宮であろうか。高良大社は、福岡県の久留米市に祀られる大社で、祭神はコウラタマタレノミコト(高良玉垂命)、左殿には八幡大神、右殿には住吉大神が祀られる。
 しかし、祭神の高良玉垂命が不明とされ、朝鮮半島からの渡来神、また、武内宿禰のことではないかとの説もある。高良大社の創祀はおそらく海神族(綿津美氏)であり、旧祭神はタカギノカミ(高木神、高樹神)。タカギノカミ(高木神)とタカミムスビノカミ(高御産巣日神、高皇産霊神)は同一神とされている。高良大社には、一夜の宿を借りに来たコウラタマタレノミコト(高良玉垂命)を泊めたばかりに、タカギノカミ(高木神、高樹神)が追い出されたという説話が残されている。追い出されたタカギノカミは高良大社の麓にひっそりと祀られている。
 神功皇后はカモ氏(賀茂、加茂)の一族である息長帯氏(おきながたらしし)の娘で、仲哀天皇とともに九州の熊襲を討つために九州にくだったことになっている。この間に仲哀天皇は死去、身重の体で三韓にわたり、戦果を得て畿内に戻ったとされるが、その背後には高良神、宗像神の側面援助があったことはほぼ確実である。
 【應神天皇は、神功皇后と武内宿禰の間に生まれた子ではないか】と推測する説がある。
 質美八幡宮は、久留米の高良大社をそのまま再現した神社ではないだろうかと考えられる。

●26406 和知町

●26421 三和町
◆04991 大原神社祭
□社名 大原神社
□所在地 京都府福知山市(旧三和町)三和町大原
□祭神
□祭は五月上旬。  
□山車
山車(屋臺)二臺を曳いた記録があるが、現在は行われていない。
□汎論
 古代の丹波の地は羽州(山形県)、播州(兵庫県)、和泉(大阪府)、紀州(和歌山県)、大和(奈良県)に勢力を拡大した、出雲系氏族の大物氏(渡来系)の一大根拠地とした古代の覇権の痕跡が多く残る地である。福知山市になったが、旧三和町であり、【三輪の地】であったことを彷彿と推定せしめる。
 大原神社の創祀は仁寿二年(八五二)と伝え、延喜式神名帳が編まれる以前には存在したはずであるが記載がなく延喜式外社となっている。当地の安産祈願の名社で厚い信仰を集めている。綾部藩主九鬼氏の代々の信仰が篤く、社殿は寛政八年(一七九六)斐太の工の系譜を引く工匠により再建されたといわれる。拝殿唐破風にある【龍の丸彫等】の一連の彫刻は、一説では左甚五郎の作だと噂されている。
 かつては、祭礼には屋臺が出たと言われるが現在は行われていない。

●26422 夜久野町
◆02896 額田一宮神社祭
□社名 額田一宮神社
□所在地 福知山市(旧夜久野町)夜久野町額田
□祭神
□祭は  
□山車
山車(だんじり、太鼓屋臺)の三臺を曳く。
□汎論
 山車は素木造の二層式で上臺を【上ダシ】といい、この部分が回転する構造になっている。見送りが上ダシの後部桁に懸けられる。また氏子から寄進された【お花】を白紙に書いて山車の欄間に掲げる。山車の通り道に当たる家々は、戸を大きく開け放ち、山車に下った神が祓に訪問するのを歓迎する。
 祭礼には五地区が蔬菜をつかって腕を競う「つくりもん」、「御神木の御渡」が行われる。

●26441 大江町
◆02897 金刀比羅神社祭
□社名 金刀比羅神社
□所在地 福知山市(旧大江町)大江町河守
□祭神
□祭は  
□山車
山車(舟山車)が曳かれる。
・金刀比羅船
□汎論
 金刀比羅神社の祭は由良川の治水と水運の安全を祈願して始まったと言われる。近年道路の改修にともない遷座した。河守太鼓、踊が奉納される。
□問い合わせ
福知山観光協会大江支部
電話 0773-56-1102

●26461 加悦町
◆00193 加悦谷祭
□社名
□所在地 京都府与謝郡与謝野町(旧加悦町)
□祭は四月下旬
各地区で子供歌舞伎を行う藝山、太鼓臺を曳く。
□汎論
 加悦谷祭(かやだにまつり)は京都府与謝野町の旧加悦町と旧野田川町にかけておこなわれるおよそ三十社におよぶ祭の総称。丹後ちりめん産業の発展、豊作祈願として行われる。加悦は古代朝鮮半島から渡来した伽耶(かや)にちなむと推定される。山車は長浜の藝曳山の影響を受けている。
□問い合わせ
与謝野町商工観光課
電話0772-46-3269

◆04992 加悦天満宮祭
京都府加悦町 
 
◆04993 愛宕神社祭
□社名 愛宕神社
□所在地 京都府与謝野町(旧加悦町)後野
□祭神
ホムスビノミコト 火産霊命
境内社
建部神社
 オオナムチノミコト 大己貴命
稲荷神社
 ウカノミタマノミコト 宇賀御魂命
金刀比羅神社
 カナヤマヒコノミコト 金山彦命
八幡神社
 オウジンテンノウ 応神天皇
秋葉神社
 カグツチノミコト 迦具土命
□祭は四月下旬。
□山車
・傘鉾
黒い帽冠(もこう)の傘鉾で、縁取りは白抜きの波模様、上部には丸い飛沫が飛んでいる。
さらに上には榊が取り付けられる。神幸の先頭を正装の金棒引きがたち、そのすぐあとにつく。
・神楽 宮元町
曳山とほぼ同じ形態をもつが非常に小ぶりで高さも大人の背丈をわずかに超える程度である。
・愛宕山 宮元町
神社と同じ名称の山車で、全体の前部ほぼ四分の三が藝座、
屋根は唐破風。欄間には赤い水引幕がつき、白丸提灯が下がる下臺は紫色の波幕正面は愛宕山と白抜きされる。勾欄は柱の外の出造りの部分三面に取り付けられる。前部、左右部とも四分割され。藝座となっていて、山車囃子が演奏される。勾欄柱とも朱塗りである。藝座の 後方四分の一ほどが本座。長濱の【亭(ちん)】に相当する。屋根は神明造。山車の前後に対し横向きである。二層構造上下とも幕で覆われる。後部は見送りで、見送り桁には黒い縁取りに緋羅紗地に金文字で愛宕山と刺繍される。前面の柱は四角柱黒塗り、四面を面取りして金彩とする。
 藝座、本座は回転する構造になっていて、町内曳きのお花が上がると、その家のほうに直角に回転して、お囃子を演奏する。狭い路地を戻るときは、この上部のみを一八〇度回転させて曳く。
 ・三輪山 上ノ町、・蛭子山 上ノ町、・大黒山 中ノ町の三町とも基本構造はほぼ同じである。
・三輪山 上ノ町
・蛭子山 上ノ町
・大黒山 中ノ町
・建部山 大下町
 建部山は、後部の亭の部分がなく、四面を吹き通しにし、藝座の中央に大太鼓を立てて若衆二名が対面で同じ面を打つ【太鼓臺】である。
(順不同)
□汎論
 秋葉神社の創祀は不詳。古くから宝生寺の裏山にあり、【愛宕地蔵大権現】と称ばれてきたが、元禄三年(一六九〇)に、西光寺七世の快辨が【将軍地蔵菩薩】を奉祀し、以後西光寺が別当職として奉齋してきた。延宝八年(一六八〇)に現地に遷座。本殿が再建された。明治二年の神社分離令により「権現」は廃され、山城國(京都府)葛野郡の愛宕神社よりあらためて「火産霊命」の分祀を受けて愛宕神社と称するようになった。本殿は切妻造りで、明治二十九年に日露戦争戦捷を記念して建てかえられ。拝殿の青海波の透かし彫刻の上にある蛙股のうちには「平四ツ目結」の紋所がつく。これは江戸時代初期の宮津藩主だった京極家の紋所で、旧宮津城本丸御殿の玄関を移築したと言われる。
 
◆04994 国守、長宮神社祭
京都府加悦町 
 
◆04995 畠中神社祭
京都府加悦町 
 
◆05231 厳島・鎌倉神社祭
京都府加悦町 
 
◆05232 下宮神社祭
京都府加悦町 
 
◆05233 須代神社祭
□所在地 京都府与謝野町(旧加悦町)明石
□旧国名 丹後國
□現社名 須代神社
□旧社名 
□祭神
スセリヒメノミコト 須勢理姫命
アメノアカルタマノミコト 天明玉命
アメノフトダマノミコト 天太玉命
ウカノミタマノミコト 倉稻魂命
末社
若宮神社
 祭神不明
□祭は四月下旬。
山車(屋臺・太鼓臺)を曳く。
・庄ヶ崎
・棒賀
(順不同)
□汎論
 須代神社は、延喜式神名帳丹後國与謝郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。
祭神のスセリヒメノミコト(須勢理姫命)はオオナムチノミコト(大己貴)の妃。アメノアカルタマノミコト(天明玉命)は、イザナギノミコト(伊弉諾命)の子で、玉作部の祖先神とされる。出雲國、島根県松江市玉湯町の玉造玉造温泉には玉作湯神社があり、クシアカルタマノカミ(櫛明玉神)が祀られている。
 アメノフトダマノミコト(天太玉命)は、日氏の祖神とされ、おなじ日氏の氏族である忌部氏の裔である、古代の日置氏の集落地と考えられる日置が宮津市の北部にある。
 日吉神社との合同祭として行われる。
 
◆05234 二宮、七谷、一宮神社祭
京都府加悦町

●26462 岩滝町
◆01351 岩滝木積神社祭
□社名 木積神社(こづみじんじゃ)
□所在地 京都府与謝郡岩滝町岩滝町弓ノ木
□祭神
イタケルノミコト 五十猛命
配祀
オオモノヌシノミコト 大物主命
□祭は四月下旬−五月上旬。
山車(太鼓臺)を曳く。
□汎論
 木積神社は延喜式神名帳に記載される古社。おなじ丹後の大宮町久住にも延喜式神名帳に記載される木積神社(きづみじんじゃ)があるが、こちらの祭神はオケノオオキミ(億計王・仁賢天皇)とオケノオオキミ(弘計王・顕宗天皇)、オオヤマツミノカミ(大山祇神)になっている。漢字表記は異なるが訓(よみ)はおなじとなっている。
 億計王・仁賢天皇)と(弘計王・顕宗天皇)は大嘗祭をはじめて執行した天皇とされ、尾張一宮(愛知県一宮市)にある、真清田神社(ますみだじんじゃ)と所縁が深い。
 丹波の亀岡市には亀岡祭に三輪山とよぶ山車が曳かれる。丹後には木積神社の祭神は大和三輪大社の祭神である大物主命が祀られる。一般的に考えれば大己貴命とあるべきように考えるのだが、大物主と大己貴はおなじ神とする説から見れば問題ないかもしれないが、筆者は別神と考えているので奇異に感じるのかもしれない。古社であることを勘案すると無碍に無視はできないと考える。丹波、丹後、大物主命には関連づける謎が秘められているように思う。
 山車(太鼓臺)の屋根は、入母屋造となっているのが珍しい。このような形式の山車は福島県の山都町の宗像神社の祭にも曳かれている。


●26463 伊根町
◆00354 伊根八坂神社祭礼
京都府伊根町

◆01349 亀島
京都府伊根町
 
◆05235 八坂神社祭
京都府伊根町

●26464 野田川町
◆00487 野田川
京都府野田川町
 
◆05236 倭文神社祭
京都府野田川町
 
◆05237 石部神社祭
京都府野田川町
 
◆05238 深田神社祭
京都府野田川町
 
◆05239 八幡神社祭
京都府野田川町
 
◆05240 苦無神社祭
京都府野田川町
 
◆05241 弥刀神社祭
□所在地 京都府与謝野町(旧野田川町)
□旧国名 丹後國
□現社名 弥刀神社
□旧社名 彌刀神社
□祭神 
ハヤアキツヒコノミコト(速秋津彦命、一名、水戸明神)
□祭は四月下旬。
□山車
山車(太鼓屋臺)一臺を曳く。
□汎論
 弥刀神社は延喜式神名帳丹後國与謝郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神のハヤアキツヒコノミコト(速秋津彦命)は、水戸明神の別名もあるようにアキツヒメノミコト(速秋津媛命)とともに【水神】として水口に祀られる例がしばしば見られる。紀州名草郡(和歌山県)の【鳴神社】は忌部郷で、祭神として忌部氏の祖神であるアメノフトダマノミコト(天太玉命) ハヤアキツヒコノミコト(速秋津彦命)、ハヤアキツヒメノミコト( 速秋津姫命)が祀られ、和歌山市の宮地区にある日前國懸神宮からは程近く、古代の日氏の痕跡がうかがえる。
 常陸國那珂郡(茨城県)、水戸市には常陸国三宮の吉田神社があり、水戸黄門祭が行われるが、境内社の水戸神社(みと じんじゃ)は、水戸市笠原町にある神社から分祀を受けたハヤアキツヒコノミコト(速秋津彦命)を祀る。常陸は日立で、日氏の伝承が秘められている。
 出雲國(島根県)の日御碕神社(ひのみさき)は、日本海に突き出した岬にある神社で、ここには境内に珍しいテツホシダが普通に見られる。夕日の沈むのが望める地で、祭神に
カムスサノオノミコト(神素戔嗚尊・神の宮)、アマテラスオオミカミ(天照大御神・日沈宮)を祀る。元は【日神】を祀る神社だったはずである。
 
◆05242 明鏡神社祭
京都府野田川町
 
◆05243 大宮神社祭
京都府野田川町
 
◆05244 物部神社祭
□所在地 京都府与謝野町(旧野田川町)石川
□旧国名 丹後國
□現社名 物部神社(もののべのかみのやしろ)
□旧社名 
□祭神
ウマシマジノミコト 宇麻志麻治命、宇摩志麻治命、味間見命、可美眞手命
□祭は4月下旬。
□山車
山車(屋臺)1対を曳く。
□汎論
 物部神社は延喜式神名帳丹後國与謝郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神のウマシマジノミコト(宇摩志麻治命)は、物部の遠祖。
 
◆05245 多田神社祭
□所在地 京都府与謝野町(旧野田川町)石川
□旧国名 丹後國
□現社名 
□旧社名 
□祭神
スサノオノミコト 素盞鳴命
稲荷神社
 ウケモチノカミ 宇気毛智神
境内社
 サルタヒコノカミ 猿田毘古神
□祭は四月下旬。
□山車
山車(屋臺)一臺を曳く。
□汎論
 多田神社は、延喜式神名帳丹後國与謝郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。当社は多由山に鎮座し、神杜の幕には多由と書かれ、祭の楽屋臺の提燈にも多由とあり、もとは多由神社だったものがいつのころからか、表記の誤りが生じたと考えられている。
 
●26481 峰山町
◆00232 五幸神社祭
□社名 五幸神社
□所在地 京丹後市峰山町富貴屋
□祭神
ウケモチノミコト 保食命
配祀
コトシロヌシノミコト 事代主命
末社
粟島神社
 スクナヒコナノミコト 少名彦命
□祭は十月上旬。  
□山車
山車(太鼓屋臺)一臺を曳く。
□汎論
 
◆05246 須賀神社祭
京都府峰山町
 
◆05247 愛宕神社祭
京都府峰山町
 
◆05248 八幡神社祭
京都府峰山町
 
◆05249 高畠稲荷神社祭
京都府峰山町
 
◆05250 波弥神社祭
京都府峰山町
 
◆05251 名木神社祭
京都府峰山町
 
◆05252 多久神社祭
□所在地 京都府京丹後市峰山町丹波涌田山
□旧国名 丹後國
□現社名 多久神社
□旧社名 
□祭神
トヨウケカノメノミコト 豊受賀能当ス(天酒大明神) 
タクツタマノミコト 多久津玉命
□祭は十月上旬。
□山車
山車(楽臺)一臺を曳く。
□汎論
 多久神社は、延喜式神名帳丹後國丹波郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神のトヨウケカノメノミコト(豊受賀能当ス・天酒大明神)は、羽衣天女のことだとの言い伝えがあり、
『丹後国風土記・逸文』にある【比治山の天女】で名高い、また豊受大神と同一神としている。丹波、矢田、荒山、内記地区の総社である。本殿は覆屋内に納まるが、工匠は旧小原村(現弥栄町)の吉岡嘉平と丹波村の清八により文化十一年に再建されたという。重厚で荘重な趣は室町建築を思わせる。雪害、丹後地震の被害を受けたが修理を経て現存する。
【比治山】は、おそらく神南備山で、【日氏】が連想される。広島県には同じ名称の山がある。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。

◆05253 発枳神社祭
□所在地 京都府京丹後市峰山町橋木
□旧国名 丹後國
□現社名 発枳神社(からたちじんじゃ)
□旧社名 發枳神社
□祭神
トヨハヤヒノミコト 樋速日命
境内社
稲荷神社
 ウケモチノオオカミ 保食大神
愛宕祗社
 カグツチノミコト 軻遇突智命
□祭は10月上旬。
□山車
山車(太鼓神輿)一臺を曳く。
□汎論
 発枳神社は、延喜式神名帳丹後國竹野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。発枳は【枳殻、また枸橘】とも書かれる「からたち」のことで、中国、秦の始皇帝が当方に求めた不老長寿の仙果【ときじくのかぐのこのみ】とは、この枳殻(からたち)のことだったとの説がある。発枳神社の社名にもなっている発枳は正字では【發枳】と書かれ、やはり「からたち」のことである。兵庫県出石町の出石神社に祀られる、アメノヒボコ(天日矛)が朝鮮半島から当地にもたらしたという伝承がある。「からたち」は日本には自生がなく各地に植栽されるものは、中国からの伝来で、原産地は揚子江の上流域といわれる。
 
◆05254 藤社神社祭
□社名 藤社神社(ふじこそじんじゃ)
□所在地 京都府峰山町五箇鱒留
□祭神
ウケモチノカミ 保食之神
末社
大山祗社 大山祗神
武大神社 素佐之男命
天目一社 天目一箇命
天満宮社 菅原道真
弁財天社 市杵島姫神
和奈佐夫婦祠 和奈佐夫婦神(わなさふうふ)
□祭は十月上旬  
□山車
山車(太鼓屋臺)一臺を引く。
□汎論
 藤社神社の社号の「藤」は、「泥(ひじ)」がなまったと考えられている。神社の後ろにある比治山(ひじやま)にちなむ神南備山と推定される。泥山は、ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)が連想されるが、この神社の祭神には見当たらない。おなじ
峰山町の矢田谷山、矢田神社には、ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)が祀られる。

◆05255 比沼麻奈為神社祭
□所在地 京都府京丹後市(旧峰山町)峰山町久次宮谷
□旧国名 丹後國
□現社名 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)
□旧社名 比沼麻奈為神社(ひちのまなゐじんじゃ)
□祭神
トヨウケオオカミ 豊受大神
ニニギノミコト 瓊瓊杵尊
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
アメノフトダマノミコト 天太玉命
□祭は十月上旬
□山車
山車(太鼓屋臺)一臺を引く。
□汎論
 比沼麻奈為神社は、延喜式神名帳丹後國丹波郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。三重県の伊勢神宮に鎮座する外宮の祭神であるトヨウケオオカミ(豊受大神)は、当社から分祀去れR他との伝承があり由緒ある釈迦句の神社で、【元伊勢】の名がある。
アメノフトダマノミコト(天太玉命)は、日氏の一族である、日置氏の祖神である。
 
●26482 京丹後市(旧大宮町)
◆00155 大宮住吉神社祭
◆00155 大宮住吉神社祭
□社名 住吉神社
□所在地 京都府京丹後市(旧大宮町)善王寺
□祭神
ソコツツオノミコト 底筒男命
ナカツツオノミコト 中筒男命
ウワツツオノミコト 上筒男命
オキナガタラシヒメノミコト 息長帯比賣命(神功皇后)
境内末社
秋葉神社
 ホムスビノミコト 火産霊命
□祭は十月上旬。  
□山車
資料(楽臺)を曳く。
□汎論
 大宮住吉神社の創祀は不詳。
 勅命により、渡辺綱を筆頭とする四天王、源頼光、坂田金時、藤原保昌、碓井貞光、卜部季武らが丹後国大江山の酒天童子や鬼退治に向かったが、首尾よく役目をはたし、見事に酒天童子や鬼を討ち果たした話はよく知られる。
 酒天童子の首は都に運ばれたが、亀岡と京都の境にある老ノ坂でまったく動かなくなったのでそこで埋葬したと伝わる。
 一説では大江山にもちかえって埋めたとも言われ、鬼岳稲荷山神社はその旧地だとも言われる。この功績で藤原保昌は、丹後守に任ぜられたのだった。保昌は摂津国多田庄平井の里(現在の兵庫県川西市多田)の出身で平井保昌の名で知られる。大宮住吉神社はその平井保昌の創祀にかかると伝えられる。
酒天童子は、酒呑童子、酒顛童子、朱点童子などとも書かれ、越後國(新潟県)、大和國(奈良県)、山城國大枝町(京都市西京区大枝)から丹波國篠(亀岡市)、近江國伊吹(滋賀県)などにも伝説が伝わる。
 和泉式部は『和泉式部日記』でも知られるが、王朝時代切手の才媛として知られるが、峰山の桜ヶ丘に居住し、しばしば当社に参詣したと伝わる。
 京都祇園祭の【保昌山】は、平井保昌が、和泉式部のために仙洞御所に花を盗みに忍び込んだといわれる故事にちなんだ、通称【花盗ッ人山】の名がある。
 和泉式部の旧地は広く各地に存在し、和泉式部墓と伝えられるものは瑞穂町をはじめ多くある。

◆05256 大野神社祭
◆05256 大野神社祭
□所在地 京都府京丹後市大宮町口大野
□旧国名 丹後國
□現社名 大野神社
□旧社名 
□祭神
ウケモチノカミ 宇気持神(保食神)
□祭は十月上旬。
□山車
山車(藝屋臺、楽臺)が曳かれる。
□汎論
 大野神社は、延喜式神名帳丹後國竹野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座であるが、
京丹後市丹後町中浜にももう一社大野神社があり、いずれも論社となっている。
 
◆05257 若宮神社祭
◆05257 若宮神社祭
□社名 若宮神社
□所在地 京丹後市(旧大宮町)
□祭神
ウカノメノミコト 宇賀能売命
境内末社
稲荷神社
 ウカノミタマノミコト 倉稲魂命
□祭は十月上旬。  
□山車
山車(楽臺)を曳く。  
□汎論

●26501 網野町
◆02898 網野神社祭
京都府網野町
 
◆05258 加茂神社祭
京都府網野町
 
◆05259 春日神社祭
京都府網野町

●26502 丹後町
◆02899 三柱神社祭
□社名 三柱神社
□所在地 京都府京丹後市(旧丹後町)
□祭神 
ホムスビノミコト 火産霊命
配祀
 オキツヒコノミコト 興津彦命
 オキツヒメノミコト 興津媛命
□祭は四月中旬
□汎論
三柱神社は、三宝荒神社、荒神社ともいい新井地区の元宮だという。詳細不明だが、愛宕神社の分祀を受けたものだろうか。
□問い合わせ
京丹後市観光協会 丹後町支部
電話 0772-75-0437

◆05260 水天宮祭
京都府丹後町
 
◆05261 愛宕神社祭
京都府丹後町
 
◆05262 秋葉神社祭
京都府丹後町
 
◆05263 早尾神社祭
京都府丹後町
 
◆05264 稲荷神社祭
京都府丹後町

●26503 弥栄町
◆00261 氏神例祭
京都府弥栄町
 
◆00845 早尾神社祭
京都府弥栄町

◆01438 野間大宮神社の田楽
京都府弥栄町野間
 
●26521 久美浜町
◆05281 熊野神社
□所在地 京丹後市(旧久美浜町)久美浜町兜山
□旧国名 丹後國
□現社名 熊野神社
□旧社名 
□祭神
イザナミノミコト 伊邪那美命
□汎論
 熊野神社は、延喜式神名帳丹後國熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神にはイザナミノミコト(伊邪那美命)のみが兜山(かぶとやま)の山頂に祀られる。兜山は秀麗な山で、おそらく神南備山であろう。おなじ久美浜町内にある雲晴神社(くもばるじんじゃ)の境外摂社になっていて雲晴神社には、熊野神社を望む地に鳥居が立てられている。
 久美浜町には当社のほかに、河梨の熊野新宮神社、品田の熊野若宮神社があり、三社神社とよんでいて、それぞれが延喜式神名帳記載の式内社、熊野神社の論社となっている。
 久美浜の熊野神社の創祀はおそらく海神族(綿津美氏)から、出雲氏にいたる過程で祀られた神社で紀州(和歌山県)の熊野各神宮より創祀が古いと推定される。

◆05300 熊野若宮三社祭
□所在地 京丹後市(旧久美浜町)久美浜町品田
□旧国名 丹後國
□現社名 熊野若宮三社
□旧社名 
□祭神
アメノクマヒト 天熊人
□祭は四月中旬。
□山車
山車(だんじり)一対を曳く。
□汎論
 熊野若宮三社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座であるが、論社である。祭神のアメノクマヒト(天熊人)は神話で、アマテラスオオミカミ(天照大神)の使者として月夜見尊が切ったウケモチノカミ(保食神)を訪ねる話が『日本書紀』に記述される。『古事記』では月夜見尊がウケモチノカミ(保食神)を切る、同じ話がスサノオノミコト(素盞嗚命)とオオゲツヒメ(大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神)の話となっている。
 このことから、ウケモチノカミ(保食神)と、オオゲツヒメ(大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神)は同一神としてあつかわれることがある。
 熊野神社の祭神に、アメノクマヒト(天熊人)が挙げられているのは注目される。

◆16463 意布伎神社(いぶきじんじゃ)
□所在地 京丹後市(旧久美浜町)久美浜町三分小字上地
□旧国名 丹後國
□現社名 意布伎神社
□旧社名 
□祭神
イブキドヌシノカミ 気吹戸主神
□山車
山車はない。
□汎論
 意布伎神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。
祭神のイブキドヌシノカミ(気吹戸主神)は、セオリツヒメ(瀬織津姫)、ハヤアキツヒメ(速秋津姫)、ハヤサスラヒメ(速佐須良姫)の三柱の神とともに【祓戸四神】といわれる古い神である。

◆16466 伊豆志彌神社
□社名 伊豆志彌神社(いずしみじんじゃ)
□所在地  京丹後市久美浜町出角小字宮ノ谷
□旧国名 丹後國
□祭神
イヅシゴコロオオミノミコト 出石心大臣命
□汎論
 伊豆志彌神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。祭神のイヅシゴコロオオミノミコト(出石心大臣命)はニギハヤヒノミコト(饒速日命)の六世に当たる。丹後地方に見られる物部氏は、概ねこのイヅシゴコロオオミノミコトを祖神とした一族と考えられる。近江(滋賀県)水口町にはこのイヅシゴコロオオミノミコトの子である、オオミナクチスクネノミコト(大水口宿禰命)を祭神として祀る。

◆16467 矢田神社
□社名 矢田神社
□所在地 京丹後市久美浜町海士
□旧国名 丹後國
□祭神
タケダセノミコト 建田背命
タケモロズミノミコト 武諸隅命
ワダツミノミコト 和田津見命
□汎論
 矢田神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。
 祭神タケダセノミコト(建田背命)、タケモロズミノミコト(武諸隅命)がいずれも物部氏の祖神。
 【海部氏】と【尾張氏】は祖神をアメノホカアカリノミコト(天火明命)、その子アメノカゴヤマノミコト(天香語山命)、孫のアメノムラクモノミコト(天村雲命)と共通していることから同一氏族とみなされる。海部氏は吸収の海神族(綿津美氏)の系譜を引く氏であり、出自は、おそらく古丹波(丹後國)であろうと推定する。

◆16468 賣布神社
□社名 賣布神社(めふじんじゃ)
□所在地 京都府京丹後市(旧久美浜町)久美浜町女布
□旧国名 丹後國
□祭神
トヨウケヒメノミコト 豊受姫命
オオヤヒメノミコト 大屋媛命
ツマツヒメノミコト 抓津媛命
□汎論
 賣布神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。
祭神の、トヨウケヒメノミコト(豊受姫命)は、伊勢神宮の外宮にも祀られる祭神であるが、当地から分祀されたと伝わる。古丹波(丹後國)では、【羽衣天女】をトヨウケヒメノミコト(豊受姫命)の前身として祀る例がしばしば見られる。また伊勢神宮は、【神明造】の神殿とともに丹後國の建築を手本にしている。ただし、丹後國の神明造には、社殿の外部、地上から棟の頂部までを支える【棟持柱】がない建築例が見られる。この建築様式は、九州各地、出雲各地には古建築が見られず、朝鮮半島から直接渡来したと考えられる。
 オオヤツヒメノミコト(大屋津媛命、大屋都媛命)と、ツマツヒメノミコト(抓津媛命)は、スサノオノミコト(スサノオノミコト)の子で姉妹神である。兄イソタケルノミコト、イタケルノミコト(五十猛命)があり、三兄妹である。

◆16469 衆良神社
□社名 衆良神社(もろよしじんじゃ)
□所在地 京丹後市久美浜町須田小字天王谷
□旧国名 丹後國
□祭神
カワカミマスラ 河上摩須良
□汎論
衆良神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。創祀は不明。祭神のカワカミマスラ(河上摩須良)は、諸説があり特定困難であるが、『古事記』には、カワカミマスラ(河上麻須良)は、ミチノウシノオオキミ(美知能宇志王)と、丹波之河上、麻須良女が結ばれ、生まれた子がヒバスヒメ(比婆須比賣命、日葉酢媛命)だとしている。皇紀では垂仁天皇の皇后としている。
 衆良神社は「もろよしじんじゃ」と称んでいるが、「すらじんじゃ」の名称がある。カワカミマスラ(河上摩須良)の【すら】とはおなじ訓である。

◆16470 三嶋田神社
□社名 三嶋田神社
□所在地 京都府京丹後市久美浜町金谷
□旧国名 丹後國
□祭神
オオヤマツミノミコト 大山祗命
□汎論
 延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。創祀は不明。
 【古丹波國】は筆者が便宜上表記している。古丹波國とは、紀元前んの日氏ー海神族(綿津美氏)…出雲系氏族にいたる古代の一大王国で、外に向かって開かれた謂わば、国際都市であったと考えられる。このことは、神社に祀られている神々、神社の成立の歴史を紐とけば、一目でそれと知られるところである。
 沖縄をはじめとする、中國、臺湾、ベトナム、タイ、カンボジア、インドネシア、インド、さらにオリエント(中近東)などの西方、南方の諸国、朝鮮半島からの多くの渡来人、このなかには、伽耶、伽羅、新羅系の渡来人が多く、当地の著名な産品である錦ー丹後縮緬(たんごちりめん)の製法も渡来人によって伝わり、これらが交易されていたことをうかがわせる。
【平安京(京都)】が近いこともあって、織物産業は大いに栄えた。綾部は【漢部(あやべ)】であり、大阪府池田市の【呉服】はさらに南の大阪市平野区に【呉服】があり、富山県には【呉羽山】がある。
 これら繊維製品を扱う関係者らが感謝をささげて祀った【倭文神社】も広い範囲に分布する。
 北方の【渤海】をはじめ、遠く北欧からの来訪者が会ったことも、丹後、能登半島に痕跡が残る。
 【古丹波國】はもともとの【丹波國】であり、大和朝廷の国名ではない。
 大和朝廷の支配になってから、丹波の國は、前と後ろに分割され、いうなれば、【丹前國】であるべき旧地が【丹後國】となったことは反発を招き、いまも【丹前國】は存在しない。
 現在の、兵庫県豊岡市から出石町(現豊岡市)も【古丹波國】に属し、豊岡市から城崎にかけて、日氏にちなむと考えられる旧蹟、神社が存在する。北部は宮津市、舞鶴市に至り、南部は京都府亀岡市、兵庫県篠山市も丹波を標榜している。
 【古丹波國】すなわち、【丹波國】は現在の県域を超えた大きな國であった。
 少し横にそれたが、オオヤマツミノミコト(大山祗命)を祀る神社は、四国、愛媛県今治市大三島町宮浦に【大山祇神神社】、静岡県三島市大宮町には【三嶋大社】がある。
 オオヤマツミノミコト(大山祗命)を祀る旧地は【三島】であることを留意しておくべきであろう。
 京都府右京区のたびたび氾濫する桂川に大堰を築き、松尾に一大勢力を持った【秦氏】についても諸説があるが、朝鮮半島南部にあった【前・新羅系氏族】は、紀元前にはすでに【宗像】と、【国東・宇佐】にはいり、【豐・とよ】の國を形成し、支配権を握るに至っているが、その中枢にあったのが【秦氏】と考えられる。秦氏はさらに出雲氏とともに東・北進し、丹後半島を経て京都に定住するようになったと考えられる。
 わが国に社殿を建てすでに日本にあった【神杜】を【神を祀】る神社祭祀形態と褶合させたのもおそらくこの【秦氏】であり、二世紀から四世紀ころと推察するが固より、断言しうるものではない。

◆16471 神谷神社
□社名 神谷神社
□所在地 京都府京丹後市久美浜町新町
□旧国名 丹後國
□祭神
タンバノミチノウシノミコト 丹波道主命
ヤチホコノカミ 八千矛神
アマノカムタマノミコト 天神玉命
アメノタネコノミコト 天種子命
□汎論
 神谷神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。祭神には幾柱かの古い神々が祀られる。タンバミチヌシノミコト(丹波道主命)は、『日本書紀』では、丹波道主王、丹波道主命と書かれ、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王となっていて、皇紀では四道将軍の職にあったとされ、景行天皇の外祖父だという。
 おなじ久美浜の衆良神社(もろよしじんじゃ)の祭神として祀られる、タンバノカワカミノマスラ(丹波之河上之摩須良)、タンバノカワカミノイラツメ(丹波之河上之摩須郎女)の夫であり、ヒバスヒメノミコト(日葉酢媛命)、ヌハタニイリヒメ(渟葉田瓊入媛)、マドノヒメ(真砥野媛)、薊瓊入媛)、タケノヒメ(竹野媛)らはその間の子で、垂仁天皇の皇后また妃だとされる。
 ヤチホコノカミ(八千矛神)とはオオクニヌシノミコト(大國主命、大己貴命)のことである。
 アマノカムタマノミコト(天神玉命)は、カグツミの第三子で、オオヤマツミノカミ(大山祗神)を祀る、『旧事本紀』では、三島氏の先祖とする説がある。香川県善通寺市大麻町上ノ村山に、大麻神社(おおさじんじゃ)がある。
 アメノタネコノミコト(天種子命)は、アメノオシクモノミコト(天押雲、天忍雲根命、鹿島押雲)の一子である。

◆16472 村岳神社
□社名 村岳神社(むらおかじんじゃ)
□所在地 京丹後市久美浜町奥馬地
□旧国名 丹後國
□祭神
オモイカネノカミ 思兼神
□汎論
 村岳神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。
祭神のオモイカネノカミ(思兼神)は、思想・思考・知恵をつかさどる神で、思金神、常世思金神、思兼神、思金神、常世思金神、八意思兼神、八意思金神などと表記される。信濃国(長野県)の南部に降ったと伝え、シンノアチハフリ(信之阿智祝)の祖とされ、長野県下伊那郡阿智村)阿智神社、おなじ下伊那郡阿智村に安布知神社、埼玉県の秩父市には秩父夜祭で名高い秩父神社に祀られる。

◆16473 聞部神社
□社名 聞部神社(ききべじんじゃ)
□旧社名 聴部神社
□所在地 京丹後市久美浜町友重
□旧国名 丹後市國
□祭神
キクリヒメノミコト 菊理媛命、白山比当ス
□汎論
 聞部神社は、延喜式神名帳丹後熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座である。
キクリヒメノミコト(菊理媛命、白山比当ス)全国的に多く祀られる女神であるが、加賀(石川県)加賀白山はこのキクリヒメノミコト(菊理媛命、白山比当ス)を主峰に祀り、次峰大汝にオオナムチノミコト(大己貴命)が祀られる。通説にキクリヒメノミコトとオナムチノミコトは夫婦とする説があるが、加賀ではオオナムチノミコトを祀る例は諏訪神社とともに、オオナムチノミコトともにはなはだ少ない。このことはキクリヒメノミコトとオナムチノミコトの間に不和が生じたのではないかと考えられる。
 加賀白山の登山は古くは、加賀番場(石川県)、越前番場(福井県)、美濃番場(岐阜県)の三つがあり、美濃番場は長滝にあった。しかしそれより長良川の下流の公庄には洲原神社があり
尾張、三河方面からここまで参詣に訪れ、また白山本宮を遥拝したものであった。


行政コード番号は従前のままです。 
20130106 更新 


 

 ◆日本山車論
目次
 ◆左甚五郎傳
左甚五郎傳
 ◆斐太ノ工
斐太ノ工
 ◆谷口與鹿
谷口與鹿
 ◆論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆阿波國
◆安房國
◆安藝國
◆伊賀國
◆隠岐國
◆越後國
 ◆古代祭祀と神南備山
古代祭祀と神南備山
 ◆玉依姫  様