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日本の山車 日本の山車
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標題の写真説明
2014-07-01
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  表題の写真説明
 ボックスのタイトル : 甲信越
 題名 : ◆富山県

日本の山車 富山県

◆総論
夜高の分布
 富山県の西部には夜高(よだか、ようたか)とよばれる行燈山車が曳かれる。山車を木や竹の骨組みで躯体をつくり、表面に和紙を張り華やかに彩色される。これを青年らが曳くが、祭事が終わると完膚なきまでに破壊しつくす。
 祭事は、神事と神社に繋属しない民俗行事に二大別される。福野町が神社の祭で、他は概ね初夏の民俗行事となっている。
 夜高のはじまりは、福野町が伊勢神宮から分祀を受け「神明社」を創祀したとき、住民らが手に手に堤燈を携え倶梨伽羅峠まで出向いたのが始まりだと伝える。能登半島には多くの「きりこ燈籠」がでるが、夜高もその影響を強く受けており、これをさらに発展させたものと考える。夜高祭は田祭で、豊作祈願をこめた民間神事として行われている。
 かつて、コレラが流行したときは夜高が出なかった地域があり、病魔調伏の祭ではないようである
 夜高は富山県に集中して見られる行燈山車であるが、県外では、北海道沼田町でも行われる。沼田町は町名にもなっている沼田喜三郎が開拓者として入植し、多くの困難を乗り越え開発に力を注いだ。富山県小矢部市の出身であり、富山県出身者が多く昭和四十九年が開村以来八〇年を迎えたのを記念して故郷の「夜高あんどん祭」が行われるようになった。

●16201 富山市
◆00013 富山東岩瀬の曵山祭
□社名 諏訪神社
□所在地
富山県富山市東岩瀬
諏訪神社
□祭は五月中旬。
十三臺の曳山を曳く。
□山車
表方の町内
・新町
・荒木町
・土場町(どばまち)
・新川町(にいかわちょう)
以前は新館町と川原町であったが、合併して新町名が新川町となった。
・御蔵町
・祇園町
・福来町(ふくらいちょう)
浦方の町内
・大町
・松港町(まつみなとまち)(港町)
・白山町(萩浦町)
・永割
・赤田町 平成三年より曵山を作り参加するようになった。
□汎論
山車を激しくぶつけることから「岩瀬けんかまつり」の別名がある。
山車には柱がたち、これに毎年新しく見立物が作られる。山車上の作り物は判じ物となっていて趣向が凝らされる。文字を使わずに絵解きで謎が仕掛けられ、観客が首をひねる。たとえば、山車の上に花札のおおきな一枚、絵柄は「あ可よろし」の短冊がある一枚をかざり、「中国国交回復〇〇周年記念」とある具合。
「鯛・小判・松」で、「大漁を待つ」となる。
 ふだんは静かな諏訪神社社前は立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされひと目見ようとする人たちで大混雑する。
神社前の道路で表方(山側)と浦方(浜側)の山車をはげしくぶっつける。道路の両側にスクラムを組んだ警官がぎっしりとかためるなか、そのあいだの道路を若者が一〇〇メートル以上はある引き綱を曳いて疾走し、そのまま相手方と行き違いになって山車の前面同士を衝突させる。衝突後もなお引き合い、激しい揉みあいが繰り返され、山車は横を向いたり、ときには方向をそれて観客のなかにつっこむおともある。罵声が飛び交い殴りあいにもなる。大混雑のなか、観客同士の喧嘩が起こることもしばしば、顔から血をながし、大の字にひっくりかえったって警官は見向きもしない。
 全国に喧嘩祭は多々あり、山車と山車。山車と神輿をぶっつける祭はあるが、この富山東岩瀬の曳山祭以上に激しい祭は知らない。県内の伏木のけんかやまの「かっちゃい」、小矢部津沢の夜高祭、福野町の夜高祭、氷見祭も激しい祭だがそれ以上の物騒な祭である。町内の北前船の廻船問屋でもあった旧家は、棟札が見当たらず文化財の指定からはずれていたが、飛騨高山の旧家、日下部家と造り、間取りが大変よく似ていることを伝えておいたところ、その関連から調査がすすめっれ、文化財の指定を受けたようである。
□問い合わせ
富山市観光振興課
電話076-443-2072

◆00247 富山山王祭
□社名 日枝神社
□所在地
富山県富山市
日枝神社
□祭
山車は現在曳かれていない。
□汎論
 江戸時代は山王社の祭には山車が曳かれ、富山城まで曳いていって上覧に供した。
前田家文書である『町吟味所御触書、宝永四年(一七〇七)』の記録によると、
猩々山、紫式部山、蓬莱山、諫鼓山、織姫山、業平山、揚貴妃山、分銅山、梅松山の各山車が曳かれている。

◆00248 白山神社祭
□社名 白山総社 
□所在地 富山県中野新町
□汎論
天明三年一〇月に「蓬莱山」という名の山車を曳いたとの伝承がある
戦災により焼失し現存しない。

◆00812 四方神社祭
□社名 四方神社
□所在地 富山県富山市四方(よかた)
□祭神
イスルギヒコノカミ 伊須流岐比古神
イザナギノカミ 伊邪那岐神
イザナミノカミ 伊邪那美神
コノハナサクヤヒメノカミ 木花咲耶姫神
ヒムスビノカミ 火産巣日神
スサノオノカミ 須佐之男神
コトシロヌシノカミ 事代主神
スミヨシミハシラノカミ 住吉三柱神
スガワラミチザネノカミ 菅原道真神
アマテラスオオミカミ 天照大神
イナクラタマノカミ 稲倉魂神(倉稲魂神)
ヨカタタテヒコノカミ 四方建比古神
□祭は十月中旬。
□山車
子供曳山十数臺を曳く。
□汎論
 四方神明神社は、高山市に水源のある神通川が富山湾に注ぐ河口左岸にあり、河川氾濫被害を受けた地である。多くの祭神が祀られる。創祀は不明。天正期以前に四方の西浜辺に方六尺の小祀があったとの伝承がある。石川県能登の伊須流岐比古神社(五社権現)より分祀を受けてイスルギヒコノカミ(伊須流岐比古神)を祀り、のちに多くの神々が祀られる様になったと推定されるが明らかではない。仲違いしたスサノオノミコトとアマテラスオオミカミがおなじ社殿に祀られるのがほほえましい。ウカノミタマノカミ(稲荷神・倉稲魂神)が併祀されるが、古くは出雲系の神を祀る神社だったかもしれない。
 ヨカタタテヒコノカミ(四方建比古神)が祀られるが、これは文化三年(一八〇六)に藩政期に富山湾で水揚げした魚を富山の町で行商していたのを禁止され、困窮した民に代わり一命を屠して救った四方町の年寄栂野彦八の神霊である。
 境内には椿が多く植栽され、春には散り椿が境内を紅色に染め美しい。

●16202 高岡市
◆00062 高岡御車山祭
□社名 関野神社
□所在地 富山県高岡市末広町
□祭は四月下旬−五月上旬
□山車(花車)
・坂下町
標旗と源太夫獅子が、露祓いとして神幸の先に立つ。
・通町 鳥兜           
鉾留は鳥兜
天保四年の作。昭和五年に中山久勇、中山久作が復元。
本座人形は布袋と唐子。布袋は明治34年に本保喜作が復元。唐子三体は辻丹甫の作と伝える。後屏は辻野伊右衛門と久右衛門。幕は白羅紗地剣梅鉢文本金糸刺繍。
からくりは唐子が「大車輪」を行う。
・御馬出町(おんまだし)
鉾留 胡□(文字なし=たけかんむりに禄・「やなぐい」)
本座人形は「佐野源左衛門」。天保一三年(一八四二)に仏師山本与三兵衛により復元された。
・守山町 鈷鈴
鉾留は御鈷鈴。
本座人形は恵比寿。
幕は岸駒の下絵により、昭和五五年に復元した「緋羅紗地波濤文刺繍」。
・木舟町 胡蝶
補助留 胡蝶。明和元年(一七六四)飯野仁兵衛の作。
本座人形(神座)は大黒天と唐子、宝暦年間(一七五一ー一七六三)辻丹甫の作。
幔幕は昭和七年に京都、「朱地綴織宝珠模様刺繍」。
からくりは太鼓叩き童子。
・小馬出町(こんまだし) 
鉾留 諌閑鶏(太鼓に鶏)。諌閑鶏は宝暦三年(一七五三)、辻丹甫の作。
本座人形(神座)は猩々と猿。
幕は昭和五六年に復元「春秋舞楽模様綴織」。
からくりは猿の太鼓叩き。
・一番街通(一番町、三番町、源平町) 金鐘           
鉾留は鐘。播州高砂尾上の鐘を模した金の釣鐘。
本座人形(神座)は尉と姥。
幔幕は昭和五〇年、京都で復元「朱地綴織剣梅鉢文本金欄刺繍」。
・二番町 桐           
本座は熊野神。
車輪は六町が四輪、二番町の山車だけは二輪。
木彫、漆芸、金工、染織など伝統工芸の粋をあつめる。
高岡漆芸
金工は名高い安川乾清はじめ多数の地場の名工によって仕上げられている。
心柱の後部を本座という。
各町ごとに各々恵比須や布袋などの祭神人形を飾る。
前部を柏座といい神賑わいといって機巧(からくり)の遊び人形を飾る
ひげこの「ひげ」は三六本あり、上から赤、黄、赤、白、赤の順
大輪の御師祖花を飾り、その上は鉾留がつけられる。
□汎論
 山車(御車山)七臺を曳く。
 山車の人形
・坂下町には山車はなく、標旗が立つ。
・通町の山車は、「だし(鉾留)」は鳥兜。本座人形は布袋と唐子。
・御馬出町の山車は、「だし(鉾留)は胡□(□は文字なし、たけかんむりに禄「やなぐ い」)」。
・守山町の山車は、「だし(鉾留)」は御鈷鈴。本座人形は恵比寿。
・木舟町の山車は、「だし(鉾留)」胡蝶(揚羽蝶)、平氏の紋であるが、兵庫県高砂の 尾上神社の社紋もおなじく揚羽蝶である。本座人形(神座)は大黒天と唐子。
・小馬出町の山車は、「だし(鉾留)」は諌閑鶏。本座人形は猩々と猿。
・一番街通(一番町、三番町、源平町)の山車は、「だし(鉾留)」は、金鐘、播州高砂 尾上の鐘を模した金の釣鐘。本座人形は尉と姥。尾上神社はいわゆる「高砂の尾上」で 、
・二番町の山車は、「だし(鉾留)」は桐。本座は熊野神。
 山車の人形は、関野神社との関連はない。
□参考
高砂
謡曲 高砂尉と姥の詞章
今を始めの旅衣、日も行く末ぞ久しき。そもそもこれは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。 われいまだ都を見ず候うほどに、このたび思い立ち都に上り候。 またよきついでなれば、播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。
高砂の、松の春風吹き暮れて、尾上の鐘も、響くなり。
波は霞の磯がくれ、
音こそ潮の、満干なれ。
誰をかも知る人にせん高砂の、松も昔の友ならで、
過ぎ来し世々は白雪の、積り積りて老の鶴の、ねぐらに残る有明の、春の霜夜の起居にも、松風をのみ聞き馴れて、心を友と菅筵の、思いを述ぶるばかりなり。 おとずれは松に言問う浦風の、落葉衣の袖添えて、木陰の塵を掻こうよ、木陰の塵を掻こうよ。 
里人をあい待つところに、老人夫婦来れり。 いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。
こなたの事にて候うか、何事にて候うぞ。
高砂の松とはいずれの木を申し候うぞ。
ただいま木陰を清め候うこそ高砂の松にて候らへ。 
高砂住の江の松に相生の名あり。当所と住吉とは国を隔てたるに、何とて相生の松とは申し候うぞ。
仰せのごとく古今の序に、高砂住の江の松も、相生のように覚えとありさりながら、この尉はあの津の国住吉の者、これなる姥こそ当所の人なれ。 知ることあらば申さ給へ。
不思議や見れば老人の、夫婦一所にありながら、遠き住の江高砂の、浦山国を隔てて住むと、言うはいかなる事やらん。
うたての仰せ候うや。 山川万里を隔つれども。互いに通う心づかいの、妹背の道は遠からず。
まづ案じても御覧ぜよ。
高砂住の江の、松は非情の物だにも、相生の名はあるぞかし。 ましてや生ある人として、年久しくも住吉より、通い馴れたる尉と姥は。 松もろともにこの年まで、相生の夫婦となるものを。
謂れを聞けば面白や。 さてさて先に聞こえつる、相生の松の物語を、所に言い置く謂れはなきか。
昔の人の申ししは、これはめでたき世の例(ためし)なり。
高砂というは上代の、万葉集のいにしえの義、
住吉と申すは、今この御代に住み給う延喜の御事、
松とは尽きぬ言の葉の、
栄えは古今相同じと、
御代を崇むるたとえなり。
よくよく聞けばありがたや、今こそ不審春の日の、
光和らぐ西の海の、
かしこは住の江、
ここは高砂、
松も色添い、
春も、
のどかに、
四海波静かにて、国も治まる時つ風、枝を鳴らさぬ御代なれや、逢いに相生の、松こそめでたかりけれ。
今は何をかつつむべき。 これは高砂住の江の、相生の松の精、夫婦と現じ来りたり。
不思議やさては名所の、松の奇特をあらわして、
草木心なけれども、
かしこき代とて、
土も木も、
わが大君の国なれば、いつまでも君が代に、住吉にまず行きて、あれにて待ち申さんと、夕波の汀なる、あまの小舟にうち乗りて、追風にまかせつつ、沖の方へ出でにけりや、沖の方に出でにけり。
さあらば方々の船に乗り、住吉へ参ろうずるにて候。
高砂や、この浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり。われ見ても久しくなりぬ住吉の、岸の姫松幾代経ぬらん。 睦ましと君は知らずや瑞垣の、久しき代々の神かぐら、夜の鼓の拍子を揃えて、すずしめ給へ、宮つこたち。
西の海、あをきが原の波間より、
あらわれ出でし神松の、春なれや、残んの雪の浅香潟。
梅花を折って頭に挿せば、
二月の雪、衣に落つ。 ありがたの影向や。月住吉の神遊び、御影を拝むあらたさよ。
げにさまざまの舞姫の、声も澄むなり住の江の、松影も映るなる、青海波とはこれやらん。
神と君との道直に、都の春に行くべくは、
それぞ還城楽の舞。
さて万歳の、
小忌衣、
さす腕には、悪魔を払い、納むる手には、寿福を抱き、千秋楽は民を撫(な)で、万歳楽には命を延ぶ、相生の松風颯々の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ。
□問い合わせ
高岡市観光物産課
電話0766-20-1302

◆00096 伏木祭
富山県高岡市伏木
□山車
・中町山 中町
鉾留(だし)は瓢箪。
文政年間の建造。
一個の種子から百子を生ずるみちなんで、子孫繁栄を象徴する。一個の茎から百果を生ずるもの千果を結ぶものがあり、「百成」「千成」という。
雛臺とよぶ部分があり、ここから上部が上臺(上山)となる。
上臺(上山)の勾欄は二層となっており、下から一の段、二の段と数える。
この山は二の段が後屏を兼ねる
後屏、鏡板と呼ばれる上臺後部には、「見送り」に相当する彫刻の主座を占める場所
である。
仙人「せき(文字なし、赤におおざと)大通」を彫る。
一の段の欄間、下の段は大輪菊」、上は「竹林の七賢」と推定されている。
竹林の七賢は、
阮籍
□康(□はけい。文字なし)。
山濤
劉伶
阮咸
向秀
王戎
の七人をいい、中国魏代の人物。よく山車の題となる。
二の段の欄間、欄干の架木(ほこぎ)は、蕨手唐草を結ぶ熨斗文で、欄干に鳥がとまる
下臺は柱が伊達柱で、嵌込み式の幕板がおさまる。伏木ではこの山車のみの特徴である。長押上の小壁にあたる欄間には「実柘榴と胡錦鳥」が彫られる。この実柘榴も子孫繁栄
を願う。
射水市(旧新湊)の「法土寺山」とは、同一人の作で、工匠が新湊放生津の高瀬竹次郎
で、両者は共通点が多い。
・上町山 上町
本座人形は布袋。
辻野丹保の作、天明元年の銘がある。もとは、廻船問屋を営んでいた「能登屋」藤井家の座敷神として祀られていたものだといい、文政年間の作との説もある。
上臺(上山)は蓬莱山に見立てる。
典型的な三重山になっており、三の段が後屏を兼ねる。
一の段、二の段の欄間は、一の段は鹿、二〇人の仙人が彫刻されているが、特定できていない。
二の段欄間は曲水遊園図」
曲水をめぐって七人の仙人
後屏の鏡板はっ中国の故事で知られる、張良、黄石公が彫られる。
一の段は水皺と松鶴、亀
二の段右後方は、蝦蟇仙人、劉海せん(せん・文字なし)また葛玄ともいう。
蝦蟇仙人はよく李鉄拐とともに画かれる例が多い。
二の段前部は、逍丙(しょうへい)の渡河図。
張九哥(ちょうきゅうか)、羅(うすもの)で蝶を切り抜いたらいずこかへ飛び去ったという。
二の段左側前部
欄間には虎を従える董奉(とうほう)
長剣を背にする呂洞賓(ろとうひん)、大和文華館には雪村の呂洞賓がある。
林霊素は水を噴いて五色の雲を起こし、金色の龍を出現させたという。
蓬莱群仙図は京都四条派の画家、松村呉春。
・本町山 本町(浦町)
鉾留は、こ鈴(文字なし・かねへんにふるい)
天保年間の建造。
後屏は、東方朔
背面一の段の欄間には、桓き(き・文字なし)
雲に乗る青童
牛を引く沈義と妻の賈氏
劉晨(りゅうしん)、阮肇(げんちょう)
虎を従える董奉
陶淵明
同じ図柄が新湊の法土寺山の鏡板にもある。
・寶路町山 寶路町(寶玉町)
後屏の主座は西王母
一の段背面に謡曲高砂の尉と姥を彫る。
左右に、烏帽子、神楽鈴。能管、面箱、鼓、笙、冠など、能楽ゆかりの品。
・石坂町山 石坂町
安政年間の作
後屏の主座彫刻は菊慈童。芭蕉の奥の細道。北陸山中温泉で詠んだ、

  山中や菊はたおらじ湯のにおい

 がよく知られる
この山車には、箱欄間の手法が用いられ、正輦下の小壁には一小間ごとに箱の中に彫物を取り付け箱ごと装着するようになっている。
十二の小間には、唐子遊戯図を彫る。
石坂山車の工匠は不明よされるが、新湊の立町山とは、勾欄の形、朱欄の意匠、鉾留の壽の字がよく似ている。
立町山は、放生津の高瀬市十郎の建造とされる。高瀬家は代々宮大工棟梁を業とし、
市十郎改め四代目仁兵衛、仁兵衛はその子祐太郎とともに新湊の山車に腕を振るっている。その関連が指摘されている。
・湊町山 湊町
明治の作主座は、黄石公と張良
後屏と二の段の勾欄の工匠は能登の牛道という伝承があったが、近年、石川県能登町(旧鳳至郡柳田村石井)の大森万九郎であることがわかっっている。
上臺
下はすべて龍、上はすべて唐獅子。作者は井波町の「宮窪繁」
下臺小壁の欄間図柄は十二支にちなむ
欄間は金碧濃彩の桃山風。七福神を守護神とする。
唐様の瑞祥文づくし
・古国府下町
ここに歌舞伎山の山車があったといわれている。伏木に見られる山車とは全く異なる
明治三一年(一八九八)古国府の有志により、三年間曳かれた。背面の鏡板には村中徳次郎の「神功皇后の三韓征伐」の図が描かれていたといい、山車の上では高岡や新湊より芸妓が来て歌や踊りを演じたという。その後、この山車の所在は不明となっている。
□汎論
山車の中心を一本の柱が立つ。心柱といい、檜材が使われる。
塗り替えは七年目、山車の曳き順が一位になる時を待って行われる。
曳順の一番は先導車で、先導する山車を「一番山車」という。曳順は一年に一番づつ繰り上がる。
「伏木のけんかやま」で名高い伏木祭は、夜になると山車は昼の花山車から提燈山車に装いをあたらめ、山車同士のぶっつけあいが行われる。「弥栄、いやさか」の掛け声とともに箱型に提燈を灯した山車が出揃いぶっつけが行われる。山車前面に三本の巨大化した梶棒は、直径およそ一尺五寸(約五〇センチ)の丸木、一本が長く左右に二本が添えのように固定され、両方山車上の指揮者によって向き合った山車は約三〇メートルを一気にかけて正面からぶつかる。
華麗な山車はその衝撃で装飾品が落ちることさえある。
かって、山車のぶっつけを阻止しようとした警官が両方の山車の間に挟まって犠牲になる事故があり、毎年大なり小なりけが人が出る。
もちろん当局はその危険を十分承知しており、事前に欠く山車組の責任者を招んで、厳しく注意し、誓約させる。
しかし、ひとたび祭が始まれば。そのような約束は何処吹く風、華やかなぶっつけが展開する。
だいたい、市民は喧嘩好きで、この夜ともなると、観客にまで喧嘩を売ってくる。向こうは血気盛んの若者大勢だから、言いがかりをつけられたら、平身低頭引き下がるのが懸命である。とにかく物騒な祭ではある。
上町と、本町は、花山車から提燈山車に変えるときは事前に勾欄をはずしている。
昭和四十一年、「寶路町」な山車は塗リ換えを行ったが、この機会より勾欄を全部取り外すようになった地山とよばれる下臺には大幕が付けられる。大幕は昼と夜とは交換される本座人形(祭神)を「でく」「やまのかんさま」などという。前者は「木偶」後者は「山車の神様」のことである。
□山車文献資料
伏木の曵山のはなし 正和勝之助

◆01083 二上築山神事
富山県高岡市二上町二上
射水神社
□汎論
 二上山の南麓にある射水神社の春祭には、境内に櫓を組んで柱を立て、四隅に四天王である持国天、増長天、廣目天、多聞天(毘沙門天)の佛教護法の尊像の名を書いたのぼりをたてて神の降臨を迎える。櫓は仮の固定坐神である。降ると舟にのって本殿にはいられる。したがって櫓は車輪がないから厳密には山車ではないが、山車発生の過程を知る貴重な形態をのこしている。
 境内では二〇名あまりの若集らの長い隊列と向き合った青年が、棒、槍、鉾を持ちけてわたり合う神事が行われるが、その動き、かたちがじつに躍動的で美しい。この説明を知らないが、スサノオノミコトが龍と闘うすがたを想像させる。もっと詳しく知りたいが、いまだにその機会が得られないのは遺憾である。どのような保存措置が取られているかもしらないが、長く伝えてほしいものである。郷土藝能に関心のある方はぜひ一見をおすすめしたい。

●16203 射水市(旧新湊市)
◆00041 新湊曳山祭
□社名 八幡神社
□所在地
富山県射水市(旧新湊市)放生津町
八幡神社
□祭は十月上旬。
曳山十三臺を曳く。
□山車
・古新町
標識は鈷鈴
本座人形(王様)は三国志の諸葛孔明
創建は慶安三年(一六五〇)
元禄十年(一六九七)に再建された記録がある。
・四十物町
標識打出の小槌
本座人形(王様)は菊慈童
創建は、享和三年(一八〇三)
・長徳寺
標識は平家の揚葉蝶
本座人形(王様)は神武天皇
創建は、文化十一年(一八一四)
再建は明治十年(一八七七)の記録がある。
・中町
本座人形は壽老人と松鶴
創建は元禄五年(一六九二)
・奈呉町
標識は錫杖
本座人形(王様)は恵比須
創建は、元禄五年(一六九二)
・東町
標識は諌鼓鶏
本座人形(王様)は高砂の尉(じょう)と姥
創建は享保三年(一七一八)
再建は天明三年(一七八三)に記録がある。
・荒屋町
標識は千枚分銅
本座人形(王様)は大黒天
創建は明和七年(一七七〇)
再建は昭和二七年(一九五二)年。
・紺屋町
標識は振鼓
本座人形(王様)は日本武尊
創建は寛政元年(一七八九)
再建は明治一三年(一八八〇)
・三日曽根
標識は和銅開珎
本座人形(王様)は布袋。
創建は享保六年(一七二一)。
再出来昭和二四年(一九四九)
・立町
標識は壽
本座人形(王様)は孔子
創建は享保六年(一七二一)
再建は享和二年(一八〇二)の記録がある。
・法土寺町
標識は軍配
本座人形(王様)は三国志の関羽と張飛
創建は天明五年(一七八五)。
・南立町
標識は五三の桐
本座人形(王様)は、住吉大明神。
創建は明治一四年(一八八一)。
・新町
標識は法螺貝
本座人形(王様)は神功皇后と竹内宿禰。
創建正徳五年(一七一五)
再出来安永三年(一七七四)
□汎論
新湊に山車が建造された歴史は古い。古新町の山車(曳山)の建造は慶安三年(一六五〇)の記録がある。
 新湊放生津祭の山車 一本柱の山車
 新湊放生津祭には、高岡の御車山に形態の似た山車が曳かれる。一本柱の「だし」は標識といい、本坐人形を「王様」という。古新町の山車建造期は慶安三年(一六五〇)とあり、元禄十年(一六九七)に再建された記録がある。山車建造記録としてはたいへん古い。上部が柱を中心にして回転する構造の山車がある。夜は四角に組んだ枠に多数の堤燈をつけて曳く。
・古新町 鈷鈴
・四十物町 打出の小槌
・長徳寺 平家の揚羽蝶
・中町
・奈呉町 錫杖
・東町 諌鼓鶏
・荒屋町 千枚分銅
・紺屋町 振鼓
・三日曽根 古銭の和銅開珎
・立町 壽(文字)
・法土寺町 軍配
・南立町 五三の桐
・新町 法螺貝

◆20035 放生津八幡宮築山神事
富山県射水市(旧新湊市)
放生津八幡宮
□汎論
 築山は、放生津八幡宮祭の行われる十月二日である。起源は定かではないが、享保六年(一七二一)の東八幡宮記録などにより、江戸時代初期から行なわれていたことが判る。
 九月三十日夕方、海より神霊を境内の松樹に迎え、本祭日にはさらに築山へと迎える、築山の、構造は、幅七・二メートル、奧行三・六メートル、高さ二・七メートルの雛壇様の組立式で、最上段の中央正面に主神である姥神(オンババという)を祀る。姥神は鬼女の面をつけ金欄の打掛けを着、白髪をふり乱し御幣をつけた竹竿を持って直立している。 下段の四隅には仏門守護の四天王(多聞・持国・増長・広目)を配する。
姥神や四天王がつける古面は、室町・桃山時代作だという。
 築山は、高岡市二上山の射水神社に行われ、石動山(石川県)の伊須流伎比古神社にもあったが途絶えた。
主神の形態から、放生津の「足なし」、二上山の「ロなし」と俗称されてきた。
放生津八幡宮の築山は、昭和五十七年一月に国の民俗資料県指定文化戝に指定される
 放生津八幡宮で行われる築山神事の起源は定かではないが、諸研究から江戸時代の初めには行われていたと考察されている。筆者はもっと時代が遡るものと推定する。高岡市の射水神社の築山神事と併察すべきものだろう。九月下旬に境内に西向きに櫓が組まれる。櫓は間口四間(七・二メートル)奥行二間(三・六メートル)高さはおよそ一・五間の雛段状。中心に柱を立て「オンババ」とよぶ姥神を祀り、四方の隅に四天王の文字を書いた幟が立てられる。四天王は東は持国天南は増長天、西は廣目天、北は多聞天(毘沙門天)で、高岡市の射水神社とおなじ形態である。姥神は白髪を振り乱した鬼女の姿をしている。由緒は不明だが、北海道江差の姥神祭はかつて鰊漁(にしんりょう)で栄えた北海で大漁をもたらす神として大変敬われてきた。放生津八幡宮は新湊とよばれた湊町で、おなじ富山県の氷見港とおなじようにむかしは漁師町だった。漁業に従事したひとびとによってまつられたものであろうか。
 放生津の姥神は足がなく、高岡射水神社の姥神は口がないといい、「放生津の足なし」、「射水のロなし」と俗称された。
 放生津八幡宮の築山は神が下る柱は「やま」とよばれる。神を迎える固定神坐で、車輪がないので厳密には山車ではないが、その祖形と考えられる貴重な遺構である。

◆00924 海老江加茂神社曵山祭
富山県射水市(旧新湊市)海老江
海老江加茂社
□祭は九月下旬。
曳山三臺を曳く。
□山車(曳山)
・西町
天保十五年(一八四四)創建。だしは打出の小槌。本座人形(王様)は恵比寿。前人形は昭和五十四年。名古屋の七代目玉屋庄兵衛の「唐子と猿」の人形がある。
明治三十四年改修。
・中町
天保十五年(一八四四)創建。だしは振鼓?。本座人形(王様)は猩々。前人形は唐子が懸垂と廻転をする。
大正八年改修。
・東町
安政四年(一八五七)製作。だしは軍配。本座人形(王様)は三番叟。前人形は唐子遊び。
□問い合わせ
射水市観光振興課
電話 0766-82-1958

●16204 魚津市
◆00024 魚津浦たてもん神事
□社名 諏訪神社
□所在地
富山県魚津市諏訪町
□祭は八月上旬。
□汎論
高い柱に横桁をかけこれに堤燈をさげて町を練る。車輪はなく臺枠は橇状である。
臺枠のうえにおよそ二〇メートルもある柱を立てこれに数箇所の桁をかけ、提燈八〇ほどをさげる。
富山湾に面した諏訪神社に宮入りするとここで柱を勢いよく回転させる。張綱を持った青年たちははじめは周囲を走ってまわっているが、次第に回転が速くなってくるととても追いつけず、張綱にぶらさがって空を飛ぶ。
魚津浦たてもん神事は、豊漁祈願の祭だという。
蜃気楼、ほたるいかなどでよく知られる魚津は、スター・ウオズの祭ポスターが貼られている。ありそホールに実物約二分の一の模型が展示されている。
□参考
・「たてもん」
高岡市伏木湊にはかってひじょうに大きな人形を作って曳いた記録がある、民家の屋根よりもはるかに大きく、日本海を航行する舟からも見えたという。このおおきな人形を「たてもん」とよんでいたという。
つぎの柱立て神事等に関連性が考えられる。
・三重間伊勢市、真の柱。
・山口県岩国市。
・鳥取県智頭町。
・京都府丹後、峰山町。
・京都府日吉町、柱松。
・京都府美山町、柱松。
・京都市雲ヶ畑。
・京都市上賀茂神社。
・京都市御蔭神社祭。
・石川県、中島町、お熊甲祭。
・福島県、二本松提灯祭。
・福井県、灘庄。
・秋田県、秋田市竿頭。
・愛媛県、八幡浜。
・長野県内各地、御柱・
・各地七夕。
・各地門松ととんど。
□問い合わせ
魚津市商工観光課
電話0765-23-1025

◆06111 ありそホール
富山県魚津市

●16205 氷見市
◆00021 氷見祭
□社名 富山県氷見市
□所在地
富山県氷見市南組
日吉神社
□汎論
 氷見日吉神社の祭に曳かれる山車は高岡市の御車山と基本形は同じである。江戸時代高岡の御車山が高い人気を集めたことから、高岡では各地に中止するように申し入れをしたが、一向に聞き入れられなかった。高岡の町民は怒ったがなかでも與次兵衛なるものはその反対を唱える先鋒で、諍いにまで発展し、ついに役所に他所の類似御車山の曳行を止めさせる訴訟にまで発展した。
 この取調べは魚津の役所で行われたようで、役所まで山車を曳いて行って検分を受けた。この結果曳行停止(えいこうちょうじ)の沙汰を受けた山車が多数出て以後曳くことができなくなった。
 城端町の山車は高岡の御車山とは形態の違うものだが、役所の命令で小矢部川縁まで曳いて行き、ここで解体して舟に積み替えて魚津の湊まで運んだ、お調べの結果放免となったが城端の人たちはもううんざりしてしまい、山車を浜まではこんで積み上げて火をつけたという話が伝わる。高岡の町では與次兵衛の功績を讃え御車山祭を「與次兵衛祭」とよぶようになった。一方、高岡の仕打ちで山車を失った町組では憤懣やるかたなく、長い期間にわたって確執があとをひくことになったという。

◆06112 ひみ獅子舞ミュージアム
富山県氷見市

●16206 滑川市
◆00357 滑川のネブタ流し
富山県滑川市
□祭は七月下旬。
ネブタ流しが行われる。
□山車(ネブタ)
□汎論
滑川市中川原に9基の松明があつめられ、火を燈して海に流す。
近年東北のネブタが日本各地でおこなわれるようになり、北海道をはじめ鹿児島県の知覧町、長崎県の壱岐、群馬県の尾島町、神奈川県藤沢市の湘南ネブタなど次第に定着しつつある。
滑川市で行われているネブタは土地の民俗行事として行われてきたもの。
柱、燈火、語義など東北地方に伝播していった山車・ネブタの沿革を知る上でも貴重な行事である。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
滑川のネブタ流しは、東北地方で広く行われているネブタが南下したものか? あるいは日本海を北上した祭か? 見極めがたいが、筆者は北上したものと考察している。

●16207 黒部市

●16208 礪波市
◆00165 出町曳山子供歌舞伎
□社名 神明社
□所在地 富山県砺波市出町
□祭は四月中旬。
□山車(曳山)。
山車(曳山)は三臺あるが、今は交代で一臺づつを曳き子供歌舞伎を演じる。
・東町
・中町
・西町
□汎論
浄瑠璃と歌舞伎曳山
当地の歌舞伎曳山を支えてきたものは、「一口浄瑠璃知らぬは男の恥」といわれるほどの浄瑠璃熱だったという。言い伝えによると、水島勝満寺の住職が京都に遊学したさい習い覚え、天保年間(一八三〇ー一八四三)頃に人々に教えたのに始まるといい、門下に中村屋知平、苗加屋三四郎、善政等があった。なかでも中村屋知平は天稟の美声だったといい、京都本願寺へ参詣した折、大阪の本舞臺に立ち、北陸にこのような名人がいたとは!と浪華の人々を驚かせたという。
「出町子供歌舞伎曳山」は、富山県指定無形民俗文化財に指定され、砺波子供歌舞伎曳山振興会により維持されている。
これまで上演された藝題は、「鎌倉三代記三浦別れの段」、「絵本太功記十段目尼ヶ崎の段」、「奥州安達ヶ原三段目袖萩祭文の段」、「御所桜堀川夜討三段目弁慶上使の段」などである。出町神明宮でお祓いお受け、鳥居前で上演したあと、各町内を回り、辻々で上演する。
子供歌舞伎上演に欠かせないのが「後見」の存在で、舞臺で役者の陰(脇)に控えて、演技の補助する。小道具の受け渡し、衣裳のひきぬき、鬘の操作などの世話をする重要な役である。この後見の良悪は、直ちに演技に響くので、演者と同等以上の実力のものが勤める。「ツケ」
演技にめりはりをつけ、見切りを様式的に誇張する。演技の各所で「ツケ木」で「ツケ板」を打つ。打つ人を「ツケ打ち」といい、砺波の子供歌舞伎では後見がつとめる。
□問い合わせ
砺波市商工観光課
電話0763-33-1111

◆01280 礪波夜高
富山県礪波市

●16209 小矢部市
◆00051 小矢部祭
□社名 愛宕神社
□所在地 富山県小矢部市石動(いするぎ)
□祭は四月下旬。
曳山十一臺を曳く。
□山車
・北上野町
本座人形(祭神) 関羽    
ダシ 打手の小槌 加賀、小出作馬永康の作。
鏡板彫刻は聖賢と童子、井波町の北村七左衛門貞国。漆塗装は寛政一二年庚申暦、越、城端、一白斎とある。
北上野町山車背面の彫刻は、井波の彫刻師北村七左衛門貞国の作。寛政十二年(一八〇〇)、塗りを城端の塗師小原治五右衛門宗好に依頼している。
宗好は八代治五衛門一白斎で、宝暦四年二七五四)に城端で生まれ、父親から漆器の技術を承け、また、同所の天文学者西村大仲に就いて蘭学を学び、長崎に赴いてオランダ語を習得した。その間、密陀僧を使って白漆をつくることを習って帰国し、当時まで不可能と考えられた白漆による蒔絵の作品をつくって斯界を驚かした。また一白は俳諧を好み、同志とともに小矢郎南の本行寺に奉納した。俳句額の中に、作句をのせているのみならず、額縁のオランダ語は一白の書いたものである。
本座人形(祭神)は、昭和四一年修理前の写に、
 文政十一年子五月六日 能州所口(現石川県七尾市) 近江屋勘四郎 印
 今石動 五社屋治良右衛門様 仝 惣町内衆中様
とあり、
されに、鏡板の彫刻の裏銘に、井波北村七左衛門貞国。また、同彫刻中の唐人の持っている羽根うちわの裏面に、寛政十二年庚申暦 越 城端一白斎 小童のせり合う雪の玉瓢
竹葉亭 の書き込みがある。
・南上野町
本座人形(祭神) 猩々    
ダシ 錨
鏡板彫刻は竹林七賢人
舞臺下彫刻は、波に龍と波に亀で、彫刻師 能登所口 九藤屋又四郎 弘化二年とある。山車部材保存箱書に文化十五年とある。
・下糸岡町
本座人形(祭神) 大黒天
ダシ 揚羽蝶
鏡板の彫刻は聖賢像。井波町の番匠屋の作。昭和一〇年ごろという。
舞臺下は虎、十二支。大島の弟子で、城端町のの谷久の名がある。
唐子は、町内、上新田の小西の作で、昭和二五年ごろ。
・紺屋町
本座人形(祭神) 恵比寿
ダシ 桐葉三枚に分銅
鏡板彫刻は黄石公と張良。舞臺下は 唐人と水波 井波町の大島五雲父子。
創建は天保五年。補修弘化二年に補修がおこなわれている。
・今町
本座人形(祭神) 布袋
ダシ 千枚分銅
彫刻 鏡板 聖賢五人。舞臺下は唐子。
あやつり人形がある。
大正九年一〇月、昭和三年四月に補修が行われている。
・柳町
本座人形(祭神) 壽老人
ダシ 笹龍胆(ささりんどう)
鏡板彫刻は聖賢を彫り、舞臺下は唐人、水波んと亀
基枠(框)より上部は、文政一一年所口の近江屋勘四郎。
漆塗装は、昭和三年の施工。
・ 御坊町
本座人形(祭神) 人形はなく、鼓と笛を神格化し前に鳥居を置く
ダシ 千枚分銅
彫刻 鏡板 尉と姥 鼓と笛。舞臺下 七福神の作者は、井波町の横山作大郎。新田町 小西の名がある。
宝暦二年城端大工町にて建造 文政二年基枠(框)を欅材に交換
明治三年 轅棒取替。同、二十五年車輪新調、同四十四年勾欄出来 の記録がある。
昭和三から四年にかけて塗装が行われている。
・博労町
本座人形(祭神) 住吉明神
ダシ 神子鈴
彫刻 唐美人と従者
祭神新調 天保一二年一二月
衣裳 明治二年
・上新田町
本座人形(祭神) 弁財天
ダシ 千成瓢箪 芭蕉葉
明治五年 町内 室谷惣左衛門京都に注文の上寄附
彫刻 鏡板 竹に虎、唐人
舞臺下 仙人と童子
明治三三年 上新田の工匠浅野政次郎により補修、
昭和六年 金具 設計 県工業試験場寺田技師。
彫金は高岡市金屋町の彫金師 石動新町の岡村美久が補修を加える。
・中新田町
本座人形(祭神) 應神天皇と武内宿禰
ダシ 唐冠
彫刻 鏡板 素蓋嗚尊の大蛇退治
舞臺 桐に鳳凰 亀に波 竹に虎 唐子と獅子
文久三年三月 井波町 大嶋作兵衛作
浦島天郎 明治二四年四月 井波町 野村清大郎作
・下新田町
本座人形(祭神) 毘沙門天  
ダシ 大鼓に鷄
彫刻 鏡板 中国の聖賢?五人と龍
舞臺下 水波と龍
・柳町
 柳町の山車の例を子文献に見ると、
一、壱本 錆山   わくより上 木地出来
  代銀 壱貫弐百目等金弐匁  相定
   内 百 目  先達詰取
   又 弐百目  只今請取
    都合 参百目  為ニ手附・請取
  右一通相違無御座候 以上
とある。
□汎論
小矢部祭は、古くから石動(いするぎ)の曳山祭で知られる。
 旧石動の愛宕神社の春例祭で、藩政時代は三月二三日から二五日まで行なわれていたが、新暦になってから四月二三日から二五日までとなった。
藩政時代は、町民が相当派手な祭をしたらしく、奉行所はたびたび質素に行なうようお触れが出ている。
四月二三日の午前、神霊が御輿によって町内を渡御し、午後、馬場に仮設の御旅屋に安置、つづいて祭典が執行される。二五日の晩まで町民の参拝が続き、二六日未明に本社へ還御になるのが例となっている。
 春祭の神事に曳山車が出る。二十三日の午前中、山車を持つ町では、町内の青年によって山車蔵から引き出された山車を組み立て、午後、神霊が御旅屋へ移られたころ御旅屋前まで運び、祓か済むと引き戻って、その日は町内を曳き回す、これを町内曳きという。
二十四日は午前中から全町を曳くのであるが、山車はそれぞれ思い思いに回るので、道幅の狭い所では引きちがいの際、どちらか、かさがる必要がおきる。こんな時、曳子の間で時にはロ論もおこり、酒の酔いも手伝って、以前は喧嘩もあり、山車をぶつけあったりして騒ぎが大きくなったが、近年、金をかけて山車を奇麗にしてから騒ぎも見られなくなった。山車には花山車と歌舞伎山車がある。
一本柱山車
・北上野町 打出の小槌
・南上野町 錨
・下糸岡町 揚羽蝶
・紺屋町 桐葉三枚に分銅
・今町 千枚分銅
・柳町 笹龍胆(ささりんどう)
・御坊町 千枚分銅
・博労町 神子鈴
・上新田町 芭蕉葉
・中新田町 唐冠
・下新田町 諌鼓鳥  
・柳町
(順不同)
□汎論
 小矢部市は北陸道(ほくろくどう)の源平合戦で名高い倶梨伽羅峠を東に下ったところにあり、石動(いするぎ)の地名でよく知られていたが、現在は小矢部市である。古くから京都、加賀の文化がはいり、京都の六齋念佛の願人踊りがおこなわれている。倶梨伽羅とは、不動明王が右手にもつ法劔のみを信仰の対象としたもの。劔に龍が巻きつく。
 山車は、高岡市の御車山の影響を強く受けている。真木にとりつけられるしるしは「ダシ」とよんでいる。
・花山車
 花山車は一一臺あり、構造は不定だが、外形はよく似ている。
木製車輪の上に、欅材の枠を載せ、それに勾欄を設けて祭神を祀り、その背後に鏡板という衡立をたてる。祭神の傍らに約三メートルの木柱を立て、三〇本あまりの竹に紙製の菊花をつけて笠形に下げ、柱の上には鉾留の「ダシ」を取り付ける。
 斗拱上の梁や長押は二重のものもあり、三重のものもあり、その間には彫刻して極彩色を施し、梁や長押などには金具をうったものもある。彫刻でもっとも主力が注がれているのは鏡板の背面で、どの山車も立派な作である。
基枠(框)の外側には種々の模様を染めたり、刺繍を施した幔幕を吊し、框の下には山車を引く二本の轅棒(梶棒といわない)がある。
框の中に笛・大鼓・鉦の囃方がかはいり、拍子木の合図で掛け声をかけて曳き出す。この時、車のキシム音が 祭の気分をかき立てる。曳子の服装は、町々でそろいの模様や紋をつけた法被に股引・白足袋・捻鉢巻である。近年は略装で曳く者もいる。
 花山車は南上野・北上野・下糸岡・今町・柳町・紺屋町・御坊町・博労町・上新田・中新田・下新田の十一カ町にある。これらの山車は、部品を収納する箱書の年号や、彫刻の裏銘などからみて、大体は宝暦年間からつくられ、文化・文政ごろに揃った。
また製作の年代は同一でなく、町によって前後し、構造もまちまちであるが、いずれもその時代の地方の名工に依頼したり、木組などは熟練した大工に注文している。
木組は能登・加賀の大工、彫刻は井波の彫刻師、塗りは城端の塗師、金具は高岡の彫金師に注文している。
 町内山車中で、もっとも吉いといわれているのは御坊町の山車である。宝暦一二年(一七六二)からあった千枚分銅の山車。同町に残っている記録によると、寛延二年(一七四九)御坊町の某か白馬山の麓にゆくと謡の声が聞えた。近寄ってみると、樹上の藤に翁の面と、鼓・笛が懸つていた。これは珍しいと持ち帰ったが、手許に置くと気掛りになるので、藩主へ献上の手続きをとつた。これに対して藩では、模作を代わりに渡した。その後、御坊町で山車をつくったとき、これを鏡板にはめ込んだ。今もある奴と笛、かそれであるという。この山車だけは祭神がなく、鼓と笛とを神格化し、前面に鳥居を立てている。 宝暦・明和・安永のころ、高岡の御車山を摸して城端・放生津・今石動その他で山車がつくられた。安永三年(一七七四)四月、高岡町から高岡町奉行宛に、近頃、城端・今石動・放生津で高岡の御車山を模倣して作ったのは不届千万である。高岡の大八車は前田利長公から拝領した由緒のある御車山であるのに、猥りに模倣することは僣越の沙汰であるから早急に禁止されたいと訴え出た。町奉行は早急に今石動町奉行と砺波射水郡奉行にその旨を伝えて禁止方を要望した。各町では、いずれも「山車を作るな」との御触を受けていない。
 各自の町で作つたとて別に高岡から干渉を受ける必要かないとなかなか聞き入れなかった。高岡町ではこれを心外として、奉行所へ大勢が殺到して狼 籍を働く始末で、奉行所も困りぬき、藩庁に実状を訴え善処方を願い出た。
 藩でも再三詮議した結果、その願意を聴き届け、盗賊改方を兼ねた魚津町奉行寺西弾正に裁きを命じた。奉行は町々の代表者や乱暴を働いたものを牢に禁足して、魚津で訊問を始めた。そして各町の山車を魚津まで取りよせて吟味した。城端の文書によると、城端では津沢まで人夫で運び、津沢から伏木までは小矢部川を川舟で、伏木から魚津まで海上を舟で運んだ。吟味、か終わって返還されたが、入費がかさむので魚津で捨て、また新しい山車を作つたとある。今石動でも、おそらくこうして魚津まで運んだものと思われる。寺西奉行の裁きの結果、城端の祭りは古いから前々のごとく山車を引いてもよいが、放生津と今石動とは禁じられた。しかし放生津は神保安芸守時代から免許せられたなどと理由を申し立てて応じなかった。そのうち放生津の秋祭になった。放生津では何とかして山車に板をうちつけて今年限り曳かせてほしいと願い出た。高岡奉行所では地元の意見をきくと、それなら仕方がないと承知した。いよいよ当日になると、高岡から津幡屋与四兵衛と、若者放名が放生津に出掛けて約束どおり実行するかどうかを見にいった。とこやか約束と違って板が打ちつけてない。口論の末、高岡からいった若者、か怒って隠し持った鳶口で放生津の者に打ちかかって大喧嘩になった。かねて不祥亊か起こるかもしれないと魚津奉行所から取り締まりに来ていた役人に捕えられて牢へ入れられた。一度禁止された今石動の山車も文化・文政のころには修理を加えられているところからみると、禁止されたのも永い期間ではなかったようである。
・歌舞伎山車 
歌舞伎山車は花山車のごとく多くの彫刻などか施してない。四輪の車の上に框をのせ、その上に唐風の屋形(御殿)がかつくられ、演技を始める時には屋形の前柱をはずし、床の舞台を左右に引き出して広くする。屋形の左右の奧の出入口に幕をたれ、中は三味線方と浄瑠璃方、また役者の控室になつている。
出し物は、
絵本大功記、尼ケ崎の段
鎌倉三代記
菅原伝習手習鑑、寺子屋の段
御所桜堀河夜討、弁慶上使之段
 など、浄瑠璃の一段、か演じられる。しかし近年は浄瑠璃を語る者も三味線をひく者もだんだんいなくなって来たので、歌舞伎の代わりに舞踊を代用することもあるが、歌舞伎ほどの人気はなく、今日では特別の年でなくては曳かぬようになったのは遺憾である。
歌舞伎山車を持つ町は、越前町・鍛冶町・新町・川原町の四カ町と、福町、神明宮の祭礼に曳く福町二丁目・三丁目である。
・屋臺
山車が出るときには屋臺も出る。屋臺の保有町は、
・細工町
・福町一丁目
・川岸町
である。以前は越前町にもあったといわれる。
屋臺というのは庵屋臺(いおりやたい)で、屋根は入母屋風の二層の数寄屋づくりで、軒にはちょうちんを吊し、前の轅棒の上に舞台をつくり、舞踊を演じる。数寄屋の中には笛・太鼓・三味線などの囃方が入って屋台とともに歩く。囃方は町内の若連中で、祭が近づくと合奏練習を始める。
以上、十敷臺の山車と屋臺が、祭礼の両日、全町を練るので、近郷近在から老若男女が町に集まって賑わいをきわめる。御旅屋に近い越前町・中町・飯田町・鍛冶町・細工町あたりは、各地から露店商人が集まり、二四日の午後は身動きもできないほどの混雑である。
現在は、二三日から二五日までは愛宕神社のほか、日吉神社・比売神社・熊野神社・神明宮も春の例祭で町の総祭りになっている。
以前はそれぞれが異なった日に行なっていたが、南上野町・北上野町の如きは山車を出す関係もあり、春祭を二度することになるので、終戦後、春祭は愛宕神社の祭日と同一日にすることになった。しかし秋祭は、従前どおり氏子別に行なっている。
□文献資料
「小矢部市史} 上卷
□問い合わせ
小矢部市商工観光課
電話 0766-67-1760

◆00020 津沢夜高
富山県小矢部市津沢

◆20925 願念坊踊
富山県小矢部市

●16301 大沢野町
◆00925 願念坊祭
富山県富山市(旧大沢野町)大沢野
□祭は四月上旬。
□汎論
 念仏踊など願人にちなむ信仰は神式と褶合する例が各地に見られ、空也上人の六齋念仏等が各地に広がったあしどりとなっている。同県石動(小矢部市)にもある。祭には高砂山とよぶ黒塗り二層型の曳山を曳く。
 
願念坊踊り唄

   前囃子
   ハ ヨイヤサノサー コラショ
   一、飛騨とナー(ヨイヤサノサー コラショ)
   越中を取りもちなさる(ヨヤノショ)
   清き流れの ヤンレ 神通川(ヨイヤショ)
   囃子
   アリャドッコイ コリャアリャ ヤツトコオコオ
   セェーノオオオ ヨーイイヤナ アリャ
   アリャ リヤンノオ コーレワイノサー 
   サアサ ナンデ エモセーエエ

   二、梅とナー(ヨイヤサノサーコラショ)
   桜を両手に持てば(ヨイヤショ)
   どれが梅やら ヤンレ 桜やら(ヨイヤショ)
   囃子

   三、俺がナー(ヨイヤサノサー コラショ)
   お国でめでたい踊り(ヨイヤショ)
   衣がえしの ヤンレ 願念坊(ヨイヤショ)
   囃子

   四、宿場のナー
   おなごの長袖よりも
   ほんに長いは ヤンレ 大久保よ

   五、馬はナー
   六歳七ツはさかり
   人は二十一 ヤンレ 二はさかり

   六、俺がナー
   思いを願いに込めて
   四ツ竹鳴らして ヤンレ 踊りぬく

   七、街道ナー
   上り下りは黄金の波よ
   米のなる木で ヤンレ お辞儀する

   八、伊勢はナー
   津でもつ 津は伊勢でもつ
   尾張名古屋は ヤンレ 城でもつ

   九、伊勢のナー
   桑名で この子が出来た
   御名は伊勢松 ヤンレ 桑の助

   十、お伊勢参りは みの着て参れ
   七里奥山 ヤンレ 霧が降る

   十一、さまよぅ 願念 衣装が違う
   すみの衣に ヤンレ すみの袈裟

□問い合わせ
高砂山願念坊祭り保存会
電話 076-468-0561

●16302 大山町
◆00483 大山
富山県富山市(旧大山町)

●16321 舟橋村

●16322 上市町
◆00247 上市神明神社祭
□社名 神明神社
□所在地 富山県中新川郡上市町飯坂新
□山車
・神明町
幕末の文久三年(一八六三)の建造。
上市町民族(民俗?)文化財の指定を受けている。
・熊野町
江戸中期以降の建造といわれるが詳細不明。一説に文政年間には曳かれたという。
上市町民族(民俗?)文化財の指定を受けている。
□汎論
富山市の東にあるある町。
曳山が二臺ある。山車は両町いずれも組立式単層、四輪内車。屋根は唐破風前半を藝坐にとり、かつて子供歌舞伎が行われた。縁に朱漆のかけられた勾欄が引き回し、正面を開口する。基本構造は滋賀県の長濱の影響を受けているが後陣に亭は設けられていない。
曳行は不定期である。

●16323 立山町
◆32292 立山雄山神社
□社名 立山雄山神社
□所在地 富山県中新川郡立山町
□祭神
イザナギノカミ 伊邪那岐神
タテヤマダイゴンゲンオヤマノカミ 立山大権現雄山神
本地
 アメノタヂカラオノカミ 阿弥陀如来天手力雄神
 刀尾天神剣岳神
 不動明王
□汎論
 風の盆・越中八尾のおわらでは、

  越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ
 と唄われる。

 雄山神社は、立山山頂神社 峰本社、山麓の芦峅寺(あしくらじ)、前立社壇岩峅寺(いわくらじ)の三社を合わせ雄山神社という。
 平安期に完成した『梁塵秘抄』には「験仏の尊きは先づ東の立山」とあり、中央からも篤く敬われていた。
このことは反面で権力抗争に巻き込まれることとなって、富山城主だった佐々成政が織田信長にしたがわなかったため、芦峅寺は悉く焼き払われ、諸堂、古記録のほとんどが失われた。
平安期以後、本尊を不動明王とし、祭神を立山権現としてたて、長いあいだ寺院として続いてきた。かつて芦峅衆徒は立山曼荼羅を携えて全国の檀那国を廻ったのであったが、明治期の廃仏毀釈により神社となった。越中一ノ宮である。

●16341 宇奈月町
◆00316 宇奈月町
富山県宇奈月町浦山
休止

●16342 入善町
◆00603 入善神社祭
富山県入善町
休止

●16343 朝日町

●16361 八尾町
◆00025 越中八尾の春祭
□社名 八幡社
□所在地 富山県富山市(旧八尾町)
□祭は五月上旬。
山車を曳く。
□山車
・今町
本坐人形は天神。京都で作られた。作者に又右衛の名がある。
創建は安永四年(一七七五)。
慶応二年(一八六八)に、曳山が漆塗りされた。塗師は神通屋権右衛門、山田屋太四郎。大彫刻を追加、岩倉理八の作という。
慶応三年(一八六七)から明治七年にかけて八枚彫、小脇彫の彫刻を補作。井波町番匠屋与八郎、谷屋橘蔵の作。彫刻彩色は城端治五右衛門。
・上新町
本坐人形は富山藩前田家の雛人形を拝領したといわれる。
大仏師治郎平衛の作。
山車の創建は、寛保元年(一七四一)。
安永七年(一七七八)、それまで露臺式だった山車に屋根を設ける形に改造。
彫刻は、天保七年(一八三六)、井波の番匠屋田村七蔵の作。彫刻彩色は永信斎藤原良得。明治七年(一八七四)諏訪町へ譲渡、井波の番匠屋十三代与八郎によりあたらしく三国志の関羽雲長が作られた。
八枚彫彫刻は天保十四年(一八四三)、田村七蔵の弟、金剛寺屋岩倉理八の作。彫刻彩色は永信斎藤原良得。
小脇彫は嘉永二年(一八四九)、井波の岩倉理八の作。
・西町
本坐人形は治五右衛門の作で、県西にあるもと城端(じょうはな)西上町の曳山人形(城端)だったという。
山車の創建は延享三年(一七四六)で、花山を曳いたのが最初だという。三途の川の渡し守、奪衣婆が乗っていたと伝えられる。明和八年(一七七一)の改修で、屋根を八ツ棟となった。
彫刻は勾欄の牡丹は井波の番匠屋田村与八郎の作。彫刻彩色は湯本椿谷。
八枚彫刻は番匠屋田村与八郎の作。彫刻彩色は成田五郎。
その他の彫刻には、番匠屋田村与八郎、富山の木村立嶽(周常)、冨士原椿斉(三平)の補作。
屋根の鯱は井波の奥村佐七の作。彫刻彩色は地元の平井兵次郎。
金具は新湊放生津の冨士井勇蔵のほか、高岡の宮野友右衛門、同、五十里仁七郎、祖川仁作らの名があがっている。
・諏訪町
本坐人形は神功皇后と武内宿禰。
山車の創建は、明治二年(一八六九)。当初は踊子山だったという。
彫刻を上新町より譲り受けた。
明治十五年(一八三二)に、上新町の翠田彦七郎(山中屋貴山)が本坐人形を寄進したという。
彫刻は井波の番匠屋田村与八郎の作。彫刻彩色はやはり井波の南部吉蔵。
金具類は大正初期に高岡の金刺治助、山内吉平、中村松次郎により作られた。
山車曳行以前に獅子舞を出していたが、鏡町に譲譲渡された。
・下新町
本坐人形は大黒天。大正一〇年、井波の渓久平の作。それまでは楠公親子櫻井の別れだった。
山車の創建は明治十六年(一八八三)。工匠は四代冨士原三平。
大彫刻、八枚彫刻は井波の奥村佐七。彩色は西町の冨士原椿斉。小脇彫も奥村佐七であるが、彫刻彩色は地元下新町の松村松次郎による。
神武東征図は井波の松永正行。彫刻彩色は高岡の本保兵太郎。
大正三年(一九一四)に町内を流れる井田川が氾濫し、山車部材が流出したが、富山湾を漂流しているのが回収されて八尾に届けられた。
・東町
本坐人形は延享二年(一七四五)に生糸商人の松居屋八兵衛が、京都の人形師小兵衛作の深草少将と小野小町が寄進された。
山車の創建は寛保二年(一七四二)。
山車の建造は安永元年(一七七二)とあるが先に人形があるので創建は延享二年以前と考えられる。
彫刻は井波の番匠屋九代田村貞国(北村七左衛門)。
勾欄上の猿は、昭和九年、地元の横江嘉純の作。
大正六年、小脇彫、組物の彫刻を浅井広信が加彩している。
漆塗は文化年間、井波塗師屋吉蔵ほか、文久年間に吉邑太平の手がはいる。
金具は文政時代高岡長八に加え、明治期には高岡の祖川仁作、金刺治助が補作している。
□汎論
 坂の町、越中八尾は「風の盆」で有名である。
 八尾の「つらつらつばき」は花道や茶道の関係者にはよく知られる。越中国衙がおかれたことがある。
 あまり知られっていないが、古くは飛騨に通じる街道筋であった。朝鮮半島から能登を目指した渡来人は富山県高岡市の氷見湊で陸に上がり、越中八尾を経て、大長谷、白木カ峰、楢峠を越えて飛騨二ツ家屋にくだった。楢は平城(奈良)、白木は新羅で、朝鮮半島に通じる古道であった。飛騨に降ったちかくには泉鏡花の「高野聖」でもよく知られる月ヶ瀬、天生の地で、大和法隆寺の飛鳥佛金堂釈迦三尊像の作者である鞍作鳥利(くらつくりのとり)の出身地とされる。雪が深いこの地は道路の損傷が激しく、いまでもほとんど通れない。富山は売薬でもよく知られる薬品の生産地で、富山藩主だった前田益齋はみずから白木カ峰に足を運んで採薬をしたと伝えられせり科の「エキサイゼリ」に名前を残している。
 越中八尾の町は江戸時代には富山藩の陰の台所といわれ、藩の経済を裏から支えていた。その長い文化の歴史が「越中おわら」に織り込まれている。
 秋の風の盆は名高いが、春には立派な山車が曳かれる。坂の街で曳行はたいへんだが土地の人たちは一向に苦にしないようである。
 越中八尾の山車は早い時期から曳かれたことが記録からうかがわれる。二層式で、全体が城端、新湊の山車に似ている。山車彫刻は一貫して井波の彫刻師が手がけており、この傾向は飛騨市の古川祭の山車にもみっれる。漆塗も城端の職人の手が入り、本坐人形も城端から譲られているものがある。
城端の漆藝は優秀で「白漆」の技法は特筆すべきだろう。金具は高岡の伝統が受け伝えられており、中にはそれまで内車だったものを安定性のよい外車に改造し高岡の御車山風に回収した例もみられる。
 いずれも見事な工藝品というべきであるが今日の姿を伝えるのは背後に豊かだった八尾の財力がある。

◆00627 八尾曵山展示場
富山県八尾町

◆31590 八尾の風の盆
富山県八尾町

●16362 婦中町
◆01281 婦中つくりもの祭
富山県婦中町

◆01646 婦中鵜坂祭
富山県婦中町

◆31739 明日の稚児舞楽
富山県婦中町

●16363 山田村

●16364 細入村

●16381 小杉町
◆00367 小杉黒河夜高
富山県小杉町黒河

●16382 大門町
◆00216 大門曳山祭
□社名 大門神社
□所在地 富山県射水市(旧大門町)大門
□汎論
 射水市(旧大門町)、神社前の旧街道を四臺の山車を曳く。基本形は高岡御車山に準ずるが、山車を引く「ギイイ」という軋み音が静かな街に響く、時にはお囃子の音すらかすむ。これは車輪と軸受けのあいだに割り木をさしこんで発する共振音なのである。山車によって高低があり、独特の風情があって北陸の各地で行われている。以前石川県の旧美川町のおかえり祭を見たときは、この割り木を強く打ち込みすぎて車輪を損ない曳けない組が出た。
 山車の曳き子らは祭がすんでも一週間くらいはこの軋み音が消えないと笑う。
 ・枇杷首
・西町
・中町
・田町

●16383 下村
◆01711 下村加茂神社稚児舞楽
富山県下村

●16384 大島町

●16401 城端町
◆0008 城端祭
富山県城端町

◆00376 城端曵山会館
富山県城端町

●16402 平村

●16403 上平村

●16404 利賀村

●16405 庄川町
◆00591 庄川夜高
富山県庄川町

●16406 井波町
◆00099 井波祭
富山県井波町

●16407 井口村

●16408 福野町
◆00218 福野夜高
富山県福野町

◆01655 福野町庵屋臺
富山県福野町

●16421 福光町
◆00288 福光祭
富山県福光町

●16422 福岡町
◆02752 福岡つくりもん祭
富山県高岡市(旧婦中町)婦中町
□祭は九月下旬。
□汎論
蔬菜や草花を素材にして「つくりもん」をつくり、収穫を感謝する祭。起源は江戸時代中期ころといい長い歴史がある。協賛して「菅笠音頭」の街ながしがある。

 ◆日本山車論
目次
 ◆左甚五郎傳
左甚五郎傳
 ◆斐太ノ工
斐太ノ工
 ◆谷口與鹿
谷口與鹿
 ◆論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆阿波國
◆安房國
◆安藝國
◆伊賀國
◆隠岐國
◆越後國
 ◆古代祭祀と神南備山
古代祭祀と神南備山
 ◆玉依姫  様