◆秩父神社の左甚五郎 埼玉県秩父市にある秩父神社には左甚五郎の「子育ての虎」、「つなぎの龍」が彫られている。
◆日光東照宮の眠り猫 東照宮眠り猫 日光東照宮の本殿から坂下門へ通じる回廊入口の長押の上、牡丹の花の下に猫が彫られている世に名高い「眠り猫」で、左甚五郎の作と言われる。
◆大津市三井寺閼伽井屋の龍 江州八景・三井寺の鐘で有名な三井寺。この三井寺に湧く霊泉は、天智、天武、持統の三天皇が産湯を使われたといい、三井寺の名称の由来となった泉だというが、その建屋の正面に左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻がある。 ◆左甚五郎のねずみ 甚五郎が奥州への旅の途中に立ち寄った仙台でのこと。 そのころ仙台には、虎屋という大きな旅籠があったが、ちょうどその向かいには鼠屋という小さな宿屋があった 鼠屋の主人は、もと虎屋の主人だったのだが、体が不自由になり、番頭に店を乗っ取られて虎屋から追い出され、かみさんには逃げられてしまったという。 鼠屋はそんな体の不自由な父親と、十二歳になる倅が父親を見ながら切り盛りしているような貧乏旅籠だから、もとより繁盛するわけがない。 建具は破れ、ふすまからは寒風が吹き込んでいるのに、囲炉裏には火もない。藁がはみ出した裏表もわからない畳、蒲団はとっくに質屋にはいって、夜は明かりも灯せず真っ暗闇なありさま。とても泊まれるような宿ではなかった。 ところがある日、この鼠屋に左甚五郎が泊まることになった。 倅から逐一この話を聞いた左甚五郎、その日は一日かけて鼠を彫り上げて倅に渡す。これを盆に入れてやると「ちゅう」とないて盆の中を一回りした。 これを見た鼠屋の主人はびっくり仰天!。 これが次第に評判となって、わざわざ見に来る泊り客もあって、次第に盛りかえしていった。噂はうわさをよんで、鼠屋はますます繁盛するようになった。 一方、虎屋のほうは客が一人減り、二人減り、そのうちさっぱり宿泊客がなくなってしまった。 もと番頭だった虎屋の主人は困り果て、智恵をしぼった挙句、伊達藩のお抱え彫刻師、飯田丹下に頼み「虎の置物」を作ってもらい、さっそくそれを二階の鼠屋の正面に飾り付けたところ、左甚五郎の彫った鼠は縮みあがってまったく動かなくなってしまった。 動かない左甚五郎の鼠を見に来る客は次第に減りまた客が遠のいていった。 そんなある日、旅先の帰りに左甚五郎が泊まることになった。 主人は「いつぞやはありがとうございました。あとになって知りましたが、あなたは飛騨高山の左甚五郎さまだそうで? おかげで商売は繁盛するようになったのですが、向かいに虎の彫りものがあがってから鼠はさっぱり動かなくなってしまいました」涙ながらに左甚五郎にこのことを訴えると、「よしよし、なぜ動かなくなったか、鼠に聞いてみてみよう」といい、鼠のところにきて「これこれ、鼠よ、おまえは虎屋のあれしきの虎に恐れて動かないとは情けない。いったいどうしたことだね?」。 聞かれた鼠は「え? あれは虎だったので? あっしゃあ猫かと思った」と言い終わるや「ちゅう」とないてお盆の中をひとまわりした。
◆遠州小夜の中山の蟹 遠州小夜の中山で飴湯を売っている小さな茶店があった。 いまは亭主に死に別れたおばあさんがひとり細々と店を続けている。 どうみても客が一休みするような店ではない。ところが左甚五郎がここで一服した。 欠け茶碗になにやらかびくさい飴湯を持ってきたおばあさんの話によると、「かってはお客さんもありましたが、長患いで主人が死んでからは、店はさっぱり」という。 聞いた左甚五郎は小さな蟹を彫って渡し、「これは飴湯の代金代わりじゃ。お客があったら煙管の背でこうして」といって蟹の背を煙管でぽんとたたくと、蟹は飴湯のお盆の中をを横歩きした。 これが評判になって、毎日飴湯を飲みにくる客で店は押すなおすなの大盛況。昔の繁盛を取り戻した。 しかし、一年もするとさすがの蟹の甲羅もひどく傷んできた。 おばあさんは「お前のおかげで店は繁盛したが、すっかり傷だらけになって、かわいそううに」、といい、評判の塗師に頼んで朱漆をぬってもらいきれいに修繕してやった ところが、蟹はこの日からいくら背中をポンとたたいても動かなくなった。 おばあさんは怪訝に思いながらも、途方にくれていたそんなある日。 東海道をいつぞやの左甚五郎がやってきた。 おばあさんは、左甚五郎に蟹が動かなくなったと嘆いてこのことを話す。 これを聞いた左甚五郎、「どれどれ、いちど見てあげよう」と、真っ赤に塗った蟹を見せられたが、これを見た左甚五郎は驚いた。 「これじゃあ動かないよ」。 「動きませんか?」。 「だめだ」。 「そういわず、なんとかもう一度動くように……」 「だめだね」。 「???」 「一度ゆでた蟹は動くわけがない」。
◆天の橋立成相寺の真向の龍 天の橋立に近い、西国第二十八番札所、成相山成相寺に左甚五郎作の「真向の龍」がある。
◆祇園祭鯉山の鯉 京都祇園祭の鯉山には左甚五郎作の鯉が飾られる。 この鯉は祇園祭の宵山に町内に出かけると、かって、仙台藩がローマに派遣した支倉常長が持ち帰った、立派なタペストリーとともに、山・鉾飾りの場で真近く見られる。
◆黒川道佑の「遠碧軒記」 江戸時代・延宝三(一六七五)に医師で儒者でもあった、黒川道佑の「遠碧軒記」 に、「左の甚五郎」の記述があり、京都北野天満宮の透彫、京都豊国神社の龍の彫刻を左手で上手に細工した。とあって、江戸時代前期には、すでに左甚五郎の名が知られていたかがわかる。
◆漬物の重しになった亀 中仙道、武州本庄で宿をとった左甚五郎。 つい酒を過ごしてしまい宿賃が支払えなくなった。 困った甚五郎の顔を見ていたあるじ、宿賃の代わりに仕事を手伝ってもらいましょうか? 「へえ、すみません」。というようなことで数日を薪を割って過ごした甚五郎、なんとか放免してもらうことになった。 「えらいご迷惑をおかけしまして済みません。これはつまらないものですが、ほんのお礼代わりに」といって黒い一匹の亀を差し出した。 これを一目見たあるじ、その出来の悪さにおもわず吹き出してしまった。 宿のお上さん、漬物を漬けようとしたが、手ごろな石がない。そこで甚五郎が作った亀を重しにしたのだが……。 朝になったら亀はいなくなってしまった。お上さんは仰天! いったいどこに行ったか? と探していると泉水の平石のうえで気持ちよさそうに昼寝をしている亀を見つけた。 お上さん「なんで重しになっておらんのか!」叱り付けると、亀は「お上さんのどが渇いてとても我慢ができません。へい」。
◆大津祭の山車龍門瀧山の彫刻 中国黄河の上流にある龍門山は、魚がさかのぼることの出来ない滝があって、この滝をさかのぼることが出来た鯉は天に昇り龍になるといわれ、ここを越えることが出来れば龍になれるといわれている。鯉は胸のひれをおおきく鳥の羽のようにひろげ、一気に滝を登ってゆく。 滋賀県大津市天孫神社祭の山車・龍門瀧山は、本祭の日にかけられる見送り幕が目をひく。 十六世紀ベルギーで作られた毛綴織で、近年、画題はギリシャの詩人ホメロスの叙事詩である「イリアッド」の物語を描き、トロイ落城の情景を織りだしたとされた。京都鯉山のタペストリーとはおなじものを二分したもの。国の重要文化財指定された立派なものである。 過去に用いられたからくりの鯉は、初代、林孫之進が宝暦十二年(一七六二)湖南の大工栄蔵の作には、寛政五年(一七九四)の銘がある。製作年代不明の四代目林孫之進の三体が伝わる。これら三体の鯉は宵山から本祭に飾り展示される。 この幕押しの彫刻「中国農村風景」は、左甚五郎が作ったと伝える、
◆稲爪神社の随身門 兵庫県明石市大蔵八幡町 □祭神 オオヤマツミノカミ 大山祇神 オモダルノカミ 面足神 アヤシコネノカミ 惶根命 □汎論 稲爪神社は、延喜式神名帳に記載される古社。伊和都比売神社の論社とされる神社。祭神のオモダルノカミ(面足神)は男神、アヤシコネノカミ(惶根命)は女神。 古い日本神話の神である。当社の随身門は左甚五郎作と伝わる。
◆羽前街道金山宿の巡業親娘 左甚五郎は、羽前街道金山宿(現山形県最上郡金山町)を旅していたとき、いかにも貧しげで、どうも影の薄い親娘とであった。話しをきいてみると、淡路島の出身で、旦那と妻、そのひとり娘で旅から旅の文楽人形使いの巡業者だったのだが、夫を病で失い、故郷にも帰れず今日まで人様の情けにすがって生きては来たものの、秋も深まれば冬の訪れももう間近か、たくわえも無くとても冬を越すあてもなく、いっそ最上川に身投げしようと、その死に場所をさがし、こうして娘とうろうろ…、という話を聴いて甚五郎は驚いた。「まあちょっと待ちなせえ」、甚五郎は近くに宿を取り、親子の話を聴いてみると、夫は一人使いの人形師、妻は浄瑠璃語り、娘は浄瑠璃三味線を弾いていたという。 一部始終を聞いた甚五郎、親子を説得してひきとめ、あくる日から、なにやらせっせと彫り物をはじめた。五日ばかりすると人形の首が出来上がり、人形には親娘がつくった着物を着せて、娘の三味線で「傾成阿波の鳴戸」を弾き始めると、驚いたことに人形はパッチリと眼を見開き、立ち上がって、母親の浄瑠璃にあわせて所作をはじめた。 勘定も支払わず流連する客のようすをいぶかり様子を伺いにきた、宿の主人はこの有様を見てびっくり仰天した。 風采のあがらない旅人は、飛騨の名工、左甚五郎だったとは、後で知った一同は驚いたり、なるほどと納得したのであった。 さあこれが評判になって遠近から訪れる客が後を絶たないありさま。何とか当座をしのぐ見通しも立ち、親娘は甚五郎に感謝し涙にくれるのだった。しかし、いい事は続かないもの、ある夜忍び込んだ盗人にこの人形を奪われてしまった。親娘の悲しみはいくばかりだったか。ところが盗人は捕らえられ、つまらん人形は捨てたというので、役人は事情を聴くと、盗賊は「あんな人形はうごきませんや」という。早速人形を拾い、親娘をよびよせて「これ、この人形は動かぬそうじゃ」といい人形を返したが、娘が浄瑠璃三味線を弾き始めると、人形はむっくりと起き上がって、芝居を始めたから、居並ぶお役人も盗賊もびっくり。無事に戻った人形といっしょに庄内各地を巡業してまわって大評判となり、こうして路銀のたくわえもできたので、親娘は旦那の位牌とともに、無事淡路島に帰ることができたのだった。しかし、不思議なことに淡路島の在所で、甚五郎の人形に芝居を披露しようとしたが、なぜかまったく動かなくなってしまった。
◆伊予の甚五郎薬師さま かの左甚五郎、伊予の三島にある傾きかけた古いお堂で一晩泊まったが、夜もあけぬ、まだ暗いうちからもう長い間、おもてで一生懸命お祈りしている様子、破れ障子の間からしばらくそのありさまを見ていたが、あまりに騒々しくてもう寝てなどいられなくなり、表戸をあけて外に出たから、お祈りしていた人は腰を抜かさんばかりに驚いた。「へへえ…」額を地に額ずかせて恐れ入っている。見ればどこかまだ幼い面影を残したひとりの少年である。「これこれ、若いの何をそう願っているのじゃ」、甚五郎は少年に声をかけると、少年は、「あの…失礼ながら、当院のお薬師さまでしょうか」と聞いたので、甚五郎は面倒くさくなり「いかにもそうじゃ」と答えると、少年は、「へへえ、実はお願いの儀がございます」、「申してみよ」、「それにしてもうすぎたないお薬師様で…」、甚五郎苦笑いしながら、「余計なことを言わずともよい」といって。先を促すと、少年はぼちぼちと語り始めた。父は越前若狭の士族だったが、病でみまかり、お情けで跡目の想像はできたものの、年端がゆかぬため、伊予三島に学問に出されたのだという。しかし、昨日故郷のほうから便りが来て、母が病で、この年は越せないだろうということだった。「父親の遺志をついで立派に奉公してくれ」とあるのを見ると居ても立っても居られなくなった。しかし、お城から遣わされている身では、故郷にも帰るわけにはいかない。そこんで悩んだ挙句、こちらのお薬師様に母親の病を治していただこうと思い…、という話だった。話を聴き終わった甚五郎、「これ若いの、筆とすずりを持ってまいれ」、「筆ならここに矢立が…」「おう、そうか」甚五郎は、お堂の諸氏神をべりべりひっぺがすと、それになにやらしたためていたが、書き終わると封印して少年に渡し、これを持って伊予大洲のお城に行ってご城代様に渡すのじゃ、「お返事がいただけたらすぐに戻ってまいれ」。半信半疑の少年はそれでも出かけていった。やがて、夕暮れも近い頃、ほっぺたを真っ赤にして少年が駆け込んできた。「お薬師様、おやくしさま…」、「追う帰ったか」、少年の話ではいまちょうどお殿様が国にお帰りになっていて、直接会ってくだされ、「感心なことじゃ」といって三〇両くださいました」、甚五郎は、とおりを三つ目の過度を左に曲がった酒屋に行ってそのうちから昨日の借りじゃといって二両を渡してまいれ。そしてもう一度ここに戻って参れ。やがて少年は不思議そうな顔で戻ってきた。「いやいや何も言わずともよい」 甚五郎は、一日かかって彫り上げた黄色い鶴を示し、よし、ここに腰掛けてみよ、といって少年を鶴に座らせると少年に手ぬぐいで目隠しし、黄鶴に「越前若狭へ」と声をかけると、鶴は大空にむかって大きく羽ばたき、瀬戸内の海を越えて飛び去った。 難波、琵琶湖を越え嶺南から若狭へ無事に着いた。「おっかさん」少年は大きな声で家に飛び込むと母親に声をかけた。病み衰えた母親を見て少年は声を詰まらせたが、母は患いというより極度の過労と貧しい暮らしが故であった。少年は残りの二十八両を母に渡し、「来年春には帰ってくるから元気で居てくれ」と励まし、ふたたび黄鶴の背にまたがると、黄鶴は飛び立ち瞬く間に伊予に帰ってきた。黄鶴は少年を下ろすといずこえともなく飛び去った。少年は夢のような出来事にただただ驚いたが、こえもみなお薬師さまのお陰と喜ぶのだった。しかしお薬師様の姿は無かった。 伊予大洲の城にはおおきなつぼみをつけた一輪のボタンが届いたのはそれから間もなくのことであった。 春になって帰郷した少年は元気になった母親と再会し、親子ともども「甚五郎薬師」に感謝するのだった。
◆伊萬里の甚五郎稲荷 肥前の伊万里の里を旅していた左甚五郎は、村はずれで一人の少年に出会った。手に一握りのしきびの枝を握っていたから「お墓まいりかい」と声をかけたが、少年は黙って首を横に振った。見ると眼が真っ赤である。さらに尋ねるとおとうが死んじゃったという。なにか異常を感じた甚五郎、少年に一緒についていってあげようといい、少年の家まで来ると、そこは蓆がぶらさがった、いかにも貧しげなちいさな小屋である。 土間には焼き物を焼いていたとおぼしき釉薬を入れる甕などがいくつかならんでいて、奥にはせんべい布団にほとけが横たわっている。「お母ちゃんは?」、「いない」、「兄弟は?」、「お姉ちゃんがいるけれど薩摩にお嫁に行ってしもうた」、「親類の人は?」「いるけれどだれも来てくれない」、「近所の人は?」、「だれも来てくれない」、聞けば父親は暮らしが貧しいのに、酒好きで借金がかさみ喧嘩好きで次第にだれも相手にしてくれなくなったのだという。 「わしと似たような仁だったらしいな」。聞いていて甚五郎は目頭が熱くなった。「よしおじさんが手伝ってお弔いをすませよう」、甚五郎は少年を手伝ってふたりだけで葬式を済ませたのだった。その夜、棚に並んだ幾つかの粗末な焼き物を見た甚五郎は、少年にその犬を見せてくれと聞くと、少年はそれをとって甚五郎に渡した。「犬ではない狐じゃ」と少年は答えた。「こりゃあ悪いことを言ったな」詫びながら、だれがつくったのか聞くと父親の作ったものだという。稚拙な狐であったが、人の気を惹く稚気がある。 甚五郎は少年の家に一晩とまり、小さな祠をこしらえて、なかにその狐を祀ったのであった。怪訝な顔をしている少年に、お賽銭箱に小銭を投げ入れ、「手をたたいてお参りしてごらん」、甚五郎が言うと、少年は素直に手をふたつたたいておまいりした。すると祠の奥で狐が「コーン、コーン」と二つ鳴いた。この話が次第に近所に伝わり、入れ替わり立ち代り、お賽銭を入れて狐を拝むと、「コーン、コーン」と狐が鳴く。ひとびとは面白がってお参りしていたが、いつとはなしにづ福運を授けてくれる奇特な狐じゃ、これは稲荷さまじゃということで、だれ言うとなく「甚五郎稲荷さま」と呼ぶようになった。 お参り衆はあとを絶たず、おかげで少年は次第に裕福になり、立派に成人して、かわいらしいお嫁さんを迎えることができたのだった。 しかし、ある台風の夜、強い風にあおられて祀堂が壊れてしまった。お参り衆は浄財を寄進して立派なお堂に建て替えたのだが、なぜかお稲荷さんは鳴かなくなってしまった。 ご利益のほうは一向に衰えず、初午の時には京のみやこからもお参りの人々があり、大勢の参詣人が続き、おみやげに土地の伊万里焼を買って帰り町はたいそう繁盛したという。
◆左甚五郎 南紀地蔵堂の龍 紀州の南(和歌山県の南部)、熊野速玉大社の本殿が台風で増水した水に流されるということがあって、甚五郎は頼まれてその修復に出かけたときのことである。昨年の猛威のあともいまは治まり、夏の暑い日差しもようやくおさまりつつある旧暦七月の末のことであった、大和の木津川沿いに下ってきた左甚五郎、地蔵堂の前で頭を垂れ、花を捧げ、線香をあげ、両手を合わせて拝んでいる若い婦人を見かけた。しばらく様子を見ていたがなにやら仔細ありげである。やがてかの婦人が頭を上げ振り返ったので、事情を尋ねると、婦人は涙にくれながら、幼い我が子を水難で失ったということであった。聞けば、上流に夕立があるといきなり水かさが増えて流される子供が毎年出るという。これを聞いてしばらく思案していた甚五郎は、岸辺に流れ着いていた吉野杉の丸太で人の背丈ほどある龍を彫って地蔵堂にかけ、夏になったら子供が水遊びする川に浮かべておくようにといって立ち去った。夏になるとその龍を川辺に運んで水に浮かべておくと、なぜか流れても行かず、おぼれる子供がいるとそこまで龍が泳いでいって子供を背中に乗せて岸まで連れて帰ってくれるのだった。それからは水難にあう子供もいなくなり五〇年くらいたったが、甚五郎の龍はあちこちの岩にぶつかり、朽ちてどちらが頭か尻尾かわからないほど傷んでしまったので、村の衆は地蔵堂の前で龍を供養をして荼毘に付してしまった。燃やしたしまったあとしばらくして、あれは飛騨の左甚五郎の作だったことがわかり、それを知った一同は悔やんだがあとのまつりだった。夏前には子供を持つ親と子がお地蔵さんにおまいりするようになったが、不思議なことにそれからは、水難にあう子供はいなくなったという。
◆左甚五郎と五合庵 ある秋の黄昏がた、左甚五郎は越後寺泊をすぎたあたりの海辺で、空腹に耐えながら暮ゆく向かいの佐渡島を眺めていたときだった。「どうしなさった」と声をかけてきたものがいる。振り返ると破笠に破衣の貧相な僧である。甚五郎は苦笑いしながら「じつは腹が減って…」、それを聞いた僧はまじめな顔で「それはお困りじゃろう」しばらくお待ちなされといって姿を消したがしばらくすると、古鍋を提げてもどってきた。 しして、ふところから今日の托鉢で得たと思しき一合ほどのこめを鍋にあけ海の水で炊いで、お粥を炊いてくれたのだった。「さあ、食べなされ」、僧は甚五郎にすすめ、自分も一緒になって食べたのだった。甚五郎は尋ねるともなくたずねると、どうやらこの近くの僧らしいが、行く雲、流れる水。臥所を定めぬ常住の住まいもないらしい。 話を聴き終えた甚五郎は、僧のために、弥彦神社の南斜面の空き地に翌日から三日ほどかけて、小さな小屋を建ててやった。六畳と三畳ほどの粗末で小さな庵だったが、拾い集めた小枝を囲炉裏にくべると、部屋はたいそう暖かかだった。 「神社には話をしておいたから、この庵で過ごしなされ」と甚五郎は言い、立ち去ったが、近くには湧き水もあり、それからはまれには尋ねてくる人もあり、米、醤油なども届けられ、紙、筆、硯も次第に備わってまずは不自由の無い暮らしであった。 この貧しげな僧とは良寛で、訪ねてくる人の求めに応じて書を認めるのだった。 あとで、庵を提供してくれたのが左甚五郎だと知った良寛は、この庵を、一合の雑炊を分けて食べた甚五郎を偲んで「半合庵(ごごうあん)」と名づけた。さらに、飛騨のたくみを詠んだ詩一編をつくって甚五郎の徳をしのんだのだった。「飛騨のたくみの打つ墨縄の…」とある。良寛はこの庵にしばらく住まいし、老いてのちに麓に移った。「半合庵」はその後無住となり、ひとびとは「五合庵」とよんで、明治の初め頃までは存在したらしいが、ついに朽ちたのだった。いまは良寛を讃える人々によって、往時を偲ぶ五合庵が復元されている。
◆甚五郎の子授け地蔵 日向の国、延岡のお殿様延稜公に招かれて、豊前臼杵から南に向かっていた左甚五郎はある村で宿を借りた。夫婦は好人物で甚五郎をあたたかくもてなしてくれたのだが、なぜか家のなかがわびしい。だがそのわけはすぐにわかった、夫婦に子供がいないのである。長年連れ添い夫婦仲もいいのだが、近くのお地蔵さんにお参りしてお願いしても、なぜか授からぬものは仕方が無い。もう諦めているという話だった。一部始終を聞き終わった甚五郎は翌日、あるじにお地蔵さんまで案内してもらった。しばらくお地蔵さんを眺めていた甚五郎は祠を寄進して差し上げようといい、お地蔵さんのおうちを作ってそちらに移ってもらったのだった。夫婦はたいそう喜んで毎日団子を作ってお供えし、せっせと日参したのだが、やはり子宝に恵まれなかったのである。夫婦は世間で評判の左甚五郎さんもたいしたことはないわい。もう明日からはおまいりもやめようなどと夫婦は愚痴を言いながら帰ってきたのだったが、その夜のこと、夫婦の枕元に件のお地蔵さんが現れたから驚いた。お地蔵さんいわく、「そちたちのお陰で毎日腹がふくれているのはありがたいが、聞けば子宝を望んでいるそうじゃの?」、「さようでございます、しかしお地蔵さんが望みをかなえてくださらないので…」思わず愚痴を言ったところ、お地蔵さんが言うには「わしは、団子はもう食い飽きた、明日から餅をあげよ」というなりぱっと姿が消えた。後で聞いたら妻も同じ夢を見たという。「不思議なこともあるものじゃ?」、しかしお地蔵さんのお告げなので翌日は餅を搗いてお地蔵さんに備えたのだった。その夜のこと妻が真っ赤になってもじもじしているのを見た主人、「ははあ? そういうことだったか」とすべてを理解した。「甚五郎さまのご利益はありがたい」。仲のよい夫婦に子供が恵まれたのはそれからまもなくのことだった。 子宝に恵まれない夫婦は餅を搗いてお地蔵さんに供えると子供が授かるというのでたいそう評判になって、お参り衆があとを絶たなかった。
◆甚五郎の招き猫 江戸時代、江戸の町で小間物の行商をしていた忠兵衛、さな(佐奈)という夫婦があった。子はなく一匹の猫を飼っていたがたいそう忠兵衛になついていた。三月を迎えたある日、いつものように忠兵衛は行商に出かけたのだが、その日は風が強く大火事が発生した。後に言う振袖火事、明暦の大火である。江戸の町は火に包まれ、この火事で天守閣も焼け落ちた。伝馬町の牢屋では、一時的に囚人を解き放つ、解き放ちが行われた。これ以後千代田城には天守が築かれることはなかった。また一時的に解き放たれた囚人たちは恩徳に感じて全員戻ったといわれる。 行商埼でこの火事を知った忠兵衛も急いで我が家に飛んで帰ったのだが、幸い妻は無事であったが火が迫るのに猫が忠兵衛の帰りを待ち続けて、家を出ようとしないというのである。 忠兵衛は火の粉の舞う家並みを通り抜けて、燃え盛る我が家に飛び込むと、愛猫を抱いて飛び出したのだった。 しかし、猫は焼け落ちた梁に前足を挟まれ、哀れ不具になってしまった。ちょうどこのころ江戸にいた甚五郎のうわさを聞いた夫婦は甚五郎のところに相談に来た。「わしは医者じゃないからどうにもならんが…」といいながらも、気のいい甚五郎は木で猫の前足を作ってやったのだった。不思議なことにこの日から猫は普通に立って歩けるようになり、どこで見つけたかお嫁さんまで連れてきたのだった。 やがて寿命で猫が息を引き取ると夫婦はそのさびしさにさいなまれるのだったが、夫婦で相談をして、甚五郎さんに猫の遺影を彫ってもらおうということになったが、甚五郎はどこかに旅立って江戸にはいなかった。うわさをたどって、上州伊勢崎でようやく甚五郎をたずねあて「しかじかで…」と話すと、甚五郎は前足を作ってやった猫をよく覚えていて、そっくりの猫を木で彫り上げてくれたのだった。しかしこの猫は動かなかったので少しがっかりしたが、それでも喜んで江戸に戻ったのだった。それからしばらくたったある日のこと、仏壇の前に飾っておいた猫があまりにも生前の姿に似ていたので、思わず猫の名前を呼ぶと猫は眼をあけ、片足を上げて「みゃあ」と嬉しそうに鳴いたから忠兵衛はびっくり仰天、それからというもの毎日名前をよんでは頭をなでてやると、猫はのどをごろごろいわせて喜ぶのだった。やがてその年も迫り、十一月ともなると浅草の長國山鷲山寺の酉の市に、夫婦そろってお参りし、おかめ笹で作った福笹を買って帰ったのだが、面白半分に笹についていた打出の小槌を猫にもたせたところ、猫は喜んでそれを振ったから、たちまち福が舞い込み、商売は繁盛、家普請でき、以前にもましてはんえいするようになった。この猫は世田谷の豪徳寺の猫と兄弟だったという。 浅草の長國山鷲山寺には左甚五郎が奉納した大鷲があったというが、夫婦が献納した猫ともども大正時代の関東大震災で失われた。
◆左甚五郎 「日光の眠り猫」外伝 こんなお話があります。日光東照宮の造営に関わっていたときのことです。このときは甲良豊後守(こうらぶんごのかみ・斐太で修行して当代随一の宮大工と言われた人です) 左甚五郎はこの宮大工に招聘されて日光のお仕事を手伝ったようですが、来る日もくる日も山中でのお仕事ですから、もともとあまりまじめ人間ではない左甚五郎は、秋も次第に深まり日も短くなって、宵闇がせまるともうじっとしていられません、赤提灯が恋しくなってきます。そこで仕事場をそっと抜け出して麓の鹿沼宿にやってくるとやれ嬉しや、一軒の飲み屋が目につきました。見ると薄汚い軒の傾いた一軒の飲み屋です。もとは旅籠だったそうですが、主人が若いとき放蕩三昧で、あわれその行く末が今のざまです。と鼻水をすすりながら愚痴をこぼします。 酒さえあれば店の汚いのなぞ気にしない左甚五郎、ついしばらく酒を断っていたこともあって、ついつい酩酊するまで飲み続け、はてはへべれけになって店の隅で眠り込んでしまいました。 あくる日になるとすっかり酔いの醒めた甚五郎、案の定、甚五郎には金子の持ち合わせがありません。左甚五郎はそのまま数日滞在しましたが、主人は語気鋭く勘定の支払いをせまりますが支払いなどできようはずがありません。このあいだに見るからにみすぼらしい一匹の猫を彫り上げました。甚五郎はやおらこの猫を主人に示し、これを勘定代わりにとってくれと差しだしました。主人はそれを手にとって、しげしげと見つめていましたが、どう見ても猫には見えない…? しかし、言われてみれば猫が体を丸めて薄目を瞑って居る姿に見えなくもない。主人は怒って甚五郎を裸にし、大切に持っていた宇多國長が鍛えた一本の鑿まで取り上げてしまったのです。これにはさすがの左甚五郎も困り果てました。 左甚五郎は、同情した宿場女郎の情けで昼はどうやら人目を避けることができました。 さて、夜も更けて、深夜になると飲み屋の外まで来て小さな声で「ちゅう」と呼びかけると、中から猫が「にゃあ〜お」と応じ、右手で閂をはずしそっと戸を引きあけて、「おいでおいで」をして左甚五郎を中に入れてくれました。 おかげで甚五郎は着物と鑿を取り戻し、一目散に日光に逃げ帰ったのでした。 いつとはなしにこの話が伝わると一目見んものと人々が押し寄せてくるようになります。 戸口の外に立って人々が「ちゅう」とないてみせると、「にゃあ〜お」と啼いて、戸がスルスルと引き開けられ、お礼に一文銭を投げ込むと、猫がうっすら眼を開いて、にっこりと笑い、右手を挙げてバイバイをして戸を閉めたといいますが、これは後の作り話でしょう。 さあこれが評判になって人々が押し寄せ、たいへんな騒ぎになりました。一目見んものと押しかけた人が行列を作り、嘘か真か、延々と徳次良(とくじら)のあたりまで続いたといいます。見そびれた人たちは鹿沼宿にわらじを脱ぎましたから、旅籠も大繁盛。飲み屋の主人は、かの宿場女郎と語らい、一番から百番まで番号をつけ、この木札を持った人を優先的に扱うようにしましたから、遊郭も大繁盛しました。現在の石橋町のあたりだったと言いますが、現在ではどのあたりになるでしょうか・ この話が将軍様のお耳に入って、左甚五郎の彫った猫はお召しあげとなって、日光東照宮の霊廟に通じる長押の上に飾られることとなりました。このとき猫らしく綺麗に着色されたのですが、猫は気に入らないらしく、その後はずっと不貞寝をしたままになりました。飲み屋の親父は、「飢えた虎はよたよた歩くというが、まったく惜しいことをしたわい。それにしても甚五郎先生にはすまないことをした」と語っていたそうです。 のちに、ひとびとはこれを【左甚五郎作の日光の眠り猫】と呼ぶようになりました。 お粗末ながら【左甚五郎作の日光の眠り猫】の外伝でございます。
◆左甚五郎 豊後日田の眠獅子 豊後日田の某神社のことである。不幸にして火災に遭い、社殿は全焼してしまったのだった。 幸いにも氏子の努力で数年を経ずしてみごとに再建できたのだった。神官の喜びはひととおりではない。しかし、やがて何か物足らないことに気がついた。正面の向拝柱には何の彫刻も無かったのである。気にしかけけたら夜も眠れぬくらいに苦になってならない。思案に余って氏子総代に相談したところ、総代も驚いた。 ところがよくしたもので、豆田の旅籠に乞食のように薄汚い貧相な一人の男が、宿代の支払いができず、宿でも思案に暮れているという。なんでも飛騨の匠とか言っているらしい。 しめた、これはいいことを聴いたぞ、「宿賃と酒代くらいで、向拝柱に「獅子と獏」を彫ってもらおう」。総代は、飛騨の匠に掛け合って見ることにした。 早速その話を斐太の工にすると、意外とあっさり引き受けてくれた。男は数日かかって彫刻を完成し、柱に取り付けたと言うので神主や、氏子総代、氏子らがこれを見上げて驚いた。なんだか小さな岩くらいの丸まったものが柱に取り付けてあるが、どう見ても獅子には見えない。獅子の頭すらないのである。 これが名高い飛騨の匠の仕事だろうか? と一同呆れて見上げていたがそのうち次第に腹を立て、怒号が飛び交うと、斐太の工を怒鳴りつけた。 斐太の工は悄気かえり、ほうほうの態で、逃げるように日田の町から出て行ったのだった。 あとに残った神社関係者は腹立ちも収まらないまま、しばらくは、斐太の工を罵っていたのだが、まあできたことは仕方が無い。聞くところによると、左甚五郎というえらい名人が肥後のほうでお仕事をなさっているそうな。それが終わったらこちらに回ってもらい、作り直してもらったらどうだろう。困惑していた一同は、やっと愁眉を開き、さっそくだれかを使いに立てようということになったのだった。 異変はそれから三日後の朝に起こった。神社の前で蒼白になって震え、腰の抜けた一人の男がうずくまっていたのである。ただならぬ様子に早朝から多くの野次馬が集まってきた。男はただただ震えていたが、やがてやってきた代官所の役人らが、ようやく聞き出した話は、この男、このような立派な神社だから、さぞかし賽銭箱にはたんまり御賽銭があるだろうと昨夜遅くに忍び込みいざ、賽銭箱に手を掛けたところ、どこかで怪しい唸り声がし始め、やがて、首を擡げるや、巻き毛を振るわせ、真っ赤な眼を剥いて大声で吼えたのであった。男はこれを見て仰天し腰が抜けて動けなくなったと言うのだった。 さて、そのころ左甚五郎は、肥後熊本城の客人として招かれていた。先年の【竹製の水仙】のお礼を述べたいということで招かれたのだった。日田の使いはその左甚五郎に会って吃驚仰天、なんと先日皆で怒号と罵声で追い払った斐太の工ではないか。 左甚五郎はただただ恐れ入っている使いに言った。 「いや、わしも悪かった。獅子も夜番をするからには昼は寝ておかんとのう」
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