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日本の山車 日本の山車
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標題の写真説明
2014-07-01
  北海道
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  表題の写真説明
 ボックスのタイトル : 近畿
 題名 : ◆大阪府

日本の山車 大阪府 

大阪府総論

●27102 大阪市都島区

●27103 大阪市福島区

●27103 大阪市中央区
◆大阪歴史博物館

●27104 大阪市此花区

●27106 大阪市西区

●27107 大阪市港区

●27108 大阪市大正区

●27109 大阪市天王寺区

●27111 大阪市浪速区

●27113 大阪市西淀川区
◆野里住吉神社夏祭

●27115 大阪市東成区
◆00517 比賣許曽神社夏祭
□社名 比賣許曽神社(ひめこそじんじゃ)
□所在地 大阪市天王寺区東成区東小橋
□祭神
シタテルヒメノミコト 下照比売命
ハヤスサノオノミコト 速素盞嗚命
アジスキタカヒコネノミコト 味耜高彦根命
オオコバセノミコト 大小橋命
オオササギノミコト 大鷦鷯命
タチバナトヨヒノミコト 橘豊日命
□祭は七月中下旬。
だんじりを曳く。
□汎論
比賣許曽神社は延喜式神名帳に名神大社として記載される古社で、当初の鎮座地は大阪市南区内高津宮内社だったとある。
アメノヒボコ(天日槍)は古事記に記載があり、一説では新羅の王子だったといい、新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関りがあるともいう。アメノヒボコは妻を迎え、幸せに暮らしていたがある日、奢りが昂じたアメノヒボコが妻を罵り、妻は親の国に帰ると言って小舟に乗り難波の津の比賣許曽神社に逃げる。妻の名をアカルヒメ(阿加流比売神)という。また祭神のシタテルヒメノミコト(下照比売命)をアメノヒボコの妻の名とする説もあるが、シタテルヒメノミコトは大国主の娘である。
『摂津国風土記』には比売許曽の神が比売島に来たとあり、大阪市西淀川区姫島に鎮座する姫島神社を比売許曽神社とする説がある。

●27116 大阪市生野区
◆02129 猪飼野御幸森天神宮祭
□社名 御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)
□所在地 大阪市生野区桃谷三丁目
□祭神
ニントクテンノウ 仁徳天皇
スクナヒコナノミコト 少彦名命
オシサカヒコノミコト 忍坂彦命
□祭は一〇月中旬。
□汎論
 仁徳天皇の事蹟を伝える地で、天皇崩御の後の四〇六年に、天皇を奉祀する社として建立された。その後も皇室からの御幸祀があり、御幸宮と称したともいう。御幸森天神宮の祀られる地は、古くから猪飼野(いかいの)とよばれていた。御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、いまは考えられないがかっては猪甘津(いかいのつ)と呼ぶ港があった地であり、日本書紀には猪甘部と呼ぶ官職があって官人がつとめていたとある。百済野といい朝鮮百済からの渡来人が多く居住した地である。百済(くだら)の地はいまも現存し、大阪市生野区の勝山通りに面している。
「天神宮」といえば、菅原道真を連想するが、当社には菅公は祀られていない。古社の中にはほかにも天神宮、天神社とよばれる社があるがその創祀は、菅原道真が存在した時期をはるかに遡るものがある。天神宮を即、天満神社とみなすのには疑問がある。

●27117 大阪市旭区

●27118 大阪市鶴見区

●27118 大阪市城東区

●27118 大阪市鶴見区

●27119 大阪市阿倍野区

●27120 大阪市住吉区
◆住吉祭

●27121 大阪市東住吉区

●27122 大阪市西成区
◆20038 玉出神社の臺額
□社名 玉出神社
□所在地 大阪府大阪市西成区玉出
□汎論
 玉出神社の臺額 
 臺額(だいがく)がたてられる。昔は大阪市天王寺区神津宮にもたてられたというが、いまは行われていない。このほかにも数箇所あったという。
 大阪の古い国名は「津ノ國」のちに国名は二文字で表現されるようになって、「摂津」となった。現在の府県には一致しないところがあって、兵庫県の一部は攝津であった。
 大阪市西成区は、摂津國西成郡だったがこれも一致しない。
 西成郡には古くは多くの「臺額・だいがく」が存在した。豊中市には「だいがく」のでる神事があるが玉出の臺額とはまったく形態が異なる。
 「臺額」は現在「台額」と書かれることが多いが、「臺」と「台」は音がおなじではあるがまったく別物である。
 すこしそれるが山車の「屋臺」も「屋台」と書かれることが多いが、神事で曳く山車は「屋臺」であり、仕事帰りに一杯やる赤提灯の下がる暖簾の店が「屋台」だろう。
 祭に曳く屋臺を屋台と表示するのはやめたいものである。
 一本の柱に桁を架け、これに堤燈をさげる、臺額は、帆船の帆柱を連想させる。海の彼方、東海の海にあるという蓬莱島からの福神を迎える「たてもん」だったのだろうか。
 富山県魚津市では夏に「魚津浦たてもん神事」が行われる。
 民俗学、和歌の研究で知られる折口信夫博士は、臺額に相当注目していたようで、折口信夫全集にその研究が紹介されている。
「台額音頭」がレコード化されて唄われている。

●27123 大阪市淀川区

●27125 大阪市住之江区

●27126 大阪市平野区

●27127 大阪市北区
◆天神祭
大阪市北区

●27128 大阪市中央区

●27201 堺市
◆02230 百舌鳥八幡宮祭
□社名 百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)
□所在地 大阪府堺市百舌鳥赤畑町五丁
□祭神
オウジンテンノウ 應神天皇 
配祀
ジングウコウゴウ 神功皇后
チュウアイテンノウ 仲哀天皇
スミヨシオオカミ 住吉大神
カスガオオカミ 春日大神
境内社
摂社 稲荷神社 倉稻魂命
□祭は八月中旬。
□山車(蒲団太鼓)
・百舌鳥赤畑町
・百舌鳥本町
・百舌鳥西之町
・百舌鳥梅町
・百舌鳥梅北町
・百舌鳥陵南町
・中百舌鳥町
・土師町
□汎論
 百舌鳥八幡宮の創祀にはジングウコウゴウの強い意志があったといわれ、百舌鳥(もず)には「万代(もず)」の栄の願がこめられているといわれる。古来皇室との結びつきが大きいが、平安時代には四十八ケ寺、社家三百六十人、神領寺領八百町歩を有する大社で、山城石清水八幡宮所蔵の古文書には、後白河天皇期の保元三年(一一五八)には石清水八幡宮の別宮と記載があるという。
 滋賀県長浜市祝町の勝福寺にある梵鐘には、応安六年の銘と、「夫当社者…八幡垂迹之瑞籬他国号銭州地名万代」とあって、銭州(和泉)、万代八幡宮は百舌鳥八幡宮のことであり、 長浜市にある応安六年(一三七三)在銘梵鐘は、長浜市の指定文化財となっているが、もと百舌鳥八幡宮の所有だったと伝えられる。
 祭は堺月見祭で知られ、蒲団太鼓が出る。

◆02066 深井地区だんじり祭
□社名 野々宮神社
□所在地 大阪府堺市深井清水町
□祭神
スサノオノミコト 素盞鳴尊
ホムスビノカミ 火産霊神
スガワラミチザネコウ 菅原道真公。
□祭は一〇月上旬。
山車(だんじり)を曳く。
□山車(だんじり)
深井東四町
・深井水池町
・深井畑山町
・深井澤町
・深井東町
深井西四町
・深井中町
・中町西
・深井北町
・深井清水町
(順不同)
□汎論

◆03209 萩原神社祭
□社名 萩原神社
□所在地 堺市日置荘原寺町
□祭神
スガワラミチザネ 菅原道真
アメノホヒノミコト 天穂日命
他に七神
□祭は一〇月上旬ー中旬。
山車(だんじり)を曳く。
□山車(だんじり、蒲団太鼓)
・北町
・高松
・丈六
・原寺
・西町東部
・西町西部
・初芝
・東初芝
(順不同)
□汎論
 萩原神社の創祀は不明。社伝によると創祀は天徳三年(九六〇)に菅原道真が祀られたとされている。明治期の合祀令で近隣の神社が合祀されている。祭には氏子からだんじり、蒲団太鼓がでる。蒲団太鼓は担ぐものと曳くものが混在する。蒲団は淡路島各地で見られるような赤一色で上方にひろげて積み上げられる。
 蒲団太鼓は環瀬戸内海文化ともいえるが、大阪府の南部は堺市から貝塚、八尾市弓削、東大阪市枚岡神社、京都府木津川から三重県名張市まで東に伸びている。
 祭に山車を曳こうとするとき、だんじりにするか、蒲団太鼓にするか疑問がわくが、これはたとえ同じ氏子ではあっても氏の出自が異なるからだろう。
 各地に、「ヒキ」と呼ばれる地名が存在し、日置、比企、蟇、蝦蟇、蝦蟇目(ひきめ)などの文字があてられている。新しい土地を拓くとき、企画や測量をおこなうとき一般に「センビキ」という言葉が使われる。古代の日置氏は境界を司った氏とされているが、その基本は各地の山頂にあったと推定され、利器として光の反射をつかい、用具に「銅鏡」がつかわれた可能性がある。
「萩」、「椿」などは漢字ではなく国字とされている。

◆02117 菱木神社祭
堺市菱木
菱木神社
□祭は一〇月。
山車(だんじり)を曳く。
□山車(だんじり)
・菱木白木
・菱木東
・菱木奥
・菱木南
・稲葉
・菱木山田
・北高尾
・野々井
休止
・太平寺
多治速比売神社の氏子
□汎論
 神社の創祀は不明。
 菱木神社は新刊をおかず、氏子らによって奉齋されてきた。全国各地に見られる「とうにん」に相当する「宮座」の組織がある。

◆03588 石津神社祭
□社名 石津神社
□所在地 大阪府堺市堺区石津町
□祭神
ヤエコトシロヌシノカミ 八重事代主神
オオナムチノカミ 大己貴神
アメノホヒノカミ 天穂日神
境内社
宿禰神社 
祭神 野見宿禰
天満宮
祭神 菅原道真
合祀
明治時代に六所神社が合祀され、同社の祭神が祀られる。
誉田別神、伊邪那美神、白山比賣神、水分神、高野神、高□神(□は、おかみ、雨かんむりの下に龍)を祀る。
□祭一〇月上旬。
□山車(だんじり、および蒲団太鼓)
布団太鼓
・浜石
地車
・上石津
・神石市之町
□汎論
 石津神社は、延喜式神名帳に記載される古社。石津太神社も延喜式に記載される古社とされていて、論者となっている。各地には延喜式に記載されているものの、該当する神社がなく、現存するいずれか神社を当該神社ではないかと論議される。石津神社も論社とされるのだが、石津神社と石津太神社は、地域の発展により神社を二分割されているので、不明な神社・論社ではなく、いずれも延喜式記載神社といえよう。

◆02074 蜂田神社祭
□社名 蜂田神社
□所在地 大阪府堺市八田寺町
□祭神
アメノコヤネノミコト 天兒屋根命
配祀
スガワラミチザネ 菅原道眞
かなやまひこノミコト 金山比古命
イザナミノモコト 伊弉冉尊
□山車(だんじり)
・八田寺
・八田北町
・八田南之町
・堀上
・堀上東
・毛穴(けな)
・平岡
家原寺
□汎論
 蜂田神社は延喜式神名帳、大鳥郡二十四座の内の一座として記載される古社。創祀は不明。伝承では西約一丁(一〇〇メートル弱)に鎮座しており、遷宮があったという。
祭神であるアメノコヤネノミコト(天兒屋根命)は居々登魂命の子で、古事記ではアマテラスオオミカミ(天照大神)の岩戸隠れのとき、岩戸の前で祝詞を述べ、天照大神が岩戸を少し開けたときフトタマノミコト(太玉命)とともに鏡を差し出したとある。中臣連(のちの藤原氏)の祖とされる。妃はアメノミツたまテルヒメノミコト(天美津玉照比売命)。蜂田氏の祖神ともされ、当社に「鈴の宮」の別名があるのは、蜂田連が毎年一年十二箇月にあてた土鈴十二個を作り、春のはじめに神前に供えて、鈴音でその年の吉凶を占ったという古事によるという。
 東大阪市の古社枚岡神社の祭神はアメノコヤネモミコトであり、奈良春日大社の祭神に迎えられている。京都市山科区の中臣神社、同。左京区の吉田神社にも祀られ、大鳥神社に祀られる。
 蜂田神社は、古来、大鳥大社、枚岡神社と深いつながりがあったと考えられる。

◆01919 陶荒田神社祭
□社名 陶荒田神社
□所在地 大阪府堺市上之
□祭神
タカタマノミコト 高魂命
ツルギネノミコト 劔根命
ヤエコトシロヌシノミコト 八重事代主命
スガワラミチザネコウ 菅原道真公
摂社
山田神社 イクタマヨリヒメノミコト
戎殿 ヤエコトシロヌシノミコト 八重事代主命
弁天社 イチキシマヒメノミコト 市杵嶋姫命
太田神社 オオタタネコノミコト 大直禰子命
玉ノ緒神社 アメノミナカヌシノミコト 天御中主命
□祭は一〇月中旬。
□山車
・上之
・辻之
・田園
・陶器北
・うぐいす谷
・西中
・福中
・隠
・山本
・岩室
岩室はもとの氏子が行政上堺市と大阪狭山市に二分されたことがあって、祭には陶荒田神社と大阪狭山市の三都神社の両方に宮入りしている。
□汎論
陶荒田神社
神社の杜を「太田の森」という。オオタタネコノミコト(大直禰子命、また大田田根子命とも書く)にちなんでいる。オオタタネコは大和桜井三輪に祀られるオオモノヌシノミコト(大物主命)の息女で、母はスエツミミノミコト(陶津耳)の娘で、イクタマヨリヒメノミコト(活玉依姫命)である。『古事記』では大物主神の四世孫とする。つまり、オオタタネコノミコト(大直禰子命)は母方に地縁の陶器(すえき)に奉仕していたと考えられる。アメノミナカヌシノミコト(天御中主命)が祀られているのも注目を惹く。
 祭神はオオモノヌシノミコト以下、古代海神氏、出雲の神が多く見られる。皇室の神が祀られる以前の祭神が見られ、神武天皇の東征と、茅渟の海(大阪湾)でいたりながら、上陸できなかった理由が垣間見える。三輪氏と賀茂氏(鴨、加茂)の密接な関係と、後に皇室が賀茂氏の支援を受けるにいたる複雑な覇権のなぞが秘められている。
 古代陶器の制作にかかわった氏に、土師、忌部氏(伊部)があり和泉から河内にかけて土師ノ里、陶器などがある。神社のある上之、その東の見野山は、古代の陶器生産の遺跡が多く、また八尾市の上の島町には「御野県主神社」が鎮座する。「ミノ」とよばれている。
 蛇足になるが、忌部氏につながる岡山県の伊部(いんべ)も名陶の産地としてよく知られる。愛知県の猿投(さなげ)から瀬戸市、岐阜県の多治見市、土岐市、瑞浪にかけては、いわゆる「瀬戸物」の名産地で、桃山時代には数々の名品を産みだし、志野焼き、織部は、茶道の関係者に好まれる。岐阜県は、旧国名が美濃と飛騨であるが。美濃はさらに東濃と西濃にわけられる。この「ミノ」ということばももとは陶器にかかわりがありそうである。

◆00242 日部神社祭
□社名 日部神社(くさべじんじゃ)
□所在地 大阪府堺市草部
□祭神
クサカベヒコザオウ 日下部彦坐王
ジンムテンノウ 神武天皇
ミチノオミノミコト 道臣命
合祀
スサノオノミコト 素盞嗚尊
イザナミノミコト 伊弉冉尊
スガワラミチザネ 菅原道真
□祭は、一〇月上旬。
□山車(だんじり)
・石橋
・上
・原田
・馬場
・太井
・萬崎
(順不同)
□汎論
 日部神社は延喜式神名帳に記載される古社。祭神クサカベヒコザオオキミ(日下部彦坐王)は日下部氏を祀る。クサカベヒコザオオキミは日下部氏の祖神。全国にある日下部氏の惣社(総社)とも言える由緒ある神社。
 創祀は不明だが、もとは輪の内にある古墳のうえに祀られており、明治末期に現地の寺山に遷座となった。古事記伝に神武天皇東征のおり上陸した日下の蓼津の地とされる。
 筆者按ずるに、当時の大阪は生駒山の麓まで波が打ち寄せる茅渟の海で枚岡市の六萬寺、野崎村などは海岸汀線だったのではと推定する、のちに大和川は現在の八尾市弓削のあたりでおおきく北に蛇行し、大東市のあたりで寝屋川と合流。住道(すみのどう)、徳庵鴻池新田を経て南西に流れ、さらに石山(現在の大阪城)あたりで淀川に合流。大阪城から南にかけて上本町、高津、椎寺町、夕陽丘から天王寺、茶臼山にいたる広義の上町大地は横に長い島状で、大阪埠頭のある天保山あたりはわずかに浅い土地だったかもしれないと想像する。菅原道真が九州に左遷となったころ、淀川を舟でくだり、途中叔母を訪ねたさいには七軒家のあたりで下船、その先は渺々たる海がひろがっていた。住吉大社も創祀時は海に面して建てられていた。
 大阪市から奈良に向かう近鉄線駅に日下があり、孔舎衛坂駅(くさえざかえき)がある。大和三輪に一大勢力を誇った出雲系大物氏はナガスネヒコ(長髄彦)、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)をして神武天皇勢力と戦い、ジンムテンノウを退けた地とされる。古事記伝に言う「くさか(くさか)」はこの東大阪市の日下かもしれない。
 ジンムテンノウは、日向の国を出立したあと、豊後にしばらくとどまり、さらみ吉備の国で相当の日時をかけて兵を養い、粮秣を蓄えて畿内に向かっている。地元勢力に押されて難波、和泉の地では上陸を果たしえず、南下して紀州熊野に上陸、吉備の久米部氏の力をかりう兔陀にいたっているが、なかでも功績の大きかったのが、ミチオミノミコト(道臣命)である。
祭神のクサカベヒコザオウ(日下部彦坐王)は古代出雲氏の一氏族と考えられ、ミチオミノミコトと日下部氏とは同一視できないとおもうがいかがだろう。

◆02569 堺開口神社八朔祭
□社名 開口神社(あぐちじんじゃ)
□所在地 大阪府堺市甲斐町東二丁
□祭神
シオツチノオジノカミ 塩土老翁神
スサノオノミコト 素盞鳴神
イクタマノカミ 生国魂神
境内社
・豊竹稲荷神社
・白髭神社
・松風神社
・金比羅神社
・塞神社(庚申さん)
・竈神社(荒神さん)
・厳島神社(弁天さん)
・舳松神社
・北辰神社
・楠本神社
・三宅八幡神社
・少彦名神社
・恵比須神社(戎さん)
・大国魂神社(大黒さん)
・神明神社
・豊受神社
・熊野神社
・薬師社
・舟玉神社
・菅原神社
・産霊神社
・兜神社
□祭は九月上旬ー中旬。
山車(蒲団太鼓)が出る。
□山車(蒲団太鼓)
大甲浜
・芦原浜
・新在家浜
・大南戸川
蒲団太鼓(以下は現存しない)
・中宿浜
・東大甲
・紺屋浜
・大浜
・中戸川
・南半町
・建築仲
・あなごや仲
・魚小売仲
・北浜
□汎論
 開口神社は延喜式神名帳大鳥郡二十四座の一社と記載される古社。堺旧市街地では唯一の神社である。堺の氏神で別名を「大寺さん」という。
 創祀は天平十八年(七四六)に僧行基が現地に念佛寺を建立し、大同元年(八〇六)には、空海が宝塔を建立した。当社が大寺さんと呼ばれるのは創祀時の姿を伝えるものである。 元禄三年(一六九〇)に土佐光起の描いた「大寺縁起絵巻」が伝えられる。
 開口神社は、延喜式に記載される古社。堺市でもとりわけ創祀が最も古いといわれる神社。祭神のシオツチオジナノカミ(塩土老翁神)は、製塩にかかわる神で、宮城県の塩竈に祀られるのはよく知られる。しかし塩竈大社は延喜式が編まれたときすでに存在していたにかかわらず記載されていない。おなじような例は、こんぴらさんで知られる金刀比羅神宮もおなじである。これは、皇室中心の神社体系を整備したとき、天皇家と距離を置いた神社があったということにほかならない。その最大理由は当時存在しながら記載に洩れた神社とは、「海神氏の祖神」、「古代出雲の祖神」を祭る神社で禮風を尊び、皇室に従わなかった神社と解されれる。塩竈大社は当社からの分祀であろうと推定する。
 甲斐は、山梨県の旧国名だが、氏族の甲斐氏の出自は越前国、遠江国、尾張国などとする説があるが不明である。
 開口神社は、現在「あぐちじんじゃ」とよまれ、「おおてらさん」とよびならわされている。しかし、もと甲斐の入り口に鎮座する神社であり、甲斐ノ口にある神社だったと考えられる。和泉、河内地方には「甲斐」の名称が散見されるが、古代甲斐氏の出自はこの堺市かもしれない。
 当社の祭は「八朔祭」である。旧暦八月一日に行われてきた祭だが現在は九月の上旬ころに行われる。蒲団太鼓がでる。蒲団太鼓は環瀬戸内文化で、愛媛から淡路島にかけて多く出るが、当社の祭に出る蒲団太鼓の蒲団はすべて赤で、五段に積み上げられている。淡路島各地に見られる姿と同じである。以前は多くの太鼓臺が出たようであるが現在は四組が伝統を伝えている。南大阪では「だんじり」が多く曳かれるが当社の祭にはだんじりが曳かれたことはないらしい。

◆02106 方違神社祭
□社名 方違神社
□所在地 大阪府堺市北三国ヶ丘町二丁
□祭神
ホウタガエサチオオカミ 方違幸大神
テンシンチギ 天神地祇
スサノオノミコト 素盞嗚尊
スミヨシオオカミ 住吉大神
ジングウコウゴウ 神功皇后
□祭は九月中旬。
□山車(蒲団太鼓)
・花田口仲(北庄)
・榎
往時は蒲団太鼓であったが、いまは淡路方太鼓臺がでる。
・瓦町仲
現存しない。
□汎論
 釈迦の八十二相はよく知られるが、人に人相、手に手相、印鑑には印相、お墓に墓相・土地には地相など諸事の相に吉凶がをあてられる。最近は風水が広く流布している。
 初詣には恵方の神社を選んでお参りし、家内安全、五穀豊穣、豊漁、子孫繁栄など福運を願う。
 終戦後、爆撃により焼け野原となった地は復興に立ち上がった。被害を受けなかった地に繁栄場所が移るのは当然で大阪でも千林商店街などはたいへんな賑わいとなった。
 しかし一方、大阪駅前など焼け跡に露天が立ち並び人々がひしめいた。
 何もなくなった地のはずなのに、その後の繁栄が約束されていた。いわゆる、発展する土地は地相がよいのである。しかし、未来永劫つづくものではない。世界を見ても五千年の輝かしい歴史あるある地はいまはほとんど砂漠となっている、これが人間の繁栄の跡である。
 「鬼門」とよばれ忌む方向がある。家、村、町、市など鬼門はいずれにもある。方違神社は「ほうちがいさん」ともいい、方違え、方災除けの神として知られる。
 社伝によると、應神天皇期代に天神地祇ほかの三座を祀り、方違大依羅神と名付け、この社を「方違宮」と称したとある。 社地が旧は摂津、河内、和泉の境にあたる三国山(現三国ヶ丘)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、つまり方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。転勤、結婚などによる転宅や海外旅行など災難除けを祈願する参拝者が多い。
 出立地から出かけていく先の方位のお祓いをしてもらって、いただいた浄めの砂を持ち帰って家の四方に撒くとご利益があるといわれる。
 まじめに努力しているのに、災厄がかさなることはよくある、いくら努力しても災いは去らない、つまり人生の進むべき災禍が蟠(わだかま)り、方角を誤っているのであり、前に広がる災いを除かなければ福運は授からない。心当たりのある方は一度参詣してみたらいかがだろう。

◆02231 華表神社祭
□社名 華表神社(かひょうじんじゃ)
□所在地
大阪府堺市宮本町
□祭神
ホムタワケノミコト 譽田別命
スサノオノミコト 素盞嗚命
ウカノミタマノミコト 宇賀之御魂命(稲荷神)
摂社
玉屋神社、太神社、瀧神社
□祭は一〇月上旬。
□山車(太鼓臺)
・奥本太鼓会
□汎論
 華表は、日本では「鳥居」の意味で用いられ、江戸時代の古文書などにも華表と書いて鳥居を指す表記が見られる。漢字表記もとは中国起源であろうが、中国では鳥居ではない。華表は標柱として、台座、蟠龍柱、露盤上部の蹲獸像で構成される禮が多く。宮殿や陵墓へ続く参道の入り口両側に立てられる。神道柱、石望柱などの名称もある。天安門広場にある華表は著名である。
 インドのトラナ、朝鮮の紅箭門も広義の華表とする考えがある。インドの仏教やヒンズー教の寺院に立てられている門のことで、サンスクリットので「塔門」を意味するといわれる。緻密な彫刻をした柱に桁、架木がかけられ基本構造は鳥居に酷似する。サンチのトラナが有名である。
 朝鮮の「ホンジョンムン(紅箭門・こうぜんもん)」は、魂が通る門とされ、キョンギド(京畿道)クリシ(九里市)の朝鮮初代王であるテジョ(太祖)の王陵であるコノルルン(健元陵)にたつ紅箭門もよく似ている。
 「鳥や蝶は一生を終えた人が姿を変えたもの」と考える思想は古代東洋には広く見られるものであり、ネパールの山村には、屋根の上に鳥の止まる架け木をかけた家が見られる。日本でも以前は。屋根の上に組んだ千木に架け木をかけた家は各地に見られた。京都府の丹波地方には稀に見られる。寺社建築や山車にも、「鳥衾(とりふすま)」のつけられた建築物が見られる。鳥が訪ねてくる(死者が帰る)ときとまる架け木がの様式が痕跡状にのこるものといえようか。
 泉州のだんじりにも「鳥衾」のある地車が見られる。
 日本の鳥居の起源は不明とされるが、仏教の渡来とおなじように東洋には広く敷衍し、古代に日本にわたってきた思想だと考える。
 社記によると、スサノオノミコト(素盞嗚命)、ウカノミタマノミコト(宇賀之御魂命・稲荷神)を祀ったのは神功皇后の凱旋後とするが考えにくい。おそらく、古代出雲の神であるスサノオノミコト、ウカノミタマノミコトが祀られた神社がすでにあり、應神天皇をその後に祀ったものであろう。社号の由来は不明である。

●27202 岸和田市
◆00043 岸和田だんじり祭
□社名 岸城神社(きしきじんじゃ)
□所在地 大阪府岸和田市岸城町
□祭神
スサノオノミコト 素盞鳴命
ホムダワケノミコト 品陀別命(應神天皇)
□祭は九月中旬。
だんじりを曳く。
□山車(だんじり)
・宮本町
・本町
・中町
・北町
・堺町
・南町
・大工町
・中之浜町
・紙屋町
・大手町
・中北町
・大北町
・五軒屋町
・上町
・南上町
・魚屋町
休止。
(順不同)
□汎論
 岸城神社の創祀の詳細は不明ウである。南北朝期に京都八坂神社より分祀を受けてスサノオノミコトを祀り牛頭天王社と証したと伝える。
 小出秀政が岸和田に封じられたが、妻は豊臣秀吉の母である大政所の妹で、つまり秀政は豊臣秀吉の叔父である。
 秀政は岸和田に築城し、京都岩清水八幡宮の分祀を受けて牛頭天王社の社地に八幡宮を祀ることになった。岸城神社の社名は明治維新以後の命名である。
 岸城神社の祭には全国にもその名が知られる「岸和田だんじり祭」が行われる。
 岸和田だんじり祭は江戸時代中期の元禄年間に始まったといわれ、当時は練り物、河内方面にいまも継承される「にわか」がおこなわれ、歌舞伎狂言が興行されたこともあるとも伝えられる。だんじりを曳き、観客を熱狂させる名物の「コナカラ坂のやりまわし」が行われるようになったのは明治中期以後のことである。
 だんじりの起源はその名称とともに不明な点が多いが、四国地方の沿岸部に遺存する「せき舟」にさかのぼるのではないかと推定する。太子町には陸引きの古い形式の「舟だんじり」が曳かれているのは貴重な例である。

◆00605 岸和田彌榮神社祭
□社名 彌榮神社(やえいじんじゃ)
□所在地 大阪府岸和田市八幡町
□祭神
スサノオノミコト 
□境内社
八幡神社 
ホムタワケノミコト 品陀別命
熊野神社
伊邪那美命(いざなみのみこと) 
オオクニヌシノミコト 大国主命 
コトシロヌシノミコト 事代主命
市杵島神社(弁財天)
サヨリヒメノミコト 狭依毘売命
白永神社
ハクナガノオオカミ 白永大神
□祭は、九月中旬。
□山車(だんじり・地車)
・春木宮本町
・春木南(春木北浜・春木南浜・春木泉)
・春木本町
・春木戎町
・春木中町
・春木大小路町
・春木大国町
・春木旭町
・春木宮川町
・春木若松町
・八幡町
・松風町
・磯上町
・大道町
(順不同) 
□汎論
 彌榮神社の創祀は不明。一説に、掃守氏(かもりし)の祖神であるフリタマノミコト(振魂命)を祀ったのを創祀と伝えるが、現在祭られる祭神の中にはその名が見えない。
現在の社地は海岸線から遠く離れているが、創祀時には海を見下ろせる場所だったという。

◆02064 積川神社祭
□社名 積川神社(つがわじんじゃ)
□所在地 大阪府岸和田市積川町
□祭神
イクイノカミ 生井神
サクイノカミ 栄井神
ツナガイノカミ 綱長井神
アスハノカミ 阿須波神
ハヒキノカミ 波比岐神
境内社
 天神社
 八坂社
 白髪社
 戎社
 
□祭は十月上旬
山車(地車)六臺を曳く

□山車(地車)
・積川(積川西)

天の岩戸、神功皇后の応神天皇を安産、素盞鳴尊の八岐大蛇退治。
小桜責め、逆櫓の争い、常盤母子の都落ち。
勧進帳安宅の関、弁慶の義経懲打の場、石橋山合戦。
富士の巻狩り、頼朝本陣褒賞の場、仁田四郎忠常の猪退治、狩場風景。
丹波大江山、酒呑童子の酒盛りの場、源頼光の木渡り、酒呑童子退治。
源頼政の鵺(ぬえ)退治、宇治川の先陣争い、鎮西八郎為朝の剛弓。
安芸の宮島の弁財天、巴御前、八幡太郎義家の奥州征伐。
灘波戦記。

・積川東(橋室)

天の岩戸、鷺池平九郎うわばみ退治、素盞鳴尊の八岐大蛇退治。
安宅の関の場。
富士の巻狩り。
源平盛衰記。
朝比奈三郎、富士川の合戦、今井兼平。
大坂夏の陣。
・包近町
楠公記
戦勝祈願、桜井の駅、後醍醐天皇、後醍醐天皇笠置落ち。
雲に梅鉢。
波に浦島太郎。
多聞丸誕生、多聞丸弓修業、多聞丸が林軍太を懲らしめる場。
畑六郎左衛門、高安三太郎兵衛の楠木加勢、高田傳二郎の勇戦。

・山直中町

天の岩戸、生田の森、箙(えびら)の梅は梶原源太景季、石川五右衛門香炉を盗む場、神武天皇東征。
兜あらため、忠臣蔵の刃傷松の廊下、村上喜剣内蔵助を足蹴にする場。
大江山、源頼光の木渡り、北陸街道、安宅の関の場。
富士の巻狩り、頼朝本陣、仁田四郎忠常の猪退治、富士の巻狩り。
巴御前、八幡太郎義家の安倍貞任を討つ場。
忠臣蔵。両国橋引揚げの場」、右は赤穂義士吉良邸討入り」、左は「清水一学の奮戦」。加藤清正の九州征伐、秀吉本陣佐久間の乱入、巴御前の奮戦。
大坂夏の陣。

・稲葉町東

鎌倉の鶴ケ岡八幡宮、新田義貞稲村ヶ崎、本能寺の変。
牛若丸と弁慶の五条橋の出会い、正行の吉野如意輪堂落首、石川五右衛門の伏見城の香炉を盗む場。
太平記。楠公子櫻井の駅の別れの場、湊川の合戦、四條畷の合戦。
太閤記。尾州桶狭間の戦い、江州姉川の戦い、遠州三方ヶ原の戦い。
忠臣蔵。両国橋の引揚げ、服部彦七の温情、吉良邸討入りの大石内蔵助と義士の雄姿、清水一学の吉良邸奮戦。
木曽義仲粟津の合戦、巴御前の勇姿、今井四郎の勇戦。
大坂夏の陣。

・稲葉町西
雲に菅原神社、梅鉢の紋。開運の御来光。
神話伝説。神武天皇東征、神功皇后の三韓制覇、天の岩戸、因幡の白兎。
関ヶ原合戦。
波、龍。
丹波大江山の酒呑童子征伐、勧進帳安宅の関の場。
太平記。楠公親子桜井の駅の別離、千早城籠城、楠公の藁人形の計略。
源平合戦。義経八艘跳び、鬼神に勝る巴御前、木曽義仲の最期。
忠臣蔵。両国橋の引揚げ服部彦七の温情、吉良邸に討入る大石内蔵助と義士、清水一学の奮戦。
桶狭間の合戦より今川義元の最期、加藤清正と新納武蔵守の血戦、秀吉の本陣に乱入する佐久間。
築城用材調達、尾張清洲城の修築、日吉丸の誕生。
関ヶ原の戦い、弁慶の堀川の夜討ち。
富士の巻狩り。

□汎論
積川神社は、和泉五社中の四の宮である。延喜式に記載される古社で、祭神はすべて土地神であり、あとから加えられた他の神は、境内社に祀られる。
積川の名称は近接して前に牛滝川、後ろに深山川の二つの川が重なることにちなむという。は熊野街道に面しており、本殿は三間社流造檜皮葺で、慶長七年に、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加え、現在もそのまま、桃山様式を曳く華麗な建築と、勾欄の彫刻の見事さは美の極致とされ、大正三年四月に特別保護国宝建造物に指定されている。社宝に重文指定の神像、淀君奉納の神輿、楠正儀寄進の石燈籠、古鏡、寛治四年に、白河上皇の熊野へ詣でるときに揮毫した社号額などがある。

◆02068 山直神社祭
□社名 山直神社
□所在地 大阪府岸和田市内畑町
□祭神
アマテラスオオミカミ 天照皇大神
アメノホヒノミコト 天穗日命
スサノオノミコト 速須佐之男命
ヒコソノヨロノミコト 彦曾乃世呂命
□合祀
事勝國勝長狹神
狹依比賣命
□摂社
神明神社
淡島神社
厳島神社
 佐依比賣命
菅原神社
稲荷神社
春日神社
天照皇大神社
熊野神社
真野神社
水分神
□祭は一〇月中旬。
□山車
内畑五地区
・内畑
・下出
・沢峰
休止
・西堂
休止
・辻堂
休止
・山口
休止
□汎論
 山直神社は延喜式神名帳に記載される古社。神社の創祀には諸説がある。社記では天穂日命の創祀とする。別に山直氏が祖神を祀ったともいう。神社の訓(よみ)は、「やまなお、やまたえ」とよばれたことがあり、いまは「やまだい」のようである。鳥居の社号は「山直太田総社」とある。
 社叢は天然記念物に指定され、鬱蒼としたみどりにおおわれて森厳な雰囲気につつまれる。

◆02081 矢代寸神社祭
□社名 矢代寸神社(やしろきじんじゃ)
□所在地 大阪府岸和田市八田町
□祭神
タケノウチスクネ 武内宿禰
ハタヤシロネ 波多八代宿禰
□合祀
タケミナカタノカミ 建御名方命
スサノオノミコト 素盞嗚命
スガワラミチザネ 菅原道眞
イチキシマヒメノミコト 市杵嶋比賣命
タケミカヅチノカミ 武甕槌命
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
修斉地区
・八田
・神須屋
・真上
旭、太田地区
・極楽寺
・流木
□汎論
 矢代寸神社は延喜式神名帳に記載される古社。秦氏が祖神を祭った神社と推定されるが詳細は不明。秦氏は古代海神氏の一氏族と推定され朝鮮半島からの渡来人と考えられる。長野県安曇野市の例をみてもわかるように、波田の地がある(現松本市)古代の安曇氏と行動をともにしている。秦氏を「秦・しん」とする説は採りがたい。
 ジングウコウゴウ・神功皇后と行動をともにした功臣、タケノウチノスクネ(竹内宿禰)も朝鮮からの渡来人とされる。大和賀茂氏の支族だろうか。
 おそらく創祀は、所在不明とされる邪馬台国が存在した時代以前と考えられる。

◆02080 夜疑神社祭
□社名 夜疑神社(やぎじんじゃ)
□所在地 大阪府岸和田市中井町
□祭神
フルタマノミコト 布留多摩命
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・中井
・吉井
・額(北額)
・額原(南額)
・荒木
・下池田
・箕土路
・西大路
・小松里
・大町
・池尻
(順不同)
□汎論
 夜疑神社(やぎじんじゃ)は、延喜式神名帳に記載される古社。難しい文字があてられているが「やぎ」の借字、奈良時代以前にこの地を収めていた「八木氏」が祖神を祀ったとされる。この「八木」もまた借字である。
 あまり一般的でない祭神を祀っているが、フルタマノミコトと海神氏のトヨタマヒメ(豊玉姫)とは姉妹で、フルタマノミコトは妹だとする。
 地元に九州からトヨタマヒメがフルタマノミコトを訪ねてくる伝説がある。岸和田の地が古代には海神氏と所縁ふかいことをうかがわせる。矢代寸神社(やしろぎじんじゃ)には秦氏との関係がみられる。また、岸和田を「ひのもとのくに」とよんだというのも興味を惹かれる。本稿では和泉地方は、終始古代出雲だったと推論しているが、紀元前一〇世紀くころまでさかのぼって、九州と和泉を結ぶ海路があったと思われる。
 婉曲だが、ジンムテンノウ(神武天皇)の上陸できなかった土地も、海神氏には何の障害もなく往き交いができたということで、朝鮮のアメノヒボコ天(天日槍神)のもとから逃げてきたアカルヒメノカミ(阿加流比売神)も支障なく大阪市西淀川あたりに上陸しいまは、比売許曾に祀られることも併せて考えるべきだろう。

◆02102 淡路神社祭
□社名 淡路神社(あわしまじんじゃ)
□所在地 大阪府岸和田市摩湯町
□祭神
菅原道真公
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・摩湯
□汎論
 淡路神社は延喜式神名帳に記載される古社。淡島神社は和歌山市加太に総本社の淡嶋神社があり、祭神は少彦名命とスクナヒコナ(少彦名命)とオオナムチノミコト(大己貴命)で、創祀は友ヶ島に祭られていた神社を遷座したという。
 岸和田市の淡路神社の創祀はあきらかでないが、祭神は菅原道真公である。菅原道真公は延喜式の編纂途中で完成前に九州左遷になっており、当社の祭神に祀られたのはおそらくのちのことであろう。
 天神さまは荒神で、今日と祇園祭には「霰天神山(あられてんじんやま)」、「油天神山(油天神山)」の二臺の「山(やま)」が曳かれる。俗に天気が荒れ模様のとき、落雷をおそれ「桑原、くわばら」というがこの「くわばら・桑原」の地が岸和田市の淡路神社の氏子地内にある。かつて桑原は菅公の領地だったことから、桑原には落雷がないため、他の地でもくわばらと唱えることで、地震のつぎに恐ろしい落雷の被害を避けようとしたものだと言い伝えられている。
 「あわしま」は、女性の信仰が厚い神で、婦人病治癒、安産、子授けに霊験ある神とされ各地に祀られてきた。江戸時代に淡路島の淡島願人が、淡島明神の厨子を背負い全国を行脚した。
 古代の「アワ氏」は、越前若狭(福井県)から、安発(あらち)の古関、淡海(あわうみ、おうみ)とよばれる琵琶湖、岐阜県年が県の県境にある安八(あんぱち)、淀川を下って大阪氏東淀川の淡路、大阪市の御堂筋にある淡路。淡路島から徳島県の阿波、千葉県房総の安房この「アワ」の名称は、大己貴命につながる古代出雲氏の有力な支配地であり、この「アワ」の線上に阿波の中臣氏、平群氏の名が浮かびあがってくる。平群の名称は奈良県、三重県、千葉県にある。おそらく我孫子氏(あびこ)にも縁があるのだろう。
 岸和田市の淡島神社には秘められた古代の謎がつぎつぎと回想されてくる。

●27203 豊中市

●27204 池田市
◆04269 布忍神社祭
□社名 布忍神社(ぬのせじんじゃ)
□所在地 大阪府松原市北新町二丁目
□祭神
ハヤスサノオノミコト 速須佐男之尊
ヤエコトシロヌシノミコト 八重事代主之尊
タケミカヅチノミコト 武甕槌雄之尊
摂社 
末広稲荷社
ウカノミタマノオオカミ 宇迦之御魂大神
□祭は十月中旬。  
□山車
山車(地車)一臺を曳く。
・更池
明治十四年の建造。
工匠は川村新吾。
彫刻は、西岡弥三郎。
□汎論
 布忍神社の創祀は不明。【布忍(ぬのせ)】の社号は、当社が古くは【布忍荘】に祀られていたことによると推定される。もとは北にある天見丘に祭られていたが遷座したと伝わる。丹北郡布忍荘は、『新撰姓氏録』に、「布忍首は中臣氏と先祖を同じくし竹内宿禰を遠祖とする」の意の記述が見える。
 明治以前は「祇園社」として牛頭天王を祭神としていたが、明治以降はスサノオノミコト(素盞嗚命、速須佐男之尊)となった。
 本殿は、大阪府の文化財に指定され、狩野派の見事な彩色画が描かれている。

●27205 吹田市

●27206 泉大津市
◆00234 大津神社祭
□社名 大津神社
□所在地 泉大津市若宮町
□祭神
オキナガタラシヒメノミコト 息長帯姫命(神功皇后)
ホムタワケノミコト 品陀別命(應神天皇)
スサノオノミコト 素戔嗚尊
アマテラスオオミカミ 天照大神
フナタマノカミ 船玉神
スガワラミチザネコウ 菅原道真公
□摂社
広良神社(もと若宮八幡神社の境内神社)
 ヒコイツセノミコト 彦五瀬命
事代主神社
 コトシロヌシノミコト 事代主神
 アマテラスオオミカミ 天照大神
 タケミカヅチノミコト 武甕槌命
 フツヌシノミコト 経津主命
 ウワツツオノミコト 表筒男命(もと事代主神社の境内社、住吉神社の祭神)
 ナカツツオノミコト 中筒男命
 ソコツツオノミコト 底筒男命
 オキナガタラシヒメノミコト 息長帯姫命
広田神社(もと事代主神社の境内神社)
 アメノコヤネノミコト 天兒屋根命
 ヒメオオカミ 比淘蜷_
 アマテラスオオミカミ 天照大神
粟神社
 アメノフトタマノミコト 天太玉命
□末社
稲荷社
 ウカノミタマノオオカミ 宇迦之御魂大神(稲荷神)
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・田中町
昭和六年の建造、工匠は植山宗一郎。
彫刻は三代目黒田正勝、吉岡義峰、森曲江、木下舜次郎他。
昭和六三年に修理
大屋根廻
懸魚は義経の八艘飛び。
車板は朱雀、猿、青龍
虹梁は大江山の酒呑童子を退治する四天王。
小屋根廻り
懸魚は鎮西八郎為朝。
車板は素盞鳴尊の八岐大蛇退治。
虹梁は青龍。
見送りは灘波戦記。
・出屋敷町
平成八年の再建、工匠は天野工務店(天野行雄)。
彫刻は木下彫刻工芸(木下賢治)、松並義孝。
見送りは、加藤清正虎退治、織田信長と今川義元の桶狭間の合戦。
・宮本町
昭和六三年の再建、工匠は大下工務店(大下孝治)。
彫刻は木下賢治、川原和夫、松本幸規。
平成一二年、大下工務店(大下孝治)により修理。
見送りは灘波戦記。
・西之町
平成元年の再建。工匠は池内工務店。
彫刻は木下賢治、十場裕次郎、筒井工房、岸田恭司、川原和夫等。
大屋根廻り
懸魚は素盞鳴尊の八岐大蛇退治。
車板は雲に青龍。
枡合は源平盛衰記より布引の滝の場。鶴岡八幡宮。
小屋根廻り
枡合は太平記より楠公親子桜井の駅の別れ、村上義光錦の御旗奪還。
腰廻り
縁縁は忠臣蔵より刃傷松の廊下、吉良邸討入り、清水一学との闘い、両国橋首尾引揚げ。見送りは灘波戦記。
・上市町
・元町
・上之町
・下之町
(順不同)
□汎論
 大津神社には、多くの神社、神々が祀られている。滋賀県の大津に対して、泉をつけて泉大津として混乱を避けてめいめいされたようである。しかし、古くは小津(おづ)とよばれていたという。社記に和泉国の国府の外港という意味とあり、「小津の泊」は、古くから良港として知られていた。しかし、神社の社号は「大津神社」であり、その社地は往古の小津の泊だったといわれる。
 ここで当社の摂社である広良神社の祭神、ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)について少し触れておこう。ヒコイツセノミコト(彦五瀬命)は、イツセノミコトともいい、父は
ウガヤフキアエズノミコト(鵜草葺不合命)と、母は海神氏(わだつみし)の娘である、タマヨリヒメノミコトのあいだに生まれた長男ということになっている。弟にはミケヌノミコト(稲飯命・御毛沼命)・イワレヒコノミコト(磐余彦尊・若御毛沼命)がいる。
イワレヒコノミコトは後の初代天皇である、ジンムテンノウ(神武天皇)である。
 つまり初代天皇の母は海神氏から出ている。
 彦五瀬命は 弟らとともに東征にでたが、浪速の白肩津(枚方、また生駒の孔舎衛坂ともいう)において戦となったが、ナガスネヒコ(長髄彦)軍の矢に射られ重傷を負い、兵を退却させたが、傷は深くついに和歌山の竈山で死去した。陵墓も同じ地にあり、竈山神社の祭神となっている。

◆02110 板原村のだんじり
□社名 泉穴師神社(旧板原菅原神社)
□所在地 大阪府泉大津市板原町
□祭は
□山車(だんじり)
平成十八年に。更新新調された。
□汎論
 神社の創祀は、旧板原村の産土神として、板原菅原神社は、牛滝川右岸に祀られた。明治四十一年十一月に和泉國の二之宮である、泉穴師神社に合祀された。山車(だんじり)は、おそらく創祀時ころから曳かれたと推定され。現在の山車は三代目にあたるということである。
穴師神社の祖神である穴師は古代の「アノウ氏」であり、滋賀県大津市の穴穂、京都府亀岡市の穴太寺、奈良県五條市の梅林で知られる賀名生などは一族と推定される。
穴師神社のすぐ西に我孫子(あびこ)があり、これもアノウ氏の有力一族である。
大阪市住吉区には大聖観音寺(通称、吾彦観音寺、我孫子観音、あびこ観音)がある。

●27207 高槻市

●27208 貝塚市
◆00370 貝塚感田神社祭
□社名 感田神社
□所在地 貝塚市
□祭神
アマテラスオオミカミ 天照皇大神
スサノオノオオカミ 須佐之男大神
スガワラミチザネ 菅原道眞
境内社
 一之社
 二之社
 三之社
 四之社
 五之社
 六之社
 七之社
□祭は七月中旬。
□山車(蒲団太鼓)
・大北町
・中北町
・近木町
・中町
・堀之町
・南町
・西町
(順不同)
□汎論
 感田神社の創祀の詳細は不明。社記によると往古は神社もなかったが、村の年寄衆らが相談の上、山城八坂郷の感神院からスサノオノミコト(素盞嗚大神)、伊勢のアマテラスオオミカミ(天照皇大神)、山城北野の菅原道真公それぞれの分祀を受けて祀ったのが起源だといい。東北の土地を神田と言い、傍らに神田池がある。
 室町時代、応永四年( 一三九七)、足利義満と大内義弘の間に起きた「応永の乱」では、和泉地方は各地で戦場と化した。
 当時の貝塚はいまでは想像もつかない人家数十戸にも満たない村だったというが、神社をはじめ民家ことごとくが焼き払われたといわれる。 織田信長が紀州の雑賀衆を攻めたとき神社は紀州側についたため戦火に見舞われすべて焼き払われた。その後社地に天台宗の寺院が建てられたことがあったが、しばらくして旧に復しふたたび神社となった。
 
◆05933 阿理莫神社祭
□社名 阿理莫神社(ありまかじんじゃ)
□所在地 大阪府貝塚市久保
□祭神
ニギハヤヒノミコト 饒速日命
アリマカコウ 阿理莫公
□祭は、一〇月上旬。
□山車(地車)
・久保
・半田
・東
・海塚
・麻生中
・小瀬
・堀
□汎論
 阿理莫神社の祭神は、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)、アリマカコウ(阿理莫公)をたてる。物部氏はニギハヤヒノミコト(饒速日命)の後裔だとされる。ニギハヤヒノミコトは、高天原に降臨した天皇家の祖神よりも早く降臨した神で。大和大三輪の地を治め、ナガスネヒコの妹を妻に迎え、ジンムテンノウの東征にあたってはこれと対峙しあるいは戦い、畿内への侵入を阻んでいる。いわば宿敵のあいだであった。
 貝塚の地は物部氏から出た安幕氏(あまか)が、代々阿間河荘(あまかそう)を支配してきた豪族であった。安幕氏が貝塚の大祖としてニギハヤヒノミコト(饒速日命)を祀ったのは、継体天皇期元年(五〇七)と伝えられる。
 古代の物部氏は全国に展開しておりその行跡は古代出雲文化に重なる。武士をもののふというが、出雲氏の武人集団として割拠したさまがうかがえ、和泉の地が古代出雲の支配地であったことを示唆している。

◆05932 南近義神社祭
□社名 南近義神社(みなみこぎじんじゃ)
□所在地 大阪府貝塚市王子
□祭神
ミズハノメノカミ 彌都波能賣神(罔象女神)
□配祀
ニュウツヒメノカミ 丹生都比賣神
□合祀
三十四神
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・窪田
・王子
・堤
・地蔵堂
・橋本
□汎論
 南近義神社は、吉野の丹生神社の分社として祀られ、一時、丹生神社とよばれた。弘安七年(一二八四)、貝塚近木庄が高野鎮守の丹生都比売売神社(天野明神・天野大社)に寄進され、分霊を勧請されたと伝えられる。

◆05934 稲荷神社祭
□社名 稲荷神社祭
□所在地 大阪府貝塚市森
□祭神
ウカノミタマノミコト 稲倉魂命
スガワラミチザネコウ 菅原道真公
イチキシマヒメノミコト 市杵島姫命
タケミカヅチノミコト 武甕槌命
フツヌシノミコト 経津主命
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
ヒメノミコト 比売命
□祭は一〇月上旬。
□山車(だんじり)
・清児(せちご)
・名越(なごせ)
・森
・三ツ松
・水間
□汎論
 稲荷神社の創祀は不明。貝塚市木島地区の総社として祀られている。貝塚市教育委員会の説明によると、当神社はもと神宮寺だった青松寺の一部で、堂内には不動明王座像や釈迦如来来迎図、歴代住職の位牌等が残されている。中世よりこの地域では、高野山や根来寺の影響が大きく、真言密教の儀礼を行う道場が村々に創設され、青松寺ももとはこうした村堂であったということである。
 祭神は地元所縁のスガワラミチザネコウ(菅原道真公)、宗像三女神の一神であるイチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)、春日神社三神であるタケミカヅチノミコト(武甕槌命・鹿嶋神)、フツヌシノミコト(経津主命・香取神)、アメノコヤネノミコト(天児屋根命・枚岡神)。ヒメノミコト(比売命)は祭神不明。以上を勘案すると、明治期の廃仏毀釈、合祀令などのおおきな変遷がうかがえる。
 もとより断定できないが、「もとは東方の山頂にあった」との伝承があり、この山を神南備山とし、ウカノミタマノミコト(稲倉魂命)を山頂に祀ったすがたが垣間見えてくる。もしそうであれば、当社の創祀は相当古くにさかのぼることになりそうである。

●27209 守口市

●27210 枚方市
◆笠井流神楽

●27211 茨木市

●27212 八尾市
◆00583 弓削神社例祭
□社名 弓削神社
□所在地 大阪府八尾市弓削
□汎論
 弓削の道鏡出生地と伝え、伝承地に小祠がある。道鏡の略伝は、法相宗の義淵の弟子となり、東大寺の勧進でも名高い良弁から梵語を学んだと言われ、さらに大和の葛城山に密教の宿曜秘法を習得したとも言う。お水取りで知られる東大寺二月堂のまえに良弁の手植えの杉があったが、近年枯れた。
天平宝字五年(七六一)、保良宮において孝謙天皇(後の称徳天皇)の病気を治して以後重用された。天平宝字七年(七六三)に少僧都、天平神護元年(七六五)に太政大臣禅師、翌年には法王となっている。
道鏡は、弟の浄人を引き立て、また多くの一族を任用したが、このことは藤原氏の反感をかう一因ともなった。
やがて、大宰府の習宜阿曾麻呂は、豊前の宇佐神宮より皇位を道鏡に譲れとの神託があったと偽計をたてるにいたり、
ついに和気清麻呂が勅使として、その神託が虚偽であることを上申し道鏡が皇位に就くことはなかった。
宝亀元年(七七〇)称徳天皇の薨去後の宝亀元年八月、道鏡はふたたび天皇即位を企んだとして、下野薬師寺の別当を命ぜられて認知に向かいし、赴任地の下野国で没した。
栃木県下野市の龍興寺境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
道鏡が失脚した後この地を訪れで藤子姫と夫婦になり過ごしたといい、弓削神社がある。孝謙天皇に寵愛されたとの風説は『日本霊異記』や『古事談』などにも見られるが、多くは後に生まれた説話似すぎないといわれる。
 八尾市の弓削神社の地は古来たびたび大和川の決壊がおきたところで、生駒山西側を枚岡か大東市におよぶ大水害を引き起こし、鴻池家土蔵にはその水位の後が今も残されている。
近年弓削神社の祭には小型の蒲団太鼓が出るようになった。

◆01900 玉祖神社祭
□社名 玉祖神社(たまおやじんじゃ)
□所在地 大阪府八尾市神立
□祭神
アメノアカルタマノミコト 天明玉命(櫛明玉命)
□祭は七月下旬。
山車(地車、蒲団太鼓)が出る。
□山車(地車、蒲団太鼓)
地車
・郡川
明治三〇年(一八九七)の建造。工匠は大佐十二代、川崎宗吉。
彫刻は九代、小松源助、赤銅芳松。
・服部川
・神立
・垣内
幕末期の建造と推定されているが、詳細は不明。
元柏原市恩地乾小路が曳いていた地車を譲り受ける。
蒲団太鼓
・千塚
・水越
・大竹
・楽音寺
・郡川
・服部川
・大窪
・神立
・黒谷
□汎論
 玉祖神社の創祀は和銅三年(七一〇)、生駒山の西麓、八尾市高安地区旧十三ヶ村の鎮守である(恩智を除く)。高安大明神の別名がある。周防国(山口県)の玉祖神社から
分祀を受けて祀られたと伝える。瀬戸内を難波の住吉浜にあがり、恩智神社を経て現地にいたったといわれるが、遠く周防の國から招かれたにはそれなりの理由があるはずだと考えられるが、創建時の願主ほか詳細は不明である。
 かつては神宮寺・薗光寺竹之坊があったが、廃仏毀釈で廃寺となった。
 アメノアカルタマノミコト(天明玉命)は、玉造部の祖神の意味であり、もとは勾玉を作る者の意味がある。当地はかつて大阪市の玉造を起点とし大和に通じる十三街道が通る、交通の要所であったことを考慮するとその因縁も推察できる。
 神社には在原業平が用いていたという笛が社宝として伝わる。

●27213 泉佐野市
◆00271 春日神社祭
□社名 春日神社
□所在地 大阪府泉佐野市春日町
□祭神
□祭神
本殿
タケミカヅチノカミ 健甕槌神
アメノコヤネノミコト 天兒屋根命
アメノオシクモノミコト 天押雲根命
イワイヌシノミコト 齋主命
ヒメオオカミ 姫大御神
□濱出神社
 コトシロヌシノミコト 事代主命
 サルタヒコノミコト 猿田比古命
 タケツヌミノミコト 健角見命
 オオヤマクイノミコト 大山咋命。
□脇殿
 ゴシラカワテンノウ 後白河天皇
 スガワラミチザネコウ 菅原道真公
 トヨウケヒメノミコト 豊受姫命
 オウジンテンノウ 應神天皇
 タケハヤスサノオノミコト 武速須佐男命
□境内社
 赤手拭稲荷神社
  大山祇命
  倉稲魂命
□祭は、七月下旬。
□山車(蒲団太鼓)
・春日町
江戸時代後期、安政年間の作だと伝わる。
・野出町
・新町
・元町
かつて太鼓臺が出ていたというが現存しない。休止中。
□汎論
 春日神社の創祀は、光仁天皇期、宝亀年間に坂上苅田丸が奈良春日神社より分霊を受けて祀ったといわれる。坂上苅田丸は、坂上田村麻呂は勅命を受けて、八世紀から九世紀の初めにかけ、奥州の蝦夷征伐をおこなったた将軍の父親である。
春日神社は旧佐野町のころまでは、佐野の鎮守であった。祭神の経津主命を欠き、アメノオシクモネノミコト(天押雲根命)が祀られる。アメノオシクモネノミコトはアメノコヤネノミコトの御子カミで、奈良春日大社には春日三神とともに、若宮として祀られている。主神の天児屋根命の御子神である天押雲根命を祀っている。

 太鼓臺の宮入は勇壮で、押し戻しがあって太鼓臺はなかなか境内に入れない。
 宮入の際に唄われる音頭がある。

  石山の 秋の月 月に村雲 花に風  
  旅の便りは 田舎から いなをかくせし 淡路島
  縞の財布に 金五〇両 五郎十郎 曽我のこと
  サーセ! ホラ ヨーイショ サ ヨーイショ サ             

  牡丹に唐獅子 竹に虎 虎追うて走るは 和藤内
  全うないお方に 知恵貸そか 知恵の中山 せんがん寺
   せんがん寺の和尚さん 坊さんで 坊さん蛸さん 十郎兵衛さん
  サーセ! ホラ ヨーイショ サ ヨーイショ サ
 かつて神輿渡御のさいは、海に近いお旅所では、みこしを海に投げ込んだと言われる。また、宮入後、御神輿が拝殿の前へへとすすむが、その直後から激しく練り、神輿が地面に落とされ、若者達が青竹を振り上て神輿を打つ。青竹の先が割れて飛沫が飛び散る。これは、夏の祓でお神輿に乗るのはスサノオノミコト一神で、激しいほど病魔退散と、スサノオノミコトの神意に適うからだと言われ、夏祭で御神輿を激しく扱う例は各地で見られる。

◆00229 上之郷地区祭
□社名 意賀美神社(おがみじんじゃ)
□所在地 泉佐野市上之郷
□祭神
龍神 ?
タカオカミノカミ _
クラオカミノカミ ?
□祭
□山車(だんじり)
建造は明治初期と推定。
工匠は不明。
彫刻は彫又。

脇坂甚内が赤井景遠を襲う場面
難波戦記の見送りをかける

□汎論
 延喜式に記載のある古社。武塔山麓にあり、武塔ノ天神ともいう。
祭神が不明である。龍神を祀ったともあり、【オカミ】の名称は、京都の【貴船神社】ミ通じる。雨乞いにゆかりがあるかもしれない。江戸時代初期に各地を行脚した美濃の僧円空も請われて多くの龍神を彫刻している。
岐阜県垂井町の南宮社にも雨乞いの伝承と、置山での龍神からくりが伝承されている。
江戸の三囲社も雨乞いで名高く、俳人の宝井其角がたなたな雨乞いの祈祷の場に差し掛かり、僧侶と間違われて

   雨降らせ 田を三囲(みめぐり)の 神ならば

 の一句を詠んだところ、たちどころに雨が降って村人が大喜びしたという話も伝わる。当社の祭も、雨乞いと山車曳行が結びついたものと考えられる。

◆04938 蟻通神社祭
□社名 蟻通神社
□所在地 泉佐野市長滝
□祭は一〇月上旬。
山車(地車)を曳く。
□山車(地車)
・東ノ番
・西ノ番
・中ノ番
山車(地車)の建造は幕末の文久二年(一八六二)。
当初は岸和田市大工町が建造した地車。明治中期に取得。
工匠は梶冶三郎重田忠。
彫刻は花岡一門。豊臣秀吉の朝鮮出兵。李如松、金汝吻が珍しい。
 李如松(りじょしょうは、中国明代の武将で、朝鮮への援軍を率いて豊臣秀吉軍と戦い、秀吉を悩ませた武将。朝鮮の役で、平壌城の小西行長の軍勢を攻めて落城寸前までせまったが、攻撃の軍を一部といて行長に自主撤退を勧告して平壌を奪回した。勢いに乗り
撤退する小西軍を追撃したが、碧蹄館の戦いで小早川隆景、立花宗茂らの軍勢に大敗して軍を引き。平壌に撤退した。
 金汝吻
朝鮮の武将。塙団右衛門、加藤嘉明と戦う姿がよく彫刻される。
堺市陶荒田北村の地車の見送りに作例がある。
(順不同)
□汎論
蟻通神社は、蟻通明神とも言い、紀貫之ゆかりの神社として知られる。紀貫之がうっかり騎乗のまま神域を通ろうとしたため神罰により馬が倒れたという伝説がある。世阿弥の能楽「蟻通」でも知られる。
佐野飛行場建設のため、現在の長滝地区に移転した。

◆02274 日根神社祭
大阪府泉佐野市日根野
日根神社
□祭神
ウガヤフキアエズノミコト 鵜葺草葺不合命
タマヨリヒメノミコト 玉依毘売命
祭神の四王子
イツセノミコト 五瀬命
イナヒノミコト 稲冰命
ミケヌノミコト 御毛沼命
ワカミケヌノミコト 若御毛沼命
オシフミノオミ 億斯富使主
ヒネノミヤツコ 日根造
摂社
比売神
天照大御神
須佐之男命
を祀る。
このほか境内社が十数社ある。
□祭
現在山車(地車)は曳かれていない。
□山車
現在曳行休止中
・東上
・西出
・西上
・野口
・野々地蔵
・新道出
・久ノ木
□汎論
 日根神社は和泉五社の五の宮である。創祀は不詳とされるが、日根は島根県出雲地方の古い国名であり、かって、和泉地方に栄えた古代出雲文化を継承する社名と考える。
延喜式に記載される古社である。ヒネノミヤツコは日根神社の祖神で、創祀時の祖神であろう。五月上旬には柱に枕を結んで立てる「枕祭」が行われる。

●27214 富田林市
◆01269 咸古神社
□社名 咸古神社(かんこじんっじゃ)
□所在地 大阪府富田林市龍泉
□旧国名 國
□祭神
カムヤイミミノミコト 神八井耳尊
アメノフトダマノミコト 天太玉命
□山車
山車はない。
□汎論
 咸古神社は、延喜式神名帳 河内國石川郡に記載される、河内國一一三座のうちの一座。創祀は古いが詳細は不明。咸古神社の南東に神南備お地名があり、おそらくここが咸古神社の古祭祀のあった場所であろう。
 祭神のカムヤイミミノミコト(神八井耳尊)は、ジンムテンノウ(神武天皇)崩御のあと、その皇位を継ごうとしたタギシミミノミコト(手研耳命)が、不都合な弟であるカムヤイミミノミコトを殺そうとしていることを母の歌に秘められた歌意より察知し、カムヌナカワミミノミコト(神渟名川耳尊)とともに、片丘(奈良県王寺町)にタギシミミノミコトを討った。カムヤイミミノミコトは皇位につくことなく、皇位を継承したのは、カムヌナカワミミノミコト、すなわち、のちの綏靖天皇であった。
 次座のアメノフトダマノミコト(天太玉命)は日氏の支族である中臣氏、日置氏が祖神として祀る神である。

◆01184 美具久留御魂神社祭
□社名 美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)
□所在地 大阪府富田林市宮町
□祭神
ミグクルミタマノミコト 美具久留御魂神(大国主命)
ミズハノメノカミ 天水分神、弥都波迺売命(罔象女神)
スセリヒメノミコト 国水分神、須勢理比売命
コノハナサクヤヒメノミコト 木花咲耶比売大神
□摂社
利雁神社(物部氏に関連する)
□末社
皇大神社
□祭神
アマテラスオオミカミ 天照大神
コトシロヌシノミコト 事代主命
オオモノヌシノミコト 大物主命
熊野神社
□祭神
イザナギノミコト 伊弉諾命
イナナギノミコトは、イザナミノミコト(伊弉冉命)とする説がある。
スサノオノミコト 素戔嗚尊
貴平神社
□祭神
スサノオノカミ 須佐之雄神
オオクニヌシノミコト 大国主命
アオヤタカスズヒコノミコト 青箭高鈴彦命)
稲荷神社
□祭神
ウカノミタマノカミ 宇迦之御魂神
郡天神社
南木神社
祭神
クスノキマサシゲ 楠木正成
クスノコマサトラ 楠木正虎
大伴神社
□祭神
オオトモノクロヌシ 大伴黒主
旧大伴村大字山中田(現富田林市山中田)の大伴神社を合祀。
英霊社
紫天神社
富榮神社
旭岡神社
白雲宮
□祭は一〇月下旬。
□山車(地車)

◆喜志のだんじり
大阪府富田林市喜志
□山車(だんじり)
・若松一
彫刻

源平盛衰記にとる。
・新堂
平成十二年に導入。
工匠は下川安治郎、下川一榮、下川安治郎、赤金由松。
昭和九年に泉大津市宮本町が建造したものだという。
・宮
幕末文久三年の建造
工匠は地元の大工。
・尺度
平成十年の導入。
昭和五年に泉大津市元町が建造したものだと伝える。
・喜志
明治末期の導入
工匠は新兵衛。清八。
明治二十三年に奈良県広陵町で建造されたと伝えられる。
・川面
平成三年の建造。
工匠は彫忠。
・毛人谷
平成一二年導入
工匠は羽曳野の大工だという。彫又ほかの手が入っている。
昭和二三年ごろ羽曳野市主水町が建造。
健在に誉田八幡宮境内にあった巨木を用いたという。
・平町
平成十四年の建造。
工匠は彫忠。
・桜井
彫刻の題
天の岩戸
司馬温公の瓶割り
牛若丸鞍馬山修行の場
(順不同)
□汎論
 美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は、延喜式神名帳未記載される古社。創祀の起源は不明であるが歴史の古さでは屈指の神社。社殿の建立は島根県の出雲大社より古いとの研究もある。社殿の後部にある丘陵地には古墳がありこの古墳を神南備とよんでいる。被葬者は不明だがミグクルノミコトである可能性が高い。「大国さん」ととばれる大国主命の呼び名は「代名詞」。生前の名称はミグクルノミコト(美具久留命)。死後の諡名(おくりな)が「大己貴命」。の関係が見えてくる。仮に被葬者が大己貴命であれば。富田林は古代出雲の一大中心地だったと推定される。
 美具久留御魂神社の東部には大和の二上山が遠望される。神社の創祀にはこの二上山が意識されていたと考えるのはゆきすぎだろうか。二上山のシルエットは前方後円墳に酷似する。
大和川の支流である石川と羽曳野丘陵のあいだにひろがる一帯は、古くは喜志村であった。いまは宮町、桜井町、喜志町、喜志新家町、平町、川面町、木戸山町に分かれている。祭の氏子には一部羽曳野市が加わっている。
大阪、浪花漫才の起源とも言われる「俄」の伝承があり、「にわかだんじり」があるのがめずらしい。

◆02065 誉田八幡宮祭
□社名 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
□所在地 大阪府羽曳野市誉田
□祭神
□祭は九月中旬。
□山車(地車)
・王水町
・馬場町
・鍛治町
・西之口町
(順不同)
□汎論
 誉田八幡宮は応神天皇陵のすぐ南に鎮座し、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿が創建されたことから、数ある八幡宮の中でも最も古い八幡宮としての社格を誇る。
 文化財が数多くあり、
塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)、金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)は国宝。
紙本著色神功皇后縁起二巻、絹本著色誉田宗廟縁起三巻、舞楽十一面、松皮菱螺鈿鏡鞍
銘真守剣 銘 則国、薙刀 無銘大和作、伏見天皇宸翰後撰和歌集 第廿巻は重要文化財の指定を受ける。

●27215 寝屋川市
◆寝屋川大利祭
大利神社
□汎論
境内にだんじりが保管されている。

●27216 河内長野市
◆03716 蟹井神社祭
□社名 蟹井神社
□所在地 大阪府河内長野市天見字常磐
□祭神
カムヤマトイワレヒコ 神倭磐余彦命
配祀
ホムダワケノミコト 品陀和氣命(應神天皇)
オキナガタラシヒメノミコト 息長足比賣命(神功皇后)
タマヨリヒメノミコト 玉依比賣命
□祭一〇月上旬。
山車(だんじり)を曳く。
□山車(だんじり)
三臺ある。
□汎論
 蟹井神社の創祀は不明。中世には甲斐ノ庄といったという。また蟹井神社の名称は甲斐の名称からの転訛だともいわれる。社伝によるとカムヤマトイワレヒコ(神倭磐余彦命・神武天皇)の東征時紀ノ川を遡上し、紀州と難波の境にある紀美峠で畿内の様子を窺がい、蟹井神社の北部に社北に天見川の大石、小石を集めて磐境、神籬をたて、皇祖天津神を祀って戦勝を祈願されたことがあり、のち、天喜三年(一〇九九)になって社殿を建立、神倭磐余彦命ほかの三柱を祀ったのが現、蟹井神社だと伝える。天見川に蟹井の渕という深渕があり、ここが神武天皇が神籬をたて場所だとの説がある。興味をひかれる伝承である。
 祭には三臺のだんじりが曳かれ祇園囃子で宮入りする。堤燈祭の別名がある。祭礼日には老松に御神輿をぶつける神事が行われる。

◆03588 加賀田神社祭
□社名 加賀田神社
□所在地 大阪府河内長野市大阪府河内長野市加賀田
□祭神
ホムダワケノミコト 誉田別命
タラシナカツヒコノミコト 足仲彦命
オキナガタラシヒメノミコト 息長足姫命
スサノオノミコト 素盞嗚命
タカオカミノカミ □神(□は文字なし、たかおかみ。あめかんむりの下に龍)
エビスカミ 恵比寿神
オオトシノカミ 大歳神
スガワラミチザネ 菅原道真
□汎論
 加賀田神社の創祀は不明であるが、記録によれば、大分県宇佐神宮より祭神を勧請したこと、江戸時代には仏教と褶合した大きな規模の神社だったことが知られる。祭神の分祀を受けて以来神官をおかず、齋事は「座衆」と云う「とうや(頭屋、党屋)」制度による組織があって、選ばれた「とうにん」が社寺の祭典を執行してきた伝統が誇り高く守られてきた。

◆02112 高向神社祭
□社名 高向神社(たこうじんじゃ)
□所在地 大阪府河内長野市
□祭神
スサノオノミコト 素盞嗚尊
エビスノカミ 蛭子神
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
ウケモチノカミ 保食神
シラヤマヒメノカミ 白山姫命
スガワラミチザネ 菅原道真
合祀
タケミカヅチノカミ 武甕槌命
フツヌシノカミ 経津主命
ヒメオオカミ 比淘蜷_
オオナムチノミコト 大巳貴命
□祭は一〇月上旬。
山車(だんじり)を曳く。
□山車(だんじり)
・高向上町
・中町
・下町
□汎論
 高向神社の創祀は不明である。多くの出雲系の神が祀られる。鹿島神のタケミカヅチノカミ(武甕槌命)、香取神のフツヌシノカミ(経津主命)、アメノコヤネノミコト(天児屋根命)の三神がそろうのは春日大社から分祀を受けたものだろうか。
上高向、下高向、中高向の鎮守である。

◆03664 西代神社祭
□社名 西代神社
□所在地 大阪府河内長野市河内長野市西代町
□祭神
クニトコタチノミコト 國常立命
合祀
ホムダワケノミコト 品陀別命
スサノオノミコト 素盞嗚命
タエアシナカヒコノミコト 足仲彦命
オキナガタラシヒメノミコト 氣長足比賣命
タケノウチノスクネ 建内宿禰
スガワラミチザネ 菅原道眞
境内社
稲荷神社(いなりじんじゃ)
戎神社(えびすじんじゃ)
□祭は一〇月上旬−中旬。
山車(だんじり)を曳く。
□汎論
 西代神社は仏い神社であるが不明な点が多い。
 河内長野市は、皇統が南北に分裂したいわゆる南北朝時代に南朝を支持した楠正成(くすのきまさしげ)ゆかりの地で、遺跡も多く、山車彫刻にも楠氏にちなんだ彫刻が見られる。

◆03209 烏帽子形八幡神社祭
□社名 烏帽子形八幡神社
□所在地 大阪府河内長野市喜多町
□祭神
タエアシナカヒコミコト 足仲彦命(仲哀天皇)
ジングウコウゴウ 神功皇后
オウジンテンノウ 應神天皇
合祀
スサノオノミコト 素盞嗚命
境内社
恵比須社
稲荷神社
□祭
山車(だんじり)を曳く。
□汎論
 烏帽子形八幡神社の創祀は南北朝期と推定されている。上田、小塩、喜多の鎮守となっている。筆者が推定するにおそらく八幡三神は後祀、烏帽子型の山全体が御神体山だったのでないかと考える。そのあとに、出雲系の神であるスサノオノミコト(素盞嗚命)、ウカノミタマノミコト(倉稲魂命・稲荷神)現在の祭神を祀ったのはさらにそのあとであろう。
 烏帽子形の山、境内は城郭だった歴史がある。

◆03207 赤坂上之山神社祭
□社名 上之山神社
□所在地 大阪府河内長野市美加の台
□祭神
チュウアイテンノウ 仲哀天皇
ジングウコウゴウ 神功皇后
オウジンテンノウ 應神天皇
□祭は一〇月上旬。
山車(だんじり)を曳く。
□汎論
 上之山神社の創祀は僧行基が、神護景雲元年(七六七)に古稱陀洛山神宮寺の鎮守として祀ったのにはじまる。のちに河内国錦部郡の総社となった古い歴史があり、三日市地区片添、北部、南部の鎮守である。江戸時代末期まで神仏褶合の神社だったが明治期の神仏分離令により興禅寺が分離された。
 
◆01659 千代田神社だんじり祭
□社名 千代田神社
□所在地 河内長野市市町、
□祭神
スガワラミチザネ 菅原道真公
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
ソコツツオノミコト 底筒男命(住吉三神のうち一神)
エビスミコト 蛭子命 
タラシナカツヒコノミコト 足仲津彦命(仲哀天皇)
オキナガタラシヒメノミコト 気長足姫命(神功皇后)
イナダヒメノミコト 稲田姫命(スサノオノミコトの妃)
□境内社
皇太神社
八幡神社
戎神社
□祭は一〇月上旬。
山車(だんじり)を曳く。
□汎論
 千代田神社の創祀は不明。平安期の作とされるスガワラミチザネ(菅原道真)の神像がある。ふるくは天神社、天満宮などとよばれていたらしい。
 明治末期に木戸神社と向野の伊予神社が合祀され、大正初期に千代田村と改称されて、市町西、市町東、木戸本郷、楠、千代田石坂、松ヶ丘、向野が氏子である。神社も千代田神社に改称されている。脈絡の無い祭神がならぶのはこの合祀の故である。 和歌山県の高野詣の街道筋にあたり、大坂(大阪)、河内から高野にいたる東高野街道、中高野街道、西高野街道、下高野街道は当地ですべて交わる交通の要衝でもあった。峠越えの道は紀州橋本(和歌山県橋本市)までは一筋で、橋本から高野山へは町石道、不動坂道、勅使道の三道がある。
 和歌山県北部と大阪府南部の山車は文化は、和歌山県が概ね「櫓(やぐら)」であるが、県境の孝子峠を越えて大坂南部に櫓がはいりこみ、一方和歌山県の橋本では櫓に交えて和泉地方の「だんじり」がはいりこみ、高野街道沿いには和泉地方から譲り受けただんじりが保管されているところがある。
 河内長野市で曳かれるだんじりは、堺型、住吉型が混在する。

●27217 松原市
◆03835 高見神社祭
□社名 高見神社
□所在地 大阪府松原市高見の里
□祭神
アマテラスオオミカミ 天照大神 ?
□祭は十月。  
□山車
山車(だんじり)
・丹南 ?
□汎論
 創祀は不詳。境内に宝暦年間に寄進された燈籠がある。祭神は、当社が【神明様(しんみさま)】また祭神は【女神】といわれていること。幕末期から明治初期に各地に大流行した【ええじゃないか】では、当地の中心地であったと伝わることなどから、アマテラスオオミカミ(天照大神)? と推定されている。
 高見の里、南西の丹南に町内だんじりがあるが、当社に属するかどうかは不明。江戸時代には【臺額(だいがく)】が出ていたとの伝承がある。
 
◆04268 柴籬神社祭
□社名 柴籬神社(しばがきじんじゃ)
□所在地 大阪府松原市上田七丁目
□祭神
ミズハノワケノミコト 瑞歯別命
スガワラミチザネ 菅原道真
ヨオサノスクネ 依羅宿禰
□祭は十月上旬。
□山車
山車(だんじり)一臺を曳く。
・上田第四町会
上田一丁目と二丁目で構成される。
□汎論
 柴籬神社の創祀は古く、仁賢天皇期の五世紀後半と伝わる。祭神のミズハノワケノミコト(瑞歯別命)は、タジヒノミズハワケノミコト(多遅比瑞歯別尊)とはおなじ。
ヨオサノスクネ(依羅宿禰)は、依羅連に連なる百済人のソミシヤマミ(素彌志夜麻美)の後裔とあり、大阪府松原市天美は渡来人である依羅連が居住した【依羅郷】とかかわりが深い。ヨオサノスクネ(依羅宿禰)を祭神とする神社には、柴籬神社と同じ境内にある田坐神社、旧地は松原市田井城だったという。

◆04269 布忍神社祭
□社名 布忍神社(ぬのせじんじゃ)
□所在地 大阪府松原市北新町二丁目
□祭神
ハヤスサノオノミコト 速須佐男之尊
ヤエコトシロヌシノミコト 八重事代主之尊
タケミカヅチノミコト 武甕槌雄之尊
摂社 
末広稲荷社
ウカノミタマノオオカミ 宇迦之御魂大神
□祭は十月中旬。  
□山車
山車(地車)一臺を曳く。
・更池
明治十四年の建造。
工匠は川村新吾。
彫刻は、西岡弥三郎。
□汎論
 布忍神社の創祀は不明。【布忍(ぬのせ)】の社号は、当社が古くは【布忍荘】に祀られていたことによると推定される。もとは北にある天見丘に祭られていたが遷座したと伝わる。丹北郡布忍荘は、『新撰姓氏録』に、「布忍首は中臣氏と先祖を同じくし竹内宿禰を遠祖とする」の意の記述が見える。
 明治以前は「祇園社」として牛頭天王を祭神としていたが、明治以降はスサノオノミコト(素盞嗚命、速須佐男之尊)となった。
 本殿は、大阪府の文化財に指定され、狩野派の見事な彩色画が描かれている。

●27218 大東市
◆04487 山王宮神社祭
□社名 山王宮神社
□所在地 大阪府大東市新田東本町
□祭神
オオヤマクイノミコト 大山咋命
□祭は十月下旬。
□山車
山車(地車)
・新田東
建造は天保年間と伝わる。
明治初期に改修され、西岡弥三郎により彫刻が付加された。
・新田西
建造は天保年間と伝わる。
(順不同)
□汎論
 山王宮神社の創祀は、当地を干拓して新田をひらいたとき、入植したのが近江湖西(滋賀県)の人々で、当地には神社がなかったので、大津坂本の山王宮より分祀を受けて祭られたという伝承がある。

◆04291 須波麻神社祭
□社名 須波麻神社(すはまじんじゃ)
□所在地 大阪府大東市中垣内二丁目
□旧国名 河内國
□祭神
オオクニヌシノミコト 大國主命
ククノチノカミ 久久能智神
境内社
稲荷社
ウカノミタマノカミ 倉稲魂
□祭は十月下旬。
山車(地車)一臺を曳く。
・中垣内(なかがいと)
幕末期の文久元年(一八六一)頃の建造。
彫刻は師は、西岡一門の手になる。 
□汎論
 須波麻神社は、延喜式神名帳河内國讃良郡(さららぐん)に記載される、河内國一一三座のうちの一座。大東市の延喜式神名帳記載神社は当社のみである。創祀は不明。生駒山系の西麓は南部の大和川、北部の寝屋川、淀川が渾然となる氾濫原であり、西部の大阪湾がそれに続いていた。河内國頭部は生駒山の汀線の上に多くの古社が祀られている。
 【須波麻】とは、【州浜】の意味と考えられ、山腹などから砂嘴状に伸びた地などを指す。近くの旧野崎村は【野崎観音】で著名で、【お染・久松】の悲恋でよく知られ、仲良く並んだ【比翼塚】がある。
 東海林太郎さんの往年の名歌、【野崎小唄】に、
 
   野崎まいりは 屋形船で参る……

 とあるが、近年でも、東大阪一帯には、湿地が残り、水利の深い運河が縦横に通っていて、菱屋あたりの農家は、肥料や収穫した農産物を船で運んでいたものである。古代にはあたかも上町台地で囲まれた【内湖】のような様相だったのではなかろうか。
 須波麻神社の祭神は、オオクニヌシノミコト(大國主命、大己貴命)で、境内に、稲荷社が祀られるのも、古代出雲系神社の通例である。当社には、出雲大社と同体との伝承がつたわり、数多ある出雲系神社のうちでも由緒ある別格神社だったと考えられるが、遺憾ながら古資料を欠き、伝承に

●27219 和泉市
◆01894 泉井上神社祭
□社名 泉井上神社
□所在地 大阪府和泉市府中町六−二−三八
□祭神
ジングウコウゴウ 神功皇后
チュウアイテンノウ 仲哀天皇
オウジンテンノウ 応神天皇
□祭は一〇月上旬。
だんじりを曳く。
□山車(だんじり)
・東泉寺(東、旧東之町)
・南之町(南、通称南出)
昭和二三年の建造。
工匠は絹井嘉一郎。
彫刻は木下舜次郎。松田正幸、金光南陽。
・市辺町(北、旧市邊)
・馬場之町(中央。馬場出)
・和気
・小田
・肥子
現在はない。
(順不同)
□汎論
 泉井上神社の創祀はあきらかでないが、和泉国五大社である大鳥、穴師、聖、積川、日根の五社を勧請した和泉五社総社があり、和泉の国府址が近くにある。三韓征伐の遠征より帰還した神功皇后が氏原木滞在した地とも伝わる。いうまでもなく住吉大社の創祀以前である。歴史の帳に包まれているが、
案ずるに和泉の地は古代の出雲であったと推定する。古代には由緒ある重要な地であったことは確かである。
昭和九年に大阪府の学務部が発行した『郷社現行特殊慣行神事』に、「天正十三年(一五八五)神輿並びに地車六臺が整列した」との記述がある。
現在知られる泉州で山車(だんじり)が曳き始めれれた記録では最も古いものである。

◆02094 黒鳥天満宮天神社祭
□社名 黒鳥天満宮天神社
□所在地 大阪府和泉市黒鳥
□祭は一〇月上旬。
山車(地車)を曳く。
□山車(地車)
・辻小路
・郷小路
・上泉
・坊小路
(順不同)
□汎論
 黒鳥天満宮天神社の創祀は天平時代といい、飛鳥古家社にはじまる。創祀時の祭神は飛鳥古社の飛鳥部黒麻呂であった。飛鳥部黒麻呂は河内国安宿郡奈加郷の豪族だったといわれ、当地に灌漑池を掘り、堤を築き、水路をつくって水を引き、田畑を開拓した功労者であり土地の祖神として尊崇される。
 平安時代、一条天皇期に天満宮を飛鳥古家社に合祀せよとの勅旨が下り、以後は天満宮と称されるようになった。
 南北朝時代になって、スガワラミチザネ、スサノオノミコト、ニギハヤヒノミコトを合祀し、社名は天満宮天神社となった。明治期には泉府中の泉井上神社に合祀されている。 平成十八年、天満宮天神社(黒鳥菅原神社)の社殿が再建され、神々は旧地に還御となった。これを祝いに賑にぎしくだんじり(地車)が曳かれた。

●27220 箕面市
◆止々呂美

●27222 羽曳野市
◆02065 羽曳野誉田八幡宮祭礼
□社名 誉田八幡宮
□所在地 大阪府羽曳野市誉田
□祭は九月中旬、
山車(地車)を曳く。
□山車(地車)
・王水町
・馬場町
・鍛治町
和泉市唐国町より譲り受けた。唐国町は大正三年に上石津より譲り受けている。
銘板に「細工人 住吉郡住吉村 大佐」とあるという。創建時の工匠は大佐によると考えられる。
・西之口町
創建は奈良県大和高田市だと考えられている。
平成八年に堺市の北王子より譲り受けている。工匠は大佐。
彫刻は彫又一門のよる。
銘板に「細工人 住吉郡住吉村 大佐」とあるのは鍛治町とおなじ。
□汎論
 羽曳野市の誉田八幡宮は應神天皇陵の近くにあり、陵の祭祀を司り、例年九月の大祭には神輿が御陵の後円部頂上まで渡御する、盛大な祭礼が続けられてきた。ホムダワケノミコト(誉田別尊)は応神天皇の諱(いみな)である。
 源頼朝は建久七年社殿や伽藍を修復し、国宝指定の神輿、神馬、重要文化財指定の鳶松皮菱螺鈿鞍、同鉄蛭巻薙刀などを寄進。
 室町幕府六代将軍だった足利義教は、重要文化財に指定される誉田宗廟縁起、同、神功皇后縁起を奉納し、社宝として伝えている。

◆03757 古市白鳥神社祭
□社名 白鳥神社(しらとりじんじゃ)
□所在地 大阪府羽曳野市
□祭神
ヤマトタケルノミコト 日本武尊
スサノオノミコト 素戔鳴命
クシイナダヒメノミコト 稲田姫命
境内社(合祀)
高屋神社
 ニギハヤヒノミコト 饒速日命
□祭は一〇月上旬。
山車(地車)を曳く。
□山車(地車)
・東町
幕末慶応元年頃の建造という。
工匠は地元の松永氏。
彫刻の作者は不明。彫又と推定されている。
大屋根
懸魚は鳳凰。車板は龍。枡合は牡丹に唐獅子。
小屋根
懸魚は鳳凰。車板は飛龍。枡合は竹に虎。
脇障子に仙人を彫るが特定できない
・西町
明治十二年の建造。工匠は不明。
彫刻は田中重太郎、彫清。
大屋根
懸魚は鳳凰。車板は宝珠をつかむ龍。枡合は麒麟。花臺は力士像。
小屋根
懸魚は松、鷲、猿。雲に鴬。車板は獅子の子落とし。枡合は夫婦の唐獅子。
・南町
建造は慶応年間、工匠は松永氏
彫刻は彫又。
東町とほぼ同じ時期地元の松永氏により建造されている。おそらく東町のあとに引き続いて着工されたものと推定される。
大屋根
懸魚は猿に鷲。車板は波。枡合の正面は仙人(特定できない)、琴高仙人、梅福仙人と、列仙伝中の仙人。
小屋根
懸魚は鳳凰。車板は飛龍。枡合は玄武に乗る仙人、瓢箪持つ仙人。
脇障子に神功皇后と武内宿禰が彫られる。
・北町
幕末期の建造。大和から譲り受けたとの伝承があり、大和の地車の形態を曳く。
工匠は不明。
彫刻は相野伊造。
大屋根
懸魚は梅福仙人。麒麟。車板は龍。枡合も龍。虹梁は牡丹。
小屋根
懸魚は鳳凰。麒麟。車板は龍。枡合は竹に虎。虹梁は紅葉。
・堂之内町
建造は幕末期、工匠は不明。大和方面で曳かれる地車の形式がのこる。
大屋根
懸魚は松、鷲、猿。松に鷲。車板は青龍。枡合は牡丹に唐獅子。虹梁は不明。
小屋根
懸魚は布袋和尚。その他は不明。
脇障子は仙人と推定されるが特定できない。
下幕正面は水滸伝の武松の虎退治。左右は波に兎。
・中之町
建造は慶応元年。工匠は不明。
大屋根
懸魚は松、鷲、猿。車板は唐獅子。枡合は不明。虹梁は牡丹に唐獅子。木鼻は獅子。
小屋根
懸魚は梅福仙人。車板は波。枡合は不明。虹梁は瑞雲。
脇障子右は戦記もの、大江山酒呑童子退治。縁廻りは宇治川先陣争い。
(順不同)
□汎論
 羽曳野市の白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、古くは軽里の西方にある白鳥陵の頂に「伊岐宮(いきのみや)」として祀られていたと言われる。「齋ノ宮」のある谷なので伊岐谷とよぶようになったという。一時、峯ケ塚古墳の頂に小祠として祀られたがこれも慶長九年(一五九六)の慶長の大地震で倒壊。天明四年(一七八四)に、古市の氏神として現地に遷された。
 古市白鳥神社祭で曳かれる地車は、西町が明治初期だった以外は幕末期の作である。
大和方面から譲り受けた伝承のある地車もあるが、江戸時代後期には、ほぼ揃っていたと思われる。概して和泉地方の地車は、勇壮な曳き方で知られるが、一方で消耗度が激しく、改修、更改、譲渡が頻繁におこなわれて旧態が掴みにくい。その点で、古市の地車は古いものが大切に継承されてきているおは貴重である。
 また、彫刻類には、和泉地方に普遍的な戦記ものが見られる一方、仙人、中国古典から題材がえらばれているのも古い形態を特徴づけているのは特筆される。

◆白鳥神社祭
□社名 白鳥神社(しらとりじんじゃ)
□所在地 大阪府羽曳野市古市
□祭神
ヤマトタケルノミコト 日本武尊)
スサノオノミコト 素戔鳴命
□祭は一〇月上旬
□山車(だんじり)
・東町
・西町
・南町
・中之町
・堂之内町
・北町
□汎論
軽里地区西方の伊岐谷に祀られ伊岐宮とよばれたが、寛永末期に現在地に移された。
次の六町からだんじりがでる。

●27223 門真市

●27224 摂津市

●27225 高石市

●27226 藤井寺市
◆01410 辛国神社祭
□社名 辛国神社
□所在地 大阪府藤井寺市藤井寺
□祭神
ニギハヤヒノミコト 饒速日命
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
スサノオノミコト 素盞鳴命
ホムタワケノミコト 品陀別命
イチキシマヒメノミコト 市杵島姫命
□祭一〇月上旬。
□山車(地車、蒲団太鼓)
地車
・南岡
・北岡
蒲団太鼓
・南岡
□汎論
 辛国神社は延喜式に記載される古社。物部氏が祖神を祀る神社として創祀したとされる。すぐ東に、葛井寺(ふじいでら)がある。奈良の東大寺の東部、雑司町に辛国神社がある。祭神は韓国翁、東大寺の建立に功績のあった渡来系の人たちが祖神として祀った神社である。おなじ奈良県に韓国神社(かんごうじんじゃ)がある。島根県の日ノ埼に韓国神社がある。辛国神社と韓国神社はいずれも渡来系の人たちが祖神を祀った神社であり、同義といってよかろう。ただし藤井寺市の辛国神社が韓国神社と書かれた例は無いようである。

◆02141 志紀県主神社祭
大阪府藤井寺市惣社
志紀県主神社
祭神
カムヤイミミノミコト 神八井耳命
アマテラスオオミカミ 天照大神
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
ヒメオオカミ 比淘蜷_
タケミカヅチノミコト 武甕槌命
フツヌシノミコト 経津主命
ウワツツオノミコト 上筒男命 
ナカツツオノミコト 中筒男命
ソコツツオノミコト 底筒男命
ジングウコウゴウ 神功皇后
□祭は七月、一〇月。
蒲団太鼓の出る祀は十月である。
□山車(蒲団太鼓)
・惣社
・舟橋
□汎論
 志紀県主神社は、延喜式神名帳に記載される古社。志紀は大和(奈良県)に磯城(しき)がある。カムヤイミミノミコト(神八井耳命)はジンムテンノウ(神武天皇)と母、ヒメタタライスズヒメノミコト(媛蹈鞴五十鈴媛命)の間に生まれた皇子。兄弟にヒコヤイノミコト(日子八井命)のちの綏靖天皇を補佐している。
 志紀県主神社は志紀郡の惣社だった。

◆01647 道明寺天満宮祭
□社名 道明寺天満宮
□所在地 大阪府藤井寺市道明寺
□祭神
スガワラミチザネコウ 菅原道真公
アメノホヒノミコト 天穂日命
カクジュニ 覚寿尼(菅原道真公の伯母)
□祭は十月上旬。
□山車(地車)
・一号車
・二号車
□汎論
 スガワラミチザネコウ(菅原道真公)が九州左遷となったとき、京都から難波まで淀川を舟でくだっているが、途中、延喜式神名帳に記載される佐太天神(守口市)で下船している。佐太天神は菅原道真の領地のあった場所とされる。国道一号線に面し、寝屋川市の仁和寺交差点の筋向いに当たる。
 さらに舟で下った菅公は、大坂天満で、おばと一夜を語り明かし、一番鶏の鳴声をうらみつつ出立している。だから、天満天神の干支には鶏がないのだという。
 そのあと旧地の和泉、河内にいたり道明寺では伯母(母の姉)と今生の別れを惜しんでいる。道明寺天満宮にはその伯母であるカクジュニ(覚寿尼)が祀られるのがめずらしい。
 道明寺は土師氏、大伴氏にゆかりがある土地で、伊丹郷町(現伊丹市)に学問所、明倫堂が設立されたときには宿老のひとりである伴氏が設立に尽力し、江戸時代末期、倒幕のきっかけともなった、天誅組義挙の旗揚げしたときには青年、壮年者にまじって、五〇代の伴林光平(ばんばやしみつだいら)はいわば参謀格で参加している。大和の五條代官所襲撃事件には、森田節齋が関わっているが、ここでは深く触れない。
 謡曲「道明寺」の舞臺ともなっている場所であり、境内には大阪府かでも最も古い文化十二年建造の能楽堂がある。

◆02793 伴林氏神社祭
□社名 伴林氏神社
□所在地 大阪府藤井寺市林
□祭神
タカミムスビノカミ 高皇産靈神
配祀
アメノオシヒノミコト 天押日命
ミチオミノミコト 道臣命
摂社 
若宮八幡社
オウジンテンノウ 應神天皇
□祭一〇月上旬。
□山車(地車)
一臺ある。
□汎論
 伴林氏神社は延喜式神名帳に記載される古社。社号は延喜式にも同じ名前で記載され創祀時すでに「伴林氏」を祀る神社として建立されたと考えられる。
祭神のタカミムスビノカミ(高皇産靈神)は降臨時に高木神として記載される。天照大神の子であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)がタカミムスビノカミ(高皇産霊神)の娘と結婚して、生まれたのがニニギノミコトとされる。
 アメノオシヒノミコト(天押日命)は大伴氏(伴林氏)の祖先にあたり、百済からの渡来人と考えられている。ミチオミノミコト(道臣命)は、当初ヒノオミノミコト(日臣命)といいアメノオシヒノミコト(天忍日命)の子孫で、大伴氏の祖先とされる。神武天皇が東征のとき先先鋒となったとされるが、大伴氏は、神武東征以前、すでに古代出雲氏と連携して河内、和泉に相当の勢力を持つ一大氏族であったと考えられることから矛盾がある。

◆01467 黒田神社祭
□社名 黒田神社
□所在地 大阪府藤井寺市北条町
□祭神
アメノミナカヌシノミコト 天御中主尊 
アマテラスオオミカミ 天照大神 
タケミカヅチノミコト 武甕槌命 
フツヌシノミコト 経津主命 
アメノコヤネノミコト 天児屋根命 
ヒメオオカミ 比淘蜷_
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・林
□汎論
 黒田神社は延喜式神名帳に記載される古社。大和川の左岸にあり、古代大陸からの渡来人らにより祀られた神社と考えられる。祭神にアメノミナカヌシノミコト(天御中主尊)が祀られているのが注目される。
 古代海洋の航海、河川の水運など、人やものの移動手段として船はおおきな地位を占め、古代海神氏、古代出雲氏が日本全国に覇権を展開できたのには「船」によるところが多大である。造船技術は広島県の倉橋島、滋賀県の琵琶湖、越前若狭などに伝えられてきた。遣唐使を乗せた四艘の船には一艘におよそ一〇〇名あまり、計四百数十名が乗りこんで大陸にわたったと推定されている。
 その船の動力は風力と人力で、両側の舷側には梯子状の足場の上に大勢の水夫がならんで櫂を漕いだと想像される。当然海路があり、制海権をもっていた。
 大和川の水運も「舩氏」とその一族が実権を握り、ジンムテンノウが、淀川、大和川を遡上して大和入りできず紀州を大きく南下して熊野から上陸した。つまり、舩氏によりジンムテンノウの畿内入りは大きく阻まれていると考えられる。
 舩氏は古代、松原市から藤井寺、羽曳野市にかけて勢力を持っていたと推定され、黒田神社も舩氏との関わりが考えられるが、推定の域を出ない。
 六世紀以後、大和川に近く法隆寺が建立され、七世紀から八世紀には聖武天皇以下大和朝廷の支配下にはいったと考えられる。
 山車のなかには、舩に起源を有するものが少なくない。泉州のだんじりも古くは舟から発展したものと考えられ、太子町に見られるように古いだんじりは舟を踏襲している。

●27227 東大阪市

●27228 泉南市
◆03773 信達神社祭
□社名 信達神社
□所在地 大阪府泉南市信達金熊寺
□祭神
カミヤマトノイワレヒコ 神倭磐毘古命(神武天皇)
カナヤマヒコノミコト 金山彦命
イザナミノミコト 伊邪那美命
境内社
疫神社
久那戸之大神
□祭は十月上旬。
□山車
山車(櫓)がでる。
・馬場
・信達岡中
・幡代
・牧野
次は現存しない。
・金熊寺
・信達六尾
(順不同)
□汎論
 信達神社の創祀は不明。往古は天武天皇一〇年(六二八)に、役小角が金峯、熊野の両神を勧請して祀ったのが最初と伝わり、信達荘十三ヶ村の産土神であった。これよりのち、
 泉南樽井の海岸に神武天皇の神像が打ち上げられ、里人たちにより祀られたが、現在に遷座されたと伝わる。
 朱塗り、彩色を施した五間流れ造りの社殿は江戸時代初期の正保四年(一六四七)の建造と伝わる。

◆03830 里外神社祭
□社名 里外神社(りげじんじゃ)
□所在地 大阪府泉南市岡田三丁目
□祭神
スサノオノミコト 素戔嗚尊
合祀
オオトシノミコト 大年命
エビスカミ 蛭子神
□祭は十月上旬。  
□山車
山車(櫓・やぐら)が出る。
・陸方
・浦方
岡田一号
岡田二号
岡田三号
(順不同)
□汎論
 里外神社の創祀は不明。もとは【呉服神社(ごふくじんじゃ、くれはじんじゃ)】と謂い、少し離れた地に祀られていたが奇瑞があり、現地に遷座して祀られることになったと伝わる。社号は氏子の居住する岡田の集落のそとにあったためこのような呼び方になったと伝わるが、創祀時のすがたにたちもどれば、【呉服神社】である。
 『日本書紀』には、垂仁天皇期にイニシキノミコト(五十瓊敷命)を兎砥の川上に遣わし
【倭文部を管理】させたとの記述が見え、兎砥の川上とは泉南市の【信達】の事だといわれ信達には、信達神社が祀られている。
 大阪南部の和泉地方は【泉州機業】で著名であるが、その淵源をさかのぼれば、古代の出雲系氏族が、古丹波(丹後)、綾部(漢部・あやべ)を南下、大阪府池田市の呉服、大阪氏平野区の呉服、松原市の布忍(ぬのせ)、と発展しながら南下して泉州にいたった経路は一本につながる。【和泉と出雲は同義】であることが見えてくる。

◆03830 茅渟神社祭
□社名 茅渟神社(ちぬじんじゃ)
□所在地 
□祭神
八王子(五男三女神)
マサカツアガカツカツハヤヒアメノオシホノミミノミコト 正哉吾勝々速日天之忍穂耳命、
アメノホヒノミコト 天之菩卑命
アマツヒコネノミコト 天津日子根命
イクツヒネノミコト 活津日根命
クマノクスビノミコト 熊野久須毘命
タギリヒメノミコト 多紀理毘売命
タギツヒメノミコト 多岐津毘売命
イチキシマヒメノミコト 市杵嶋毘売
□祭は十月上旬。  
□山車
山車(櫓・やぐら)
・獅子講
建造は、昭和二十六年、工匠は波有手(阪南市)の某氏。
彫刻は仙台のものを使用しており、元治元年(一八六四)山岡弥三郎、藤原政光の手によると考えられている。
・戎福中講
・宮元講
明治初期の建造。
・浜中講
明治一九年の建造。
彫刻は西岡氏。
組内記録に、文政二年(一八一九)の『矢倉諸記録』(櫓)があり、このころすでに櫓・やぐらが存在していたと考えられる。
(順不同)
□汎論
 茅渟神社の創祀は不明。茅渟の語源には、茅渟県主(ちぬのあがたぬし)があり、また、大阪湾の古語として、茅渟海(ちぬのうみ)画用いられる。統治から和歌山県にかけて、黒鯛のことを【チヌ】とよんでいる。
 祭には山車(櫓・やぐら)が出るが、その歴史は古く【浜中講中記録】によれば、文化・ 文政期にはすでにあったと推定される。

◆05964 一岡神社祭
□社名 一岡神社(いちおかじんじゃ)
□所在地 大阪府泉南市信達大苗代
□祭神
スサノオノミコト 須佐之男命
境内社
日吉神社
 大国主命
稲荷神社
 宇迦之御魂命
厩戸王子神社
 厩戸王子命
市杵島姫神社
 市杵島姫命(旧厩戸王子)
牛神神社
 大己貴命
猿田彦命
□祭は十月上旬。  
□山車
山車(櫓・やぐら)
・大苗代
・北野
次は出ていない。
・中小路
(順不同)
□汎論
 一岡神社の創祀は不詳。社記には、欽明天皇期(五三九)に創祀。崇峻天皇期(五九二)に厩戸皇子(聖徳太子)が海會寺を建立したとき一岡神社を鎮守と定めたと伝わる。古社であるが延喜式神名帳に記載のない延喜式式外社である。通称【祗園さん】として親しまれる。

◆06705 市場稲荷神社
□社名 稲荷神社
□所在地 大阪府泉南市信達市場
□祭神
トヨウケヒメノオオカミ 豊宇気毘売大神
配祀
赤井神社(梅ノ宮)
牛神神社
□祭は  
□山車
山車(櫓・やぐら)
一臺が出る。
何代か造り変え、更新されているが詳細な記録は不詳。
□汎論
 市場稲荷神社の創祀は不明。社記によると、鳥羽天皇が伊勢外宮の祭神であるトヨウケヒメノオオカミ(豊宇気毘売大神)を天仁元年(一一〇八)に、分霊により祀っ他と伝わる。稲荷神社の多くは社殿や鳥居を朱色に塗る例が多いが、当社は素木のままであり、祭神も稲荷神のウカノミタマノカミ(倉稲魂神)ではない。伊勢外宮に祀られるトヨウケヒメノオオカミは丹後(古丹波)のに祭られていたものを分祀したと伝えられ、【羽衣天女】だともされている。
 仮説になるが、鳥羽天皇が伊勢から祭神を迎える前、すでに当地には稲荷神社があったのではなかろうか。

●27229 四條畷市

●27230 交野市

●27231 大阪狭山市
◆01056 狭山神社祭
□社名 狭山神社
□所在地 大阪狭山市半田
□祭神
アマテラスコウタイジン 天照皇大神
スサノオノミコト 素盞嗚命
配祀
オミサヤマノミコト 臣狭山命(狭山連の祖神)
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
合祀
オオヤマツミノカミ 大山祇神
イナダヒメノミコト 稲田姫命
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・狭山
・東村
・川向
・前田
□汎論
狭山神社は延喜式神名帳に記載される古社。

●27232 阪南市
◆02751 阪南波太神社秋祭
□社名 波太神社
□所在地 大阪府阪南市石田
□祭神
ツノコリノミコト 角凝命
オウジンテンノウ 応神天皇
ジングウコウゴウ 神功皇后
タケノウチノスクネ 武内宿禰
アメノユカワタナノミコト 天湯河板擧命
□祭は一〇月上旬
・石田
・自然田上組
・自然田上東組
・自然田東組
・鳥取中
・山中
・和泉鳥取
・黒田
・下出
・尾崎(旭町、宮本町、大西町、相生町)
・新
・貝掛
・鳥取(波有手組、鳥取上組、鳥取栄組)
・山中渓
櫓があったというが現存しない。
・福島
・桑畑
□汎論
 波太神社は延喜式神名帳に記載される古社。古来、鳥取大宮と称し又は波太八幡宮の社などともよばれている。いわゆる鳥取の地で、鳥取氏の祖神とされるツノコリノミコト(角凝命)を主神としてほかに皇室神が祀られる。三十六歌仙額が伝わり、大阪府の指定文化財となっている。
 波太は秦で、古代には秦氏の一族が栄えた地だったと推定される。
 祭には「櫓(やぐら)」がでる。
和泉文化ではなく、紀州文化の北上である。まだ道路整備が不備だったころの孝子峠は
、国道二十六号線を上り詰め、和歌山県にくだると紀ノ川が見えた。大阪府と和歌山県の境界だが峠を越えて大阪府に影響を与えている。

◆菅原神社
阪南市箱作
□祭は一〇月上旬
櫓が一臺ある

◆加茂神社祭
□社名 加茂神社
□所在地 大阪府阪南市箱作
□祭は一〇月上旬
□山車
櫓が一臺ある。
・箱作西
□問い合わせ
阪南市生活商工課
電話0724-71-5678

●27301 島本町
◆水無瀬神社の松囃式

●27321 豊能町

●27322 能勢町
◆能勢祭
町内に浄瑠璃シアターがあり、館内に山車が展示される。

◆岐尼神社祭
能勢町森上

●27341 大阪府泉北郡忠岡町
◆01531 忠岡神社祭
□社名 忠岡神社
□所在地 大阪府泉北郡忠岡町忠岡中
□祭神
スガワラミチザネコウ 菅原道真公 旧菅原神社
スサノオノミコト 素盞嗚命 旧八坂神社
サヨリヒメノミコト 狭依毘賣命 旧厳島神社
タケミカヅチノミコト 武甕槌命 旧春日神社
フツヌシノミコト 経津主命 旧春日神社
ヒメオオカミ 比淘蜷_ 
アメノコヤネノミコト 天兒屋根命 旧春日神社
タクハタチヂヒメノミコト 栲幡千千姫命
アメノミナカヌシノミコト 天御中主命 旧天一神社
忠岡戎神社
コトシロヌシノミコト 事代主命
旧事代主神社
□祭一〇月上旬。
□山車(地車)
・生之町
・道之町
・仲之町・濱之町
・馬瀬
現存しない。休止中。
(順不同)
□汎論
忠岡神社の創祀は不明、多くの神を祀られている。現在は海岸線よりやや後退しているが創祀時は海に向かって建てられた神社だったと推定される。旧天一神社にアメノミナカヌシノミコト((天御中主命)が祀られるのは創祀の古さを象徴しているように思え、注目される。現在見られる地車は、大正以後に建造されている。

●27361 熊取町
◆00655 熊取大森神社秋祭
□社名 大森神社
□所在地 大阪府泉南郡熊取町大宮一丁目
□祭神
スガワラミチザネ 菅原道真
ヤエコトシロヌシノミコト 八重事代主命
□祭は一〇月上旬。
山車(だんじり)を曳く。
□山車(だんじり)
・大宮
宮本。祭事を執行し地車曳行は殿(しんがり)をつとめるのがならわしである。
地車の建造は昭和八年(一九三三)。
工匠は植山宗一郎。
彫刻は吉岡義峰、森曲江。
・大久保
・五門
・紺屋
・野田
・朝代
・七山
・小垣内
・久保
・和田

 


・小谷 
□汎論
 大森神社の創祀は不明。古くは穂輪明神の名があり、別当寺として金剛法寺があって、神仏混淆がつづいた。明治期の廃仏毀釈により寺院は廃寺となった。社記によると、天正一〇年(一五八二)四月、根来右京之進藤原盛繁が社殿を再建したとあり、当時は紀州支配地だったかもしれない。正保年間(一六四四ー一六四九))以来、熊取庄の惣社だったといわれる。
 野田神社、成合の雨山神社と共に熊取三社といい、しばしば合同で雨乞い神事が行われてきた。
 秋祭には地区の氏子が地車を曳き奉祀する。
 地車の建造は各地区、明治以降の建造である。

●27362 田尻町
◆02055 嘉祥神社祭
□社名 嘉祥神社
□所在地 大阪府泉南郡田尻町嘉祥
□祭神
ウケモチノカミ 保食神
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
一臺を曳く。
昭和七年(一九三二)の建造。
工匠は絹井楠次郎。
彫刻は田沼征信、玉井行陽、松田正幸。
□汎論
 嘉祥神社の創祀は不明。社号につけられた「嘉祥(かしょう、かじょう)」は、日本の元号にある八四八年から八五一年までをいう。町名も嘉祥であるが神社の創祀時を指しているかどうかはわからない。食べ物の神を祭神とする。本殿は安土桃山時代の建築で、大阪府の有形文化財に指定される。

●27366 岬町
◆03783 深日国玉神社例祭
□社名 国玉神社
□所在地 大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)
摂社
 戎神社
  事代主大神
  品陀和氣命
  大雀命」
 祓戸社
  瀬織津比賣命
  速秋津比賣神
  氣吹戸主神
  速佐須良比賣神
 五社
  天照皇大御神
  豐受比賣大神
  大山祇大神
  底筒男大神
  中筒男大神
  表筒男大神
  息長足比賣大神
  日本武命
  大國主大神」
□祭神
オオクニヌシノミコト 大國主大神
カモワケイカヅチノカミ 賀茂別雷神
□祭は一〇月上旬。
□汎論
 国玉神社は延喜式に記載される古社
近くに淡輪(たんのわ)があるが、これは兵庫県伊丹(いたみ)、京都府丹波(たんば)と同義であろう。古代出雲系氏族の支配地だったと考える。カモワケイカヅチノカミ( 賀茂別雷神)が祀られたのは後年である。
南大阪地方はひろくだんじりが曳かれるが、孝子峠(きょうしとうげ)を越え和歌山県にはいると、紀ノ川沿いの橋本市など一部でだんじりが見られるものの、山車は櫓(やぐら)に変わる。岬町深日国玉神社の例祭に櫓が出るのは和歌山県地方の山車文化の北上と考える。

◆01887 船守神社祭
大阪府岬町淡輪
船守神社
□祭神
キノフナモリ 紀船守
イニシキイリヒコノミコト 五十瓊敷入彦命
キノオユミノスクネ 紀小弓宿禰
□祭は一〇月中旬
山車(櫓)が出る。
・大西組
・大東組
・堂組
・淡輪連中
□汎論
 船守神社の創祀は不明。大阪府の南部にあり、さらにその南は紀州(和歌山県)である。
祭神は紀氏、山車も紀州の紀ノ川沿いに見られる【櫓(やぐら)】とよばれる舁山で、紀州色が濃い。社伝は豊臣秀頼の命により、片桐且元が造営したと伝えられる荘重なつくりで
重要文化財に指定されている。

◆06670 多奈川住吉神社祭
□社名  住吉神社
□所在地 大阪府岬町多奈川小島
□祭神
スミヨシサンジン 住吉三神?
□祭は十月上旬。  
□山車
山車(櫓)を曳く。
深日(ふけ)地区からゆずりうけて改修された。素木唐破風屋根の単層式櫓である。
頑強な車輪二輪の櫓は、全部に長い差出部がある。
□汎論
 多奈川住吉神社は、南海電鉄多奈川線の終点である多奈川駅の西、小島漁港の北側の明神崎の先端に祀られる。境内は海岸性暖地植物のウバメガシにおおわれる。やきとりにつかわれる【備長炭】はこのウバメガシを焼いた炭で珍重され、各地で多くが伐採された。瀬戸内では「ばあべ」とよんでいる。
 いわゆる太閤検地により、淡輪、深日、孝子、東畑、西畑、谷川、小島の七ヶ村ができたが、このうち淡輪、深日、孝子を除く四ヶ村が合併して、【多奈川村】となった。
 以前は【船山車】を曳いたといわれるが現存しない。
*)
次を参考にさせていただきました。 
 http://m-pe.tv/u/page.php?uid=handa0003&id=3

●27381 太子町
◆03143 科長神社夏祭
□社名 科長神社(しながじんじゃ)
□所在地 大阪府南河内郡太子町山田
□祭神
シナツヒコノミコト 級長津彦命
シナツヒメノミコト 級長津姫命
配祀
 速素盞嗚命
 品陀別命
 建御名方命
 武甕槌命
 經津主命
 天兒屋根命
 天照大神
□祭
□山車
・東條
舟だんじり
・後屋
舟だんじり
・大道町
・西町
・永田町
□汎論
 創祀は不明、延喜式の第九に石川郡九座の一つ科長神社と記載される古社。
当地は神功皇后誕生地と伝え、社宝として神功皇后用いたとされる兜がある。
 風神ともいわれる級長津彦命、級長津姫命を祀る当社は、かって奈良県の県境にある二上山に祀られていたという。和泉地方から大和の當麻(たいま)に通じる竹ノ内街道は日本で最も古い古道とされるが、この道は二上山の南麓を通る。
古くから科長、また磯長の里と言い、息長氏に推定する説があり滋賀県西坂田郡の息長氏とともに神功皇后にゆかりの地だともいう。
級長氏に由緒のある土祖神社の祭神は、息長宿禰、葛城高額媛である。息長宿禰、葛城高額媛の夫婦神は、神功皇后の父母といわれる。
 和泉、河内方面で曳かれるだんじりの祖形と考えられる古態の山車が曳かれる。東條の舟だんじり、後屋の舟だんじりはその姿をよく残している。

●27382 河南町
◆一須賀神社祭
□社名 一須賀神社
□所在地 河南町
□祭神
オオナムチノミコト 大己貴命
アマテラスオオミカミ 天照大神
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
ホムダワケノミコト 品陀別命
□山車
(次の六地区にだんじりがある。「河内にわか」が演じられる。
・一須賀
・山城
・大ヶ塚
・東山
・南大伴
・北大伴

●27383 千早赤坂村
◆02084 建水分神社祭
□社名 建水分神社(たけみくまりじんんじゃ)
□所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分
□祭神
アメノミナカヌシノカミ 天御中主神
アメノミクマリノカミ 天水分神
クニノミクマリノカミ 国水分神
ミズハメノカミ 罔象女神
セオリツヒメノカミ 瀬織津媛神
□山車(だんじり)
・水分
・森屋
・川野辺
・桐山
・二河原辺
□汎論
 建水分神社は延喜式神名帳に記載される古社。祭神アメノミナカヌシノカミ(天御中主神)、水を司る四女神が祀られているのが目を惹く。アメノミナカヌシノカミ(天御中主神)は、宇宙創造、万物生成の神とされる。アマテラスオオミカミ(天照大神)の存在と混同されやすいが、アマテラスオオミカミは太陽神。アメノミナカヌシノカミは全宇宙の神仏教で言えば密教の大日如来の金剛界・胎蔵界にたとえられようか。
 宇宙の森羅万象の事象は、すべて大日如来より繰りだされたものと考えれば智拳印をむすぶ大日如来であらわされ。この世のすべては生きとし生きるものがすべて母の胎内から生まれたもの、宇宙の森羅万象の事象は、すべて大日如来の胎内におさまる。と考えれば法界定印をむすぶ大日如来の胎内におさまる。
 人智を超えた霊の存在を「神」として敬うのは宗教の世界では普遍的であるが、天御中主神はそれらの世界の宗教が立てる神々をも陵駕する。
 アメノミナカヌシノカミ(天御中主神)は、海神氏の思想から生まれた神と考えられる。皇統は、アマテラスノオオミカミを祀り、アメノミナカヌシノカミ(天御中主神)は遠ざけられたから、天御中主神が祭神に祀られる神社は少なく、換言すれば、わが国の神社で天御中主神を祭神とする神社はそれだけ歴史が古く、天御中主神を祭神とする氏族は海神氏あるいは、古代出雲氏族だったと推定される。セオリツヒメノカミ(瀬織津媛神)も同じことが言えよう。
 金剛山を御神体山として、さらにこの山から流れ出す水は河内、和泉を潤し農耕にきわめて重要であった。建水分神社の古代信仰は千早赤阪のみにとどまらず、河内、和泉の古代氏族から篤い尊崇を受けていたと推定する。
 金剛山を東に越せばそこは大和で、ふるい「水分神社(みくまりじんじゃ)」が数社ある。当然建水分神社は各社とは密接な関係にあったと推定される。
□問い合わせ
〒585-8501
南河内郡千早赤阪村大字水分180番地
千早赤阪村役場
電話 0721-72-0081(代表)
FAX 0721-72-1880

●27385 堺市美原区(旧美原町)
◆02057 菅生神社祭
□社名 菅生神社祭
□所在地 大阪府堺市(旧美原町)
□祭神
スガワミチザネ 菅原道真
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
□祭は一〇月上旬。
□山車(地車)
・菅生
・菅生新田
・黒山
存在しない。休止中。
・阿弥
・南野田
・北野田
・北野田駅前連合商店街
(順不同)
□汎論
 菅生神社は、延喜式神名帳に記載される古社。創祀は不明であるが、中臣氏にかかる伝承がのこる。菅生氏は中臣氏から派生した氏族。菅沢の地は菅原道真の出生地だと伝える。


行政コード番号は従前のままです。 
大阪府 20130106 更新

 

 ◆日本山車論
目次
 ◆左甚五郎傳
左甚五郎傳
 ◆斐太ノ工
斐太ノ工
 ◆谷口與鹿
谷口與鹿
 ◆論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆阿波國
◆安房國
◆安藝國
◆伊賀國
◆隠岐國
◆越後國
 ◆古代祭祀と神南備山
古代祭祀と神南備山
 ◆玉依姫  様