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日本の山車 日本の山車
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標題の写真説明
2014-07-01
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  表題の写真説明
 ボックスのタイトル : 中部
 題名 : ◆岐阜県

日本の山車 岐阜県 

岐阜県総論
花馬
 お盆の休み、年末年始はふるさとで過ごそうという帰省客で交通機関や道路は毎年大混雑となる。親は子を慈しみ、子は親を慕う。故郷を離れて仕事についているひとびとにはその日が来るのは待ちきれぬ日々であり、一方故郷を持たぬひとびとは羨望のまなざしを向ける。
 昔は、この帰省すらままならなかった。長野県薮原では、「たとえ、お正月には帰れずとも、祭には帰りたい」と願ったという。おなじようなことばば他の地方でも耳にする。 滋賀県琵琶湖湖北の「丹生の茶碗祭」にはどんなに離れて仕事についていても、祭には若者たちが帰ってきて奉仕するのだという。
 祭には山車が曳かれることが多いが、起伏が多い土地では、馬を綺麗に飾り立て宮入りする風習がある。
 岐阜県、坂下町、福岡町、平成村、長野県伊那の羽広、はるかに飛んで島根県でも行われる。「花馬」という銘菓まである。いちじるしい隔離分布である。

●21201 岐阜市
◆00210 伊奈波神社祭
□社名 伊奈波神社
□所在地 岐阜県岐阜市
□祭神
イニシキイリヒコノミコト 五十瓊敷入彦命
配祀神 
ヌノシヒメノミコト 淳熨斗媛命
ヒバスヒメノミコト 日葉酢媛命
ヒコタツヒコノミコト 彦多都彦命
モノノベノトチネノミコト 物部十千根命
□祭
山車四臺を曳く。
・踊山車
・清影車
・蛭子車
・安宅車
□汎論
 岐阜城のある金華山南麓に祀られる。景行天皇十四年に、イニシキイリヒコノミコトを奉祭するため、武内宿禰を遣わして椿原の地(岐阜公園丸山)に創祀したという。
 ヌノシヒメノミコトは祭神の妃。ヒバスヒメノミコトは祭神の母。ヒコタツヒコノミコトは外祖父。モノノベノトチネノミコトは祭神の事業を補佐した功神とある。
天文八年に斎藤秀龍(道三)が稲葉山を築城したとき現在地に遷座された。
古社であるが延喜式神名帳に記載が無く、美濃国厚見郡に「物部神社」があることから、当社を物部神社に比定する説がある。
「緑したたる金華山、水清冽の長良川」と歌われる岐阜商業の校歌は、甲子園高校野球球児らによく知られ、夏の風物詩である岐阜の鵜飼は全国に知られる。
 山車は「だし」ともいう。町内には「つくり山車」と「からくり山車」があり、会所開きの三月にはいるとすぐに練習が行われた。囃子の練習は、つくり山車とからくり山車では少し異なる。かって、宵宮には勇ましい山車の「まわりこみ」がおこなわれた。川原の提燈は少し大きめで雨に濡れても破れないように油がひいてあった
川原は長良川沿いの町で、湊町、玉井町、元浜町の三町内が交代で山車を出した。出番でない他の二町内では宵宮には「行燈神輿」を出して山車を引き立てた。
名古屋で曳かれていた山車を譲り受けて曳いていた伝承がある。いまは北部の上有知(美濃市)で曳かれている。
美濃市とは古来和紙を通じて親密な関係にあり、岐阜堤燈、傘、今は使われなくなったが謄写版原紙など美濃紙の名は夙に名高い。岐阜市玉井町には長良川から引水した運河があり、往古は和紙問屋が軒を連ねていた。和紙の伝統技術は、越前和紙で著名な今立方面から入ったという。
 濃尾震災以前からからくり山車を保有しており、「お祭銀さ」とよばれる人が二人いてその人が中心になって進行した。出番が当番制になってからも、他の町内から依頼があると代わって山車を出した。車之町は、山車の人形遣い、囃子の構成と分担が決まっており、人形二人、笛四人、鼓三人、太鼓一人であった。
囃子は、道行、早神楽、車切、帰り囃子、早笛などである。矢島町、東材木町からにわか山車がでたことがある。

◆00594 加納祭
□社名 加納天満宮祭
□所在地 岐阜県岐阜市加納天神町
□祭神
スガワラミチザネコウ 菅原道真公
□山車
・鞍馬車(くらましゃ) 加納本町五丁目。
本座人形は牛若丸、大天狗(山伏)。
麾振人形は小天狗(采振り)
蟻通□(□、やま、文字なし、車偏に山)、傀儡車、と改称を重ねている。機巧人形を収める箱に、明治三十五年(一九〇二)とあり、この時期に鞍馬車に改称された考えられる。
機巧人形の牛若丸は戦前にすでに動かなくなっていたが、平成十五年の秋に復活した。
以下は山車が現存しない。
・本町一丁目 龍田人形車
・本町二丁目 文字書き唐子車。
・本町三丁目 恵比寿車。
・本町四丁目 猩々□(□は、やま、文字なし)
・本町六丁目 福寿□(□は、やま、文字なし)
・本町七丁目 鯰押□(□は、やま、文字なし)
 老寿車と呼ばれる山車があった。
・本町八丁目 湯取車
・新町 辨才天□(□は、やま、文字なし)
・清水町 大黒□(□は、やま、文字なし)
・加納天神町四丁目 融車
 源融の人形がのっていたと推定される。
□汎論
 加納天満宮の創祀は不明。
 斎藤宗円は土岐氏の家宰だったといい、斎藤利永はその嫡男である、美濃国守護代に任じられている。文安二年(一四四五)に、沓井城の築城のさい沓井城の鎮守として祀られたといわれる。沓井城は、岐阜市加納丸の内に築かれた平城だったが、天文七年(一五三八)に廃城となった。この沓井城を前期加納城という。
 慶長六年(一六〇一)に、金華山にあった岐阜城は加納に移され、加納藩となり、
慶長八年(一六〇三)に奥平信昌が入り、奥平氏の居城となった。後期加納城という。
 加納は岐阜市の南にあり、中山道六十九次の五十三番の内宿場町として栄えた。
 加納の山車は、昭和十七年に加納天満宮境内に曳き揃えられた五臺の山車を撮影した写真によると、すべて二層式、唐破風屋根、前面に屋根を設けない前棚があり、采をふる麾振人形がのっている。
 山車の名称は「車」のつくものと、「□、(□は、やま、車偏に山、あるいは山偏に車いずれも文字なし」がつかわれている。車偏に山と書く「やま」は、西濃(岐阜県南西部)、北陸の一部に見られる、本町七丁目の鯰押山はおそらく大垣祭の「鯰山」、大垣綾野祭「鯰山」などに見られる、老人が瓢箪でなまずを押さえようと苦慮するからくりが行われたかもしれない。
 岐阜市加納の山車はその形態を尾張にもとめながらも、一面で西濃を経て上方に志向があったと推定される。
 記録によれば加納町は本町三、四、五、六、七、八丁目、西天神町、清水、東天神町の九つの町内に山車があったといわれる。明治二十四年の濃尾大震災で多くの山車が失われたが、松屋町の山車も震災で罹災し、山車を失った。さらに戦争による空爆で壊滅的な打撃を受けた。
 近年盛時の山車の幕が見つかるなど地元の山車への関心は深い。山車の復活を期待したい。
□山車文献資料
岐阜市史 通史編 民俗
[山車文献資料]
笠松町史 上、下

◆00468 美江寺お蚕祭
岐阜県岐阜市
 大正年代のはじめころより二月の初午に「お蚕まつり」が行われるようになった
養蚕組合や円鏡寺の檀家が山車を出して曳き、猩々の人形を山(文字なし、車編に山)の上に飾ったが、人形は藁や竹で作られた。笠松町史に岐阜市美江寺町、観昌院、美江寺祭「猩々の曳山を曳く」。の記事がある。この山車は明治二四四年一〇月二八日の濃尾大震災で失われた。大正七、八年には繭のかたちをした「まゆだんご」が撒かれ、なかには金子が入っているものもあって人々はあらそって拾った。

◆02035 手力雄神社祭
岐阜県岐阜市

●21202 大垣市
◆00013 大垣祭
岐阜大垣市
□山車
・相生山 本町
寛政一〇年(一七九八)相生山の名で曳かれる。旧臺名を神楽山といったが、明治二〇年(一八八七)焼失した。その後復興されたが、昭和二〇年(一九四五)戦災により焼失した。
・菅原山
見送りは岩上猛虎図 極彩色で、大橋水石の画、大正一四四年の作。
雲龍図は水墨画で上田秋陽の画。昭和四〇年頃の作。
水引幕も雲龍図  大橋水石画、
群虎之図 彩色 振金地 大橋水石画、大正十一年
大幕は緋羅紗で無地。
からくり人形があり、文字書き人形が文字を書く。
額持ち人形、塩振り人形いずれも玉屋庄兵衛の作。
屋形には扁額をかける。菅公の詩で軍人東郷平八郎の書。
御幣は紙地に金箔を押す。
・愛宕山
見送りは高橋杏村の下絵。
白羅紗地金糸刺繍浮上模様。
黒別珍で縁ち取りする。
天保一二年の作。
見送房は絹製黒色。
天保一二年の作。
水引 前水引は高橋杏村の下絵で、金糸で群鳩を刺繍する。
嘉永二年の作。
横水引は、唐草花模様の総縫で天保一二年の作。
総絹糸刺繍浮模様 中国製。
大幕は緋の大幕は羅紗地 イギリス製
水幕は高橋杏村お下絵。木綿地に染抜の描画がある。
白房は総絹糸。明治三年の作。
人形は神功皇后で、頭は藤元雲並の作。木製。
昭和二〇年
神功皇后の衣装、狩衣は京都杉村商店の作。本金欄。
昭和四〇年の作。
竹内宿禰の人形は玉屋庄兵衛、昭和四〇年の作。
竹内宿禰の衣装は京都杉村商店。嘉永年間という。
からくりの神官(狂言師)は三代目・玉屋庄兵衛の作。
神官の衣装は本金欄これも嘉永年間杉村商店でつくられた。
蜑女(唐子)は昭和四〇年玉屋庄兵衛の作。
蜑女の衣装、杉村商店で嘉永年間、本金欄でつくる。
人形臺台は嘉永二年の作。
錦の御旗は杉村商店。
昭和五〇年に総絹綴織で刺繍したもの。
吹き流し、杉村商店。昭和五〇年の作。
総縮緬五色に染め抜き
屋形の幕房は紫色総絹糸。
昭和三五年。
屋形の障子は木製、朱塗に布を張る。
昭和五六年。
御簾
支那竹 絹製紫布の縁取り
暖簾は絹地昭和三〇年
提燈
紋提燈で三五〇個。
提燈付け枠
雪洞(ぼんぼり)は一五.
昭和五五年。
・玉の井山
見送りは、謡曲玉の井の能
三人仕舞姿図
水引幕は海草模様 万暦龍
大幕
緋幕 本赤別珍製。
人形は玉の井人形。
玉の井人形裏幕 白正絹。
旗は屋形横旗正絹紅白縁取り龍模様
・榊山 竹島町
見送りは王仁・阿直岐之図。下絵は竹光一六。
漢詩 江馬元齢
縫製は、宇佐美茶次郎
明治三二年の作。
黒房
見送り、榊山。三井養拙。
水引幕は群雀図。
下絵 戸田氏貞夫人で平成五年の作。
脇水引幕の下絵は百花百鳥之図で、上田秋陽の作。
西陣の綴織
縫製は森岩三郎。
大正一五年の作。
屋形後幕
緋幕前
緋幕脇
垂幕
前山人形は神官で、玉屋庄兵衛 明治一二年の作、
本山人形は天鈿女命で、これも玉屋庄兵衛、明治一二年の作。
屋形の飾物は昇龍。
提燈は一三二。
雪洞一一。
提燈枠は六。
・松竹山
見送りは仙人が一巻を授かる図。作者不明。
文化五年四月。総綴織刺繍。
昭和六三年一〇月総綴織刺繍。
大山水引は京都高島屋。昭和一四年一月。総綴織刺繍。
水引幕は、近江八景遠景図。総綴織刺繍。
人形は弁財天。松下宗琳の作。
昭和六四年四月。
大山人形は龍神。浅野新蔵の作。明治二九年五月。
緋幕 大幕緋羅紗無地。
・鯰山
見送りは安藤刺繍製作。昭和三三年。
夜宮の見送りは上田刺繍で、平成二年の作。
水引幕は守屋多々志の画。昭和二五年。
横幕は緋羅紗、裏綿打ち 昭和二六年の作。
横幕房は絹製。黒。
翁人形は、頭 中村暉。昭和二五年の作。
枢体は木製 材は樫 寛政年間の作。 
衣装は金襴。武田法衣店。昭和四七年 
鯰の主要部は木製で寛政一三年の作。
唐獅子百態。木製。森丹渓、昭和三四年の作。
鳩は木製 森丹渓 昭和三十四年。
屋形
袖、前面左右、後面左右。冨士工芸で平成二年。
御簾は竹製。左右、前面、唐箕屋。平成二年。
幕は京屋呉服店で昭和五〇年の作。
房も京屋呉服店で、おなじ昭和五〇年。
提燈は一六〇
雪洞は二八

◆白髭神社祭
□社名 白髭神社
□所在地 岐阜県大垣市
□祭は一〇月上旬。
・神楽山
・猩々山
・鯰山
・獅子山
・子獅子山
すべて名古屋様式の山車である。 

◆00136 綾野祭
岐阜県大垣市

◆01220 久瀬川祭
岐阜県大垣市

●21203 高山市
◆00063 山王祭(日枝神社祭)
□社名 日枝神社
□所在地 岐阜県高山市城山
□祭神
オオヤマクイノカミ 大山咋神
□山車(屋臺)
・~樂臺
一之町
神樂臺は道開きともいい、すべての屋臺の先頭を曵く。神樂臺の演奏で獅子舞がおこなわれる。楽人は五人で、二人は大太鼓を打つ。両面から同時に打つ両面打ちで、太鼓の両側で体を神楽の外に水平になるまで反らせて打つ。わずかでも打つ呼吸があわないと音が歪み、たいへん難しい打ち方であるが、平然と打っているのは
たいへんな技量である。
神楽の前で行われる獅子舞の頭は、京都の臨時豊国祭で用いられたもので、祭に参加した金森長近が高山の山王宮に寄進したもの。頭が大きく、油単も他の獅子舞とは異なり茶色である。他の獅子舞はすべて深い緑色である。高山祭の嚆矢となった格式と由緒を誇る。屋根のない無蓋車で上臺には屋根がない。総社祭の神樂臺は高山の山車の中で唯一屋根をもつ。上臺の勾欄は四方を切る。太鼓枠を立て枠の中に大太鼓を吊る。
建造は谷口家が関わっているが、その時期は文化年間と推定される
見事な巻龍の彫刻は谷口與鹿が安政三年に帰郷のときに彫刻したものである。
正面中臺の胴の間には蕨手の枠を入れ、枠のには簾をさげ神鏡をかける。
大幕上部には注連縄を刺繍する。
・三番叟
三番叟は諸藝のなかでかならず一番に演じられる。めでたい祝藝である。
これにあやかって、この屋臺は曳行順をきめる籤をひかず、神樂臺に従い常に先頭を曳かれる。
しかし、当初から三番叟として建造されたのではなかった。
「恩雀」という臺名があったことが知られているが、これは、当時この屋臺で、日本昔話の「舌きりすずめ」のからくり人形戯が行われたことによる。
中臺胴の間を大幕で覆い、正面で絞る。そのうえを唐織の水引幕をかける。
屋臺の四隅に伊達柱をたてず、柱を見せない構造になっている。
上臺の機関樋のうえで人形が三番叟を演じる。黒き翁の面をつける所作は「はなれからくり」で、からくり人形戯の至藝である。
昔は、面がなかなか正面につかず、これが愛嬌で人気があった。
下臺窓は変形卍くずしとなっている。
□山車文献資料
寥郭堂文庫資料

・五臺山
創建年代は不明である。
寛政年中(一七八九−一八〇一)の記録があるのでこの当時すでにあったと推定されている。文化四年(一八〇七)頃には盧生の臺名ででており、操人形があった
盧生のからくりは、いわゆる「邯鄲の夢」を人形が演じるもので、人生の栄枯盛衰はまるで夢のように儚いというたとえで、盧生が進士の登用試験である科挙にむかう途中、邯鄲の旅宿で、道士の呂翁から枕を借りて眠ったところ、宿屋の主人が炊事をするまでの間に栄えたり衰えたり、長い一生の夢を見た。という故事である。枕既済、枕中記ともいう。文化一二年(一八一五五)臺名をそれまでの「迦陵頻」から「五臺山」に改めている。
明治二三年から三年かけてで大修理を行い現在の形になった。
基枠(臺輪)は欅材で黒漆塗り、金具付き。
車輪は御所車で、基の内にはいる内輪車、黒漆塗り、金具付き四輪車
下臺には六体の彫刻「飛び獅子」がある
製作は諏訪の和四郎といわれるが、谷口與鹿である。
中川吉兵衛の紹介状とともに、與鹿がほぼできあがった獅子の彫刻をもって諏訪に赴き、和四郎の監修を得たあと、獅子を持ち帰って仕上げて屋臺に収めた。当時無名だった與鹿より、和四郎の名の方を喜んだ。
諏訪の和四郎作との誤解があるが、獅子にあわせて屋臺を造るわけではないので、仮に和四郎が彫刻するとすれば、屋臺全体と微妙な納まりの寸法、全体の調和を考えないと彫刻にはかかれない。したがって和四郎が彫刻を依頼されれば、高山まで「出づくり」しないと作れないわけである。
後日與鹿は、この獅子について「往年の作などとくと鑑賞いたさせ美を採り拙を捨て……」といっている。この六体の獅子は谷口與鹿の作である。
上臺と、中臺の欄間には極彩色の華麗な牡丹が収められているが、これも與鹿の作である。いわゆる「與鹿の牡丹」とし著名である。
中臺には獅子と牡丹を刺繍する緋羅紗の大幕をめぐらせている。
この獅子と牡丹の下絵は円山應挙が描き、京都の西陣で織ったもの。
後部にかける見送りは、「雲龍昇天図」。幸野楳嶺の原画をもとに、やはり西陣で織ったもので明治二一年の作。
幸野楳嶺の美術展が、滋賀県立美術館で開催されたが、年譜の中でも彼の代表作のひとつとして位置づけられていた。

・龍~臺
 龍~臺は、文化一三年(一八一六)谷口與兵衛紹芳が主任工匠となり改造をおこなった。明治一三年、谷口與三郎宗之により修理された。中臺欄間波間の飛龍彫刻の下絵は現存する。彫刻も宗之である。宗之は谷口與鹿の兄延儔の子で、叔父と甥の関係である。明治一九年に大改修が行われた。
初期の龍神臺は、屋臺を舞臺として藝能を演じる藝屋臺で、おなじような歴史を持つ青龍臺や、飛騨市・古川祭の白虎臺と共通する屋台だったと考えられる。
長濱祭では屋臺のうえで歌舞伎などの藝が演じられるが、この影響は裏日本、丹後一帯、舞鶴市(現在はなし)、小松市小松こども歌舞伎、小矢部市石動(現在はなし)、礪波市出町子供歌舞伎、入善町(現在はなし)、宇奈月(現在はなし)などにひろく伝播していた。
江戸時代の高山は上方からは「北陸」とみられており、北陸文化の影響を強く受けた。
本町の琴高臺は越中八尾の同名屋臺の影響を受け、赤田臥牛が命名して建造されたものである。文化年間までは舞臺藝として「龍神」が舞われたが、改修時に下一之町から猩々の人形を譲り受けてこれを祭神にまつり、やがて人形が所作をおこなう「龍神」が完成した。竹生島と比定されるが、「猩々」である。
見送りは二幅あって、試楽には玉泉の龍、本祭は久邇宮朝彦親王の書をかける。
今の屋台の屋根は神明造であるが、旧龍神臺の屋根は唐破風だった。
道行の屋臺囃子は龍神臺は蘭陵王を崩した編曲がつ演奏される。

・鳳凰臺

・石橋臺

・惠比壽臺
 谷口與鹿がこの屋臺のを手がけたときの屋臺の名称は殺生石で、同名で完成するはずだった。谷口家には殺生石の設計図がある。
作業が進むにつれて、改称の話が進み、できあがったとき「惠比壽臺」と命名されたのは、異国情緒豊かな見送りの入手にあった。
この見送りの脇にたつ「手長、足長像」の彫刻下絵も谷口家にある。他にも、明らかに惠比壽臺のものと思われる何枚かの下絵も残っている。
半月円の窓に彫刻した龍、親子竜はみごとな量感を持つが、與鹿が一番苦心したのは見送り桁の両脇に立つ手長・足長像であった。
與鹿は彫刻の題をきめるにあたって赤田章斎に教えをうけたが、その章斎が闇を得て死去したあとは、その子誠軒に拠った。
赤田誠修館で書籍を借覧し、ようやく行きついたのが、「山海経」だったが、これは写本で図がなかった。この手長足長図が與鹿に届くまで二年近くかかってしまい製作は遅れにおくれ、酒屋の支払いは嵩むばかりで町内でも閉口した話が残されている。
しかし、完成した惠比寿臺はあまりにも豪華で曳くのが憚られるほどであった。
この手長・足長の評判を聞いてわざわざ諏訪の立川和四郎富重が訪ねてきたが、和四郎もこれを見て、愛知県豊田市の挙母祭山車、半田市の山車、静岡県静岡市の浅間神社におなじ手長足長を彫って収めた。評判を聞いて彫られた根付はかなりつくられたらしい。
信州諏訪に手長神社、足長神社があり、「テナヅチ、アシナヅチ」に凝らした解釈があるが誤解である。

惠比壽臺 逸話
惠比壽臺は上三ノ町上組の屋臺で、文化三年(一八〇六)まで芦刈の名で曳かれた。世阿弥作と言われるいわゆる直面ものに題をとった能の芦刈にちなむもので、からくりがあった
一時は芦売りまでに零落した日下左衛門が妻と再開しその後立身する。というもの。
京都の祇園祭にこの芦刈を題にした「芦刈山」がある。
文化四年(一八〇七)に花子と改称されたが、これも狂言に名をとったもので、歌舞伎で演じられる身代わり座禅をからくりで演じて見せるものだった。
人気のあるからくりだったが、わずか三年演じられただけで、文化六年には姿を消した
風俗を紊し好ましくないというお達しがあったからである。まだ見ていなかった人はたいへん残念がった。
文化七年には殺生石と改名された。
これは後鳥羽院の頃洞御所にあらわれた、美女の玉藻の前はひとり院の寵愛を受けるが、じつはこれは金毛九尾をもつ狐が化けたもので、陰明師の阿倍清明に見破られ下野の石にされるというもの。
これを謡曲の殺生石にのせてからくりを演じるものであった。のちこのからくりは、人形とともに古川に譲られた。
山車(屋臺)の曳行記録はしばらく途切れるが、休臺の年もあるところを見ると、かなり傷みがすすんでいたのであろう、十一年後の文政四年(一八二一)に夷の名で曳かれたときにはすでにからくりは上演されなかった。弘化三年(一八四六)より、嘉永元年(一八四八)の三年におよぶ改造は、まったく新臺の建造であった。
通例として、それまですでに屋臺を保有していた屋臺組は、あたらしく建造する場合でもその誇りにかけて、新造とは言わない。大改造、大改修などという。
この屋臺の大改造は谷口與鹿が二十五歳から二十七歳にかけての大作である。
もうすでに與鹿の腕を知った人たちは何の疑いも持たなかった。
こんども、前以上の立派な屋臺を造ってくれるだろう。その期待は與鹿にとっては重かった。
一作ごとの評判が高ければつぎはより以上のものが求められた。
この惠比壽臺には何を造るか? 與鹿はその課題に悩んだ。しかもこの屋臺は造る前から夷臺と臺名が決まっていた。というのも、この屋臺組では高山の屋臺でも随一といわれる猩々緋の大幕を持っている。
近くでみるとさほどではないが、遠くから見るその美しさは比類がない。これに気をよくしている組みの人たちは、京都よりオランダ渡りといわれる秘蔵の織物を入手した。このタペストリー加工して見送りに懸けたところ、たいへんな評判となった
異国情緒にあふれたもので、世人の目を驚かすのに充分であった。組の人たちは、この異国の婦人の見送りがあることを自慢にし、屋臺の名を夷臺と決めてあったのである。しかし、旧屋臺と異人の見送りは、何かしっくりと馴染まなかった。
この点は組みの人たちも十分承知していて、こんどの屋臺ではこの見送りと屋臺とを調和させた屋臺に仕上げてもらいたい。しかも、再来年の春には曳けるように。
と念を押されていた。いくつもの条件が建造着手前に約束されていたのである。
與鹿は自ら築いた世評故に、呻吟することとなった。
来る日も来る日も、この空間処理に腐心した。
例によって酒に浸る日がおおくなった。半年は瞬く間に過ぎたが與鹿は全く仕事のかかろうとしない。こんなことで間に合うんだろうか?
組の人から不満の声が洩れはじめる。
大黒屋、栃尾屋、西瓜屋、洲岬などから大晦日の請求書が回ってくる。その金額を見て組みの人は驚いた。明けても全く仕事にかかろうとしない、酔いが醒めるとどこかにでかけていく。
與鹿は昨年新装なった赤田静修館にいた。
書庫にはおびただしい漢書が積まれていたが、そこには章齋の姿はなかった。このようなとき相談に乗ってくれた章齋はいない。
途方にくれる與鹿は、ついに一巻の書に出逢った。「山海経」である。
紐とくと、まことに難解な書であった。しかし與鹿は丹念に読み進んでいった。目が輝きを帯びてくる。「其の六」まで読み進んだところで、與鹿の手が止まった。
ついに求めるものと出逢ったのである。
「山海経 その六」の「海外南経の海外」のところに、

その西南隅より東南隅にいたるもの、とあり
長臂の国は、周尭国の東にあり、
魚を水中に捕らえ、両手にそれぞれ一匹を持つ
さらにその先、「其の七」には、
海外西経の海外その西南隅より東南隅に至るもの、
の項には、
窮山は軒轅国の北にあり、
その丘は四匹の蛇が絡み合う。
野には鸞鳥が歌い、鳳凰が舞う
民は鳳凰の卵を食い、
甘露を飲み、
欲しいものは思いのまま、
百獣はあい群れてすむ。
その北にいる人は、両手に卵を持って食い、
二羽の鳥が前にいて、彼の行くところをいつも導く。
龍魚は陵に住んでいる。
その様相は鯉のようで、
神仙はこれに乗って九野を行く。
白民の国はその北にあり、
身体は白く、髪を振り乱している。
乗黄という馬がいるが、
狐のようなさまで、背には角がある。
これに乗れば、寿命は二千年を得るという。
粛慎の国はさらにその北にある。
雄常という樹があり、
昔、中国の皇帝の代理が、この樹皮から布を作ったことがある。
長股の国は、雄常の樹の北にあり……

うむ、長股の国か……

長股の国は、雄常の樹の北にあり、
その国の人は股が長く、髪を振り乱している。

うむ……
長臂の国
長股の国
……
長臂の人
長股の人

與鹿はここでついに求めるものにであった。よし、これだ、これを彫ろう。
こうしてついに原案は決まった。しかし、この山海経は写本であったので画がなかった。赤田臥牛が彦根の龍草盧のところで書き写したものだった。しかし、いったいどんな風貌をした人なのだろうか、これがわからないことには手のつけようがなかった。臥牛と同行した人たちも他界している。與鹿はまたしてもはたと困った。
惠比壽臺は立派にでき上がった。
曳き綱に曳かれて、屋臺蔵を出る惠比壽臺を、一目見ようと人が群がったが見た人は一様に感嘆の声を放った。
黒塗りの見送り枠に収まった見送りは、左右に並び立つ長臂人、長股人によって一段と引き立った。この彫刻を見た子供が、思わずおおきな声で「てなが、あしなが」といったが、このよびかたが、この屋臺を親しみのあるものにし、すっかり馴染みふかいものになった。

◆崑崗臺 高山市片原町
 創建年代は詳細不明であるが、組内には安永三年(一七七四)の古記録が残されていることから、早い時期に屋臺があったことが知られる。文化四年(一八〇七)には「花手まり」の臺名があり、そのあと「林和靖(りんなせい)」と改称している。現在屋臺の上に飾られている「林和靖と唐子」はこの改名期の人形と考えられる。嘉永二年(一八四九)に大改修が施されているが、現在の「崑崗臺(こんこう)」の臺名は、このときにつけられたと推定される。
「崑崗」の名称は、梁の周興嗣の著した「千字文」は、一千字からなる文章で構成され、懐素の書でもよく知られる。明代にこれを所蔵していた姚公綬は一字値千金と言ったといわれこのことから「千金帖」の別名がある。
崑崗臺の名はこの千字文の、

  天地玄黄宇宙洪荒
  日月盈昃辰宿列張
  寒來暑往秋収冬藏
  玉餘成歳律呂調陽
  雲騰致雨露結為霜
  金生麗水玉水崑崗

 とあるこの「金は麗水に生じ、玉は崑崗に出づ」に因むもので、玉は崑崗より出たおおきな玉は、屋根の上に飾られている。屋臺の命名は赤田臥牛と伝えられる。
嘉永年間の改修工匠は上野屋宗次。塗師は島田屋小三郎の名が記録されている。
構造切破風屋根四輪内板車
天保時代(一八三〇ー一八四四)から弘化年間には輪和靖のからくりが奉納されていた。輪和靖が可愛がっている鶴を唐子がふざけていたずらをするものであったという。高山の輪和靖とおなじ仕法で行われていたという「からくり人形戯」は、いまも岐阜県養老町高田に伝承されている。崑崗臺のからくりは、いまは行われていないが、人形は動かせるので、いずれ復活の機会があるかもしれない。
見送りには、「白鹿を従える壽老人図」が架けられる。
当時高山では輪和靖と壽老を同一視していたようである。
(一七三三)に飛騨の出身の大工といわれる山本飛騨撤は、名古屋東照宮の林和靖車を製作しており、山車からくりがおこなわれている。
崑崗臺の勾欄柱は竹節の意匠。
中臺胴ノ間の前面で引き回した大幕を絞る。その内側には簾をさげる。
大幕の上部には水引幕ではなく羅綱をかける。
中臺上部には總を九個さげる。
見送りは中国製の寿老人と鹿の刺繍図で、狩野芳崖、菱田春草などおなじ図柄の絵がある
・琴高臺 本町
貫名海屋と琴高臺
儒者として、書画家として名高く、ことにその書は江戸時代の三筆といわれ能書で知られる。阿波徳島の人で、本名は吉井氏。画ははじめ藩の絵師、矢野典博に狩野派を習ったが後に南画に転じた。書はおなじ徳島の西宣行について宗法を学んだが、成長するに従い自分が武士として不適なのを悟り僧となることとした。叔父を頼って高野山に行き、そこで空海の古法帳を臨摸して書家としての腕を磨いた。その後中井竹山の「懐徳書院」に入りのちには塾頭まで進んだ。この懐徳書院は片山北海一派の「混沌社」とともに、当時大坂における二大学派の一つであった。
このころ伊丹郷町より懐徳書院に学ぶ人が多く、加勢屋七兵衛、紙屋七郎右衛門、岡田著斎らがあった。この懐徳書院の門人に岡田著斎があったことがのちの谷口與鹿の後半生に大きな関わりを持ってくる。岡田著斎は通称を鹿島屋利兵衛といい、岡田糠人の父である。酒蔵業を営むかたわら学び、懐徳書院では三ツ村崑山ともっとも親しかった。 著斎は中井履軒の薫陶を受け、その著述である「七経孟子逢原」三十冊を模写した物が今に伝わる。與鹿はまたこれを借りて模写したのである。文政八年(一八二二)十月十五日に死去した。中井履軒は晩年幽人と号し、宗学を修めたが文化十四年(一八一七)八六歳で死去した。履軒は甥の蕉園(中井竹山の子)とともにしばしば伊丹に遊んだ。
 海屋は四国、中国から九州を歴遊したが、長崎では僧鉄翁らと交友があった。
その後東海道から中仙道を漫遊して江戸に出たが、天保八年(一八三七)に高山に入り翌九年(一八三八)までおよそ一年間滯在した。
 海屋の作品は飛騨地方に数多く残されているが、その多くは新装なった赤田誠修館に滞在した。 海屋の滯在の足を長引かせたのは、本町一丁目に建造中の「琴高臺」であった。
 海屋は高山滞在中に松倉山東中腹にある寥郭堂にあそび、漢詩を残している。
 琴高臺は旧臺名を「布袋」といい、文化四年まで曳いた。そのあと改造されて、琴高臺と名を変えた。命名は赤田牛だったが、じつは富山県の八尾に琴高臺があったことからそれ以上の屋臺を建造しようという意欲があった。
 天保九年(一八三八)春の山王祭りにめでたく竣工して曳かれたが、この年の屋臺曳順は記録によると、
番外 神樂臺
 一 三番臾
 二 太平樂
 三 黄龍臺
 四 五臺山
 五 大國臺
 六 龍神臺
 七 殺生石
 八 石橋臺
 九 崑崗臺
 十 琴高臺
十一 南車臺
十二 鳳凰臺
十三 黄鶴臺
十四 麒麟臺
宮本 青龍臺
 の十六臺総揃いで、高山の町は大火、大飢饉をわずか数年で立ち直り、
見事な復興をなしたのだった。 いまはこのうちの何臺かは失われ、この豪華な曳き揃えを見ることは出来ない。 琴高臺の臺名は、中国の「列仙伝」にある琴高仙人の名を取ったもので、琴高は趙の国の人であった、宗の康王に仕えていたが、河北から山西地方を二百年にわたって放浪し、ある日祭壇を設けて潔斎し「龍の子をとってくる」といって水に潜っていった。
皆は水辺で待ったが、果たして約束の日が来ると赤いおおきな鯉に乗って帰ってきた。皆は驚いたが、琴高はそのまま祀堂にすわったまま一ヶ月、ふたたび水に戻っていったという。布袋から琴高臺に改称されたのは、文化十二年(一八一五)のことで、二十四年を経た天保九年(一八三八)ようやく名実備わった優美な姿を現したのだった。
設計、彫刻、鯉の作品いずれも谷口與鹿。大幕は與鹿の下絵をもとに藤井孫兵衛が画き、新宮豊次郎が刺繍をした。
 與鹿の生家があった同じ組の屋臺で、このとき與鹿は十七歳であった。
 この屋臺の学術考証は、二代目誠修館二代目の赤田章斎、意匠、工匠技術は中川吉兵衛が指導した。
この年海屋は六十一歳であった。飛騨の匠の技に驚嘆し、京都に帰ってからもその強い印象を人に語った。
この海屋の来飛は、のち谷口與鹿の運命を決めることになる。 
□汎論
 岐阜県高山市は、いまでも旧国名の「飛騨」をつけて「飛騨高山」とよばれることが多い。「飛騨」の語義は不明とされるが、古い表記は「斐太」である。島根県の簸川、関東に多く見られる氷川などに通じる「ヒ」の國で、茨城県の常陸、大分県の日田、宮崎県の日向(ひゅうが)などに通じる。新潟県には斐太と斐太神社がある。奈良県には、滋賀県には「飛騨」の地名がある。「ヒ」は古代出雲系氏族にちなむと考えられる。
 熊本県も噴煙をあげる阿蘇にちなんで「火の國」とよばれるが、こちらは「ヒの国」ではない。
 高山は左甚五郎に代表される名工、「斐太の工」でよく知られるが、その系譜には謎が多い。全国には斐太の工が建立した神社、仏閣、また彫刻にも優れたものが多く残るが、これらは斐太の工が各地を遊行移動しながら建立したものが多い。また、江戸の蔵前、難波の天満、京都の二条などに出先を構えて、社寺建築受注の出張所がおかれていた。しかし、普通は半農、半工の暮らしだったようである。
 春の高山祭は、旧山王祭である。明治の以後は日枝神社と改称されたが、祭はいまでも「山王祭」とよばれており、東京の日枝神社の祭を「山王祭」とよぶように、定着した呼称には愛着と伝統がある。高山祭の山車は夙に有名であるが、その淵源は、豊臣秀吉の死去七年目の慶長九年(一六〇四)八月十二日より十八日までに齋行された、「豐国大明神臨時祭禮」に遡る。
 豐国大明神臨時祭禮には、長らく豊臣秀吉とともにあった「金森氏」の、長近(ながちか)、可重(ありしげ)親子が、奉行として加わり、臨時祭禮の終了後に拝領した品々を領国飛騨高山に伝え、町衆が高山の鎮守とした山王宮の祭禮にこれら拝領品を用いた祭が行われた。これが春の高山祭「山王祭」の濫觴である。
 春の高山祭「山王祭」で曳かれる山車「屋臺」は、
・~樂臺 上一之町上組の歴史は、太鼓臺にはじまり、あらゆる山車(屋臺)に先行する 。現在の形態は露臺式で、御神幸の獅子舞の演奏を行う。厳密に言えば山車でも、屋臺でもない。
・三番叟 上一之町中組は二層の上臺前部に張り出された機関樋のうえで、機巧人形によ る三番叟で、鈴の段、黒き翁が演じられる。三番叟人形は神の依代である。
・麒麟臺 上一之町下組。
・石橋臺 上二之町、神明町は、ながらく休止していた機巧人形による獅子舞が近年復活した。
・五臺山 上二之町中組は、江戸時代に中国の故事、「邯鄲(かんたん)」にちなみ、盧 生が能楽の「邯鄲」にあわせて舞う機巧人形戯があったと伝えられる。
・鳳凰臺 上二之町下組は、高山の山車(屋臺)のうちでも京都祇園祭の鉾に似ており真 木を高く上に鉾をたてていたが、現在は短くなっている。下部を「網かくし」で覆う。・惠比壽臺 上三之町。
・龍神臺 上三之町中組には、もと八幡祭の旧山車大八臺より、人形「猩々」を譲り受け 、のちに機巧を行う屋臺となった。機巧人形猩々(龍神)が依代となっている。
・崑崗臺 片原町は上臺で林和靖(りんなせい)と唐子の機巧戯をおこなう山車(屋臺) だったが現在は休止している。林和靖と唐子が依代である。
・大國臺は、上臺の俵の上に本座人形、大國主命がのる。
・青龍臺は、江戸時代に「娘道成寺」が演じられていて、狂言の役者が依代だったことが ある。
・琴高臺 本町一丁目。
 ~樂臺以外、山車(屋臺)と日枝神社には関連がない。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆00098 櫻山八幡宮祭
□社名 櫻山八幡宮
□所在地 岐阜県高山市
□祭は一〇月上旬。
□山車(屋臺)
・~樂臺
・布袋臺
・金鳳臺
・大八臺
 高山の屋臺で演奏される屋臺囃子のなかでも、八幡祭の「大八」はとりわけ著名である。大八臺で演奏される「大八」を、そのままか、または何んらかの形で編曲して演奏する屋臺は、八幡祭の
金鳳臺、豊明臺、鳳凰臺鳩峰車などであるが、秋の八幡祭の屋臺のみにとどまらず、春の山王祭の石橋臺、崑崗臺、鳳凰臺、琴高臺、青龍臺惠比壽臺、大國臺などでも演奏される。
 大八臺が正調「大八」であるのは当然として、他の屋臺組でもこれを編曲した「大八崩し」が演奏される
しかし、かっては曲名はおなじでも、その大八崩しは演奏される屋台組によって微妙に音色や調子が異なったものである。
 これは、囃子を指導する師匠や口伝に個性があり、伝承の課程で各屋臺組独自の曲に変わっていったからである。
 「大八」という屋臺囃子は高山の祭囃子固有の優雅なお囃子で、他には例を見ない。
 では「大八」はどのような過程からうまれたのだろうか?
 江戸時代、文化五年(一九〇八)、ふたりの子供をつれ、背中に琴を背負った浦上玉堂が高山を訪れた。もとは白だったであろう着物とも思えない衣服は、長旅にすっかり汚れ、ほこりと汗にもつれた蓬髪は、見る人の眉をひそめさせた。この姿で玉堂は各地を旅し、しばしば物乞いと間違えられて追い払われた。ふたりの子供は春琴と秋琴である。
 玉堂の旅姿を伝える古書はこう誌している。玉堂はこの足で、千種園に田中大秀を訪ね旅装を解いた。
 大秀は、京都で本居宣長に学んだとき、玉堂を知り、琴の教えを受けた昵懇の間であった。この玉堂の高山訪問は驚喜をもって歓迎された。
 大秀が玉堂の来飛を望んだのにはいまひとつおおきな理由があった。
 下一之町の屋臺の改修にあたり、大秀はその相談を受けていた。国学者である大秀は、従来他の屋臺とは趣を変え、すべて和風で
仕上げる構想を練っていたが、おなじ高山町内で漢学の学問所を開く赤田臥牛もこれには賛成していた。
 しかし、各地を放浪する玉堂の所在を掴むのは、至難のことで、臥牛は「白雲中の鶴を探すより難しい」といって嘆いた。その鶴が高山に舞い降りたのだから、そのよろこぶは一様ではなかった。文化五年、玉堂は水戸藩で逗留し、薬種商の感章堂主人の岩田健文に、琴の指導をしたことがつたえられているが、高山を訪れたのはこのあとのことではないかと考えられる。水戸から高山へ道筋は不明だが、中仙道から、碓氷峠を越え、さらに野麦峠を経て高山入りするという旅程だったのではないだろうか。
 高山に旅装を解いたのは、旧暦の七月。暑い夏の盛りであった。
 歓迎を受けた玉堂がさっそく弾琴の披露をしたのは言うまでもない、
大秀は笙、篳篥、琵琶の名手でもあり、玉堂に和して旧交をあたためた。
 その席には赤田臥牛も招かれた。
 玉堂の琴に話しがおよんだ。
 いま一「こと」といえば「筝」をさすのだろうが、「琴」にはこの「筝」と「琴」がある。おおきな違いは、筝は「琴柱」を立てるのに対し、「琴」はこの琴柱がない。
玉堂や大秀が弾いた「こと」はこの「琴」である。
玉堂が大切にしてどこへ行くにも携えた琴は、やはり高山にも持ってきていた。
 大秀は、この玉堂が持つ「琴の複製作りたい」と希望したところ、玉堂は快諾した。しかし、問題はその材料であった。
 大秀からこの話を聞いた臥牛は意外な提案をした。
 臥牛の手元に老杉の材があるというのである。
 この杉は、浅水の地で、日夜、千年の歳月をせせらぎを催馬楽の音として聞きその生命を終えた。その杉材は、ほとんどお堂の建造に用いられたが、いくらかの余材があり、縁あって臥牛の手に入った。
 臥牛はその杉材を提供すると申し出たのである。
 玉堂の琴について
 玉堂の琴を手本に「かんぞう(複製)」する依頼に応じたのは、彫刻の名匠、中川吉兵衛であった。
 吉兵衛は五日ほどでこれを作り上げたが、玉堂はその間付きっきりだったという。
出来あがるや、玉堂は白木のままの琴に絃をはり試し弾きをした。
 固唾をのんで見守る大秀や人々の前で弾き終わった玉堂は、首を傾げていたが、もういちど弾き終わるや破顔して「自分のもつ玉堂琴にまさるも劣らない」と絶賛した。
 大秀が喜んだのは言うまでもない。
 玉堂は大秀を訪ねるほか、飛騨にはもうひとつの目的があった。
 それは「催馬楽」の旧地である、阿左美豆(あさみず)の地を訪ねることであった。
 話しを聞いた一同はその不思議な因縁話に驚いた。
 大秀は、日を選んで酒肴を調えさせ、羽根の阿左美豆の地に玉堂を案内して一日清遊したが、
 玉堂は出来あがった琴を
携え、浅水の地で川傍の石上に坐って数曲を弾き、さらに自ら編曲した「催馬楽」を披露したが、この曲を聴いて感動しないものはいなかった。
 玉堂は、名工、中川吉兵衛をたたえ、この琴は「漆をかけなくても、このままで申し分ない」といい、「浅水琴」と命名した。
このときの様子を玉堂は「浅水琴記」としてに残している。
 浅水橋は、いわゆる催馬楽の歌曲なり。
 戊辰の歳、余は飛騨の高山に遊び叢桂園の主人訪う。
 主人、嘗テ国風を善くす。固より余が知音なり。
 琴酒の余、余に二謂って日く、浅水橋は昔本州の益田川に在り 橋断ゆること今に二百又余年。 
 是を憾となすのみ。
 余行きて其の処に至り、 川上に琴を把りて浅水の曲を鼓す。
 山雨新たに晴れて、流水潺々たり。
 心を洗い思いを滌いで去る。豈に主人、此の巻を出して題を索む。
 展観すること数四。
 酒を呼んで此を書す。
    
大秀もまた、浅水橋について和歌を詠んだ。

  浅水の橋の古こと万代に しらべ伝へむ琴ぞ此こと

 このあと玉堂は、大秀の需で、大八臺の改修工事に意見を述べ、屋臺囃子の作曲と、その演奏の指導を行ったが、やがてできあがった曲を演奏する指導を受けたのは屋臺組を差配していた「大八」の人々であった。
 この屋臺と、優雅な屋臺囃子に満足した屋臺組では、この事跡をながく記念するため、改修なった屋臺を「大八臺」と名づけた。
 このとき「文武」「蘚花」などの琴曲も教えられたというが、屋臺囃子としていつごろまで演奏されていたかはわからない。
 大八臺の上臺には衣桁が五つ備えられ、それには、担当する楽器により五式に色分けされた伶人衣装がかけられていた。
 いまは小幡に変っている。
 秋祭に曳かれる「大八臺」を見ることなく、屋臺囃子「催馬楽」を聞くこともなく玉堂は二人のこどもを連れて飛騨を去った。
 浦上玉堂はこのあと、大秀の紹介で古川町の酒造家である蒲家に一夜の宿を借り、もとめられて「曳杖野檎図」をのこしている。
 船津(神岡町)では、大森家にわらじを脱いだ。
 さらに越中富山を経て、金沢に至り、暫らく滯在したあと、会津に向かった。
 大秀が玉堂を飛騨古川の酒造家である蒲家に紹介した書翰があるが、それによると、

 玉堂先生御出拙家に六十日程御遊、尤拙家は右の事故八幡山勝久寺等に被居候。
 詩画等も被致誠に天下第一の風流士に御座候。
 何卒御世話奉了等潤子共今夜一宿御願申上候。

 とあって、玉堂が高山に滯在したのはおよそ二ヶ月あまり、高山を離れたのはいまの十月中旬から下旬頃だったと思われる。 玉堂が高山滞在中、中川吉兵衛により二面の琴が作られた。一面はさきの「浅水琴」で、今一面は謝礼として赤田臥牛に贈られた。
その琴は、赤田誠修館にしばらく保存されていたが、臥牛の二代目である章齋のとき、谷口與鹿に譲られた。與鹿はかたときもこの琴を手放さなかったというが、こんどは、與鹿がこの琴を手本にしてもう一度つくることになった。 その琴が、上一ノ町の屋臺「麒麟臺」の下臺に彫刻される「唐子遊戯図」のなかで唐子が弾琴する琴である。

・鳩峰車

・~馬臺

・仙人臺

・行神臺

・寶珠臺

・豊明臺

・鳳凰臺

・牛若臺(廃臺)

・文政臺(廃臺)

・船鉾臺(廃臺)

・浦島臺(廃臺)

(順不同)

□汎論
 櫻山八幡宮の祭は、一〇月に齋行される。秋の高山祭で世に知られ春高山祭といわれる、日枝神社祭(山王祭)とおなじように華麗な山車・屋臺が曳かれる。
祭の起源は、高山三代城主だった金森重頼の弟である金森左京重勝より、大太鼓と獅子頭が寄進されたのが機縁だと伝えられる。
大太鼓は京都で行われた太閤秀吉の追悼祭で用いられたものだったゆかりの品だという。宝永五年(一七〇八)に、祭礼に太鼓を打ち獅子が舞う曳臺がでたとあり、これが、八幡神社の神楽臺へと発展した。宮本組といった。

◆飛騨總社祭

◆東山白山神社祭

◆一本杉白山神社祭

◆洲岬八幡宮祭

◆高山屋台会館

◆東山神明神社祭

◆02238 飛騨高山の錦山
 高山市旧市街の東部にある城山は金森長近が豊臣秀吉の命をうけて飛騨を攻め、平定後に築城した山である。そのさらに東に錦山がある。独立したなだらかな裾を曳いている。古来その美しい姿はよく知られ、飛騨八景のひとつに数えられている。神南備山であることには疑問をさしはさまない。
 西南の麓に荏名神社(えなじんじゃ)がある。荏名神社は延喜式神名帳に記載される古社であり、高山の国学者として著名な田中大秀(たなかおおひで)が、現在の荏名神社鎮座地を特定し千種園を寓居としたことでも知られる。いまでは何の疑問ももたれていないが、考証に疑義がある。錦山の山頂に奥社があり、荏名神社はその里宮だったと考えられる。現在錦山神社があるが、その社地は旧荏名神社の社地だったと想定される。

◆東山白山神社祭
祭礼は五月上旬。
神樂臺
工匠、谷口與鹿
神樂臺建造まえに曳かれた太鼓枠が現存する。枠にからまる龍は谷口與鹿の作。
この山車は、綱で曳かず、肩綱で曳く。
昭和30年代、神輿蔵から円空の如意輪観音像がみつかり話題となった。
弘化四年
惠比壽臺の改修と併行して東山にある白山神社の神樂臺の建造が始まっていた。白山神社では初めての屋臺で、與鹿は彫刻を担当することになっている。惠比壽臺が完成すれば、すぐそちらに合流しなければならない。
そこへ、石橋臺改修の依頼が持ちこまれた。白山の神樂が竣工した後は、八幡の屋臺である下一ノ町上組の金鳳臺の修理にかかる予定である。本町下の應龍臺の受注が決まった後だった。しかも、施主は着工を急いでいた。
とても受注に応じられない。
弘化五年(一八四八)は、二月二十八日に改元され、宋書の「皇享多祐嘉楽永無式」
にあやかり嘉永と名付けられた

◆23553 應龍臺
(旧臺。現存せず)

 谷口與鹿はひとりの男とすでに長いこと話しこんでいる。場所は與鹿の仕事場、そばにはほぼ仕上がった白山の彫刻がある。男の年の頃は五十歳くらい。父親と息子くらいのひらきがある。しかし二人の話し方は年の里を感じさせない親友のような口吻だった。すでに相当の酒が回っている。男の名前は松田亮長(まつだすけなが)。
與鹿はこの人が好きだった。美人のおかみさんがいる。「高山にすぎたものは、屋臺と亮長のかみさん」と評判である。どこで覚えてきたか悪餓鬼どもが、亮長の姿を見るとはやしたてる。
亮長は昼過ぎ、いつになく神妙な顔で與鹿の仕事場に現れた。話は、近く始まる應龍臺の建造に仲間として加えてもらえないか? というのである。
腕のいい彫刻師で、與鹿はいつもこの人にはおよばないと思っていた。いつかはこの人をしのぐような仕事がしたい。
亮長蓄財ということには全く無頓着な人で、宵越しの銭は持ったことがなかった。
なにがしかの銭が入ると行きつけの飲み屋にすっかり預けて、仕事があるまで毎日飲んでいた。まとまった金がはいると旅に出る。
したがって、近頃とみに有名になった與鹿に対しても、まったく妬みというものがない。「まったく不徳の至りよ」
亮長はぽつりと言った。
日頃の不行跡がたたって、日々を糊塗する借財が積もりつもって三両あまり。
貸した松田屋はもう猶予ならん、元利五両一分二朱をいますぐ支払えといってきかん。
しかしこのような大金、全く金策が立たない。
「わしも、彫刻を仕事にしておりながら、屋臺の仕事は手をつけたことがない。
しかも、こんどは同じ町内の屋臺じゃ、いくら何でも肩身が狭い」。亮長の話とはこのようなものだった。
さっそく兄に伝えたところ、「願ってもないことじゃ、本来亮長さんの仕事じゃろ」
ここに金鳳臺組よりいただいた手付け金がある。このうちから少し渡したらどうかな
「まあ、よろしゅう頼みますわいな」
亮長は何度も頭を下げながら帰っていった。
高山下一之町下組の金鳳臺は文政元年(一八一九)吉野屋が全額寄付してで来た屋臺である。形のよく整った優雅な趣のある屋臺で、建造後三十年ほどたってはいるが、まだ手を入れる必要は全くない。
屋臺は歌舞伎と同じように、日が変われば出し物が変わる。いつまでも同じ屋臺が曳かれることはない。今年見落とせば来年は見られないかもしれない。来年屋臺を曳くお許しが出るかどうかわからない。一回の曳行が屋臺のすべてである。
記録などは必要ない。これが「粋」というもの。来年は来年の屋臺を造る。いつまでも同じ姿をさらすことはしない。
屋臺建造にかける高山町民の心意気であった。どのようにりっぱであっても未練はない。「高山の屋臺」は、まさに「粋の文化」である。
この屋臺建造費のほとんどを提供した吉野屋だが、さすがに渋い顔をした。
「金子お入り用の節はお指し図のまま」といっておいた與鹿から無心されたのである。
その金子入用の理由が、亮長の借財の肩代わりだった。

嘉永三年應龍臺は立派にできあがった。上山の機関樋のうえでは華萼桜戯のからくりが演じられている。おおきな拍手が鳴り響いた。亮長は仕事部屋をかたづけ余材を運んでいるとき鴨居のうえに見慣れぬものがはみだしているのを見つけた。
黒い漆塗りの硯箱で、蓋を取るとなかには袱紗の包みがはいっている。
おもわず大声で女房に声をかけた。
泣き伏している女房のよのを宥めなだめて聞きだした話は亮長を激怒させた。松田屋の借金取り立ての催促は仮借無かったが、それは下心ゆえであった。
よのは金子の返済に行ったのだが、金では受け取れないといって、ついに自分の思いを遂げたというのである。本町を駆け抜けると、陣屋の門は閉まろうとしていた。そこでちょうど脇門から出てきた役人の富田禮彦とばったりあった。禮彦は同じ町内の人である。
いつもの柔和な目が笑っている。「亮長、このたびは上首尾だったな」。應龍臺のことを言っている。
「そんな話じゃないんで」。
「何かな」。
じつは、面目ねえんですが」一部始終を聞いた禮彦は亮長にいった。
「堪忍してやれ」
「は?」
「女房のことは忘れてやれ」。
「は?」。
禮彦は厳しい目つきになって亮長を見た。
「うむ、この話を役所で聞くと、松田屋だけの詮議ではすまなくなるぞ」。
亮長は、はっとしたように顔を上げた。
「ごもっともで、いや、いかにもごもっともで」
禮彦に礼を言うと、亮長はしょげながら帰っていった。

禮彦は自宅に帰ると、その夜の日事記に「亮長、棹代五両」と書いた。
この話しがどこから洩れたものかわからない。
いつもの悪餓鬼どもが、亮長を見るとはやし立てる。
「やーい、棹代五両」
いつになく亮長は虫の居所が悪かった、逃げる悪餓鬼を追かけおもいっきり殴りつけた。「このくそガキが、思い知ったか」
「かんにん」
「どこのガキだ」
「かんにん」
「なまえをいえ」
「…………」
「太い野郎じゃ」
「大人をからかいおって」
「ゆるさんぞ」
「ちゃんと名前をいえ」
「てつ、……鉄太郎」
「うちはどこじゃ」
「このさき」
「これこれ、大の大人がそこ何をしている」
「小野様のご子息だぞ」
「……え?」
亮長は青くなった。小野様はひだ郡代小野朝右衛門である。
「えらいことになった、こりゃお手討ちじゃ」。
「とにかくお詫びに」。
そこへちょうど朝右衛門の奥方、磯が通りかかった。
「あ、いそさまじゃ、奥方さまじゃ」
「…………」
「鉄太郎、お前がいけません」。磯は鉄太郎をたしなめると帰って言った。
小野朝右衛門はこの磯に頭が上がらない。

この鉄太郎、評判の悪餓鬼で、こんな話がある。
或る日鉄太郎は高山の東山にある「宗猷寺」に代官所の役人を連れてきて、鐘楼にはしごをかけ、なにやらしようとしている。
和尚がでてきて「これ、そこでなにをしている」。
鉄太郎大きな声で「約束の鐘をもらいにきたぞ」。
和尚は「ばかもん。お前にやるといったのは、音だけじゃ」。
聞いた鉄太郎はすっかりしょげてしまった。
この悪餓鬼、のちの山岡鉄舟である。

春の山王祭りも無事すんで、亮長は面目をほどこした。

◆一本杉白山神社祭
□神社、白山神社
□所在地 高山市 
□汎論
 境内にかって戦勝を祈願した吉凶を占ったという「矢立杉」があり、社名にもなっている。
江戸時代氏子域に、天領代官所(郡代)役宅が多くあり崇敬が厚かった。境内には代官が寄進した水鉢がある。かって山車があったが。飛騨市(古川祭)に譲渡された。いまは山車はない。

●21204 多治見市
◆小木の棒の手
岐阜県多治見市

●21205 関市
◆00375 美濃関祭
岐阜県関市

◆21191 春日神社能楽
岐阜県関市

●21206 中津川市
◆02753 下野白山神社大祭
□社名 下野白山神社
□所在地 岐阜県中津川市下野
□祭
山車を曳く。
□汎論

◆21190 中津川歌舞伎
岐阜県中津川市 

●21207 美濃市
◆24715 金峰神社
□社名 金峰神社
□所在地 岐阜県美濃市片知猿洞
□祭神
ザオウゴンゲン 蔵王権現
□汎論
 金峰神社は、高賀山を囲む高賀六社の一社。片知川沿いに祀られる。高賀山および高賀六社をめぐる一帯は、美濃の霊山とされている。早くから仏教徒褶合し、修験道の道場ともされてきた。江戸時代以前にはすでに蔵王権現と名乗り、明治期になって金峰神社となったのは大和金峰神社に倣ったとされる祭神を蔵王権現としているが、座黄金現像はなく阿弥陀如来、十一面観世音菩薩、地蔵菩薩があてられている。
 一般に仏教の尊像を「仏像」と総称するが、仏像とよばれるのは如来に限られる。弥勒菩薩は五十六億七千万年ののちかならず如来になることが約束されているから、将来佛として弥勒如来と呼ばれることがある。しかし、観世音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩ほか菩薩はまだ正覚をえておらず、比丘、比丘尼、羅漢、四天王などは、まだ佛になっていないのでこれらの尊像は正確性格には仏像ではない。

◆24714 瀧神社
□社名 瀧神社
□所在地
岐阜県美濃市乙狩神矢洞
□祭神
セオリツヒメノカミ
□汎論
 瀧神社は、高賀山囲む高賀六社中の一社。乙狩川(御萩谷)沿いに祀られる。創祀は承平三年(九三三)とあるが異説がある。境内に清澄な滝があり、これを神格化しセオリツヒメ(瀬織津姫神)に見立て、社名の由来ともなっている。
 セオリツヒメノカミ(瀬織津姫神)は謎の多い神で、古事記、日本書紀にその名の記述がない。しかし、伊勢内宮の別宮である「荒祭宮」の祭神は、セオリツヒメ(瀬織津姫)であることが記され、兵庫県西宮市にある「廣田神社」は、天照大神荒御魂を主祭神としているが、かつては瀬織津姫を主祭神とすしていた。広田神社があればちかくにはかならず西宮神社があるといわれる。岩手県の早池峰山はセオリツヒメにかかる伝承が多い。
 アメノミナカヌシノミコト(天御中主命)、セオリツヒメノカミ(瀬織津姫神)はいずれも海神氏の祖神として祀られた神と推定されるが、皇室がアマテラスオオミカミ(天照大神)を祖神としたことから齟齬が生じ、皇室からは疎外されたてきたと考えられる。
 アメノミナカヌシノミコト(天御中主命)、セオリツヒメノカミ(瀬織津姫神)がともに高賀六社のなかに見られるのはきわめて示唆に富んでいるといえよう。

◆00203 美濃祭
岐阜県美濃市上条

◆01124 美濃稚児山車
岐阜美濃市   

◆20801 ヒンココ祭
□社名 大矢田神社。
□所在地 岐阜美濃市 
□祭は四月上旬。
□汎論
古い様式をのこす祭。山腹にしつらえられた舞臺で操り人形が演じられる。山車は二臺曳かれる。

◆25991 洲原神社
□社名 洲原神社 
□所在地 岐阜県美濃市
□汎論
 美濃市から郡上市にいたる、長良川の河畔に立つ。
随身門は東の長良川に向かって立ち、前は広い石畳が川まで続く。まえには川のなかに岩座の大岩があり、水はそのまわりをまわって流れ、深い淵になっている。ここがかっての舟着き場であった。
 加賀白山にのぼる参詣道は、石川県の加賀馬場より吉野谷から白山の北龍カ馬場を経て室堂にでる道が本道だったが、いまは中宮を経て市ノ瀬から登る。福井県の越前馬場は、平泉寺を経て登る道。岐阜県は美濃の洲原神社を前宮、郡上の長滝神社を経て、石徹白より白山別山から南龍カ馬場を経由して、室堂に至った。現在は行程の長い越前、美濃方面から登山する人はほとんどいない。
 古代の尾張は白山比唐フ支配下に置かれ、出雲系墾氏が管掌していたと考えられる。
 長良川には水運があり、岐阜市の玉井町、美濃市の上有地(こうづち)は、岐阜堤燈、美濃紙の積み出し湊で賑わった。尾張から白山に参詣するひとも、なかなか白山までは行けないので、前宮である洲原神社にお参りした。今も神社にはかって奉納された立派な社殿がのこる。

●21208 瑞浪市
◆00030 八王子神社祭
岐阜県瑞浪市   

◆00471 瑞浪祭
岐阜県瑞浪市細久手

◆01282 日吉神社人形浄瑠璃
岐阜県瑞浪市   

◆31605 相生座
岐阜県瑞浪市   

◆01760 神明神社祭
岐阜県瑞浪市大町

◆01852 八王子神社祭
岐阜県瑞浪市陶町大川

◆03801 水上神社祭
岐阜県瑞浪市陶町水上

◆04485 神明神社祭
岐阜県瑞浪市   

 

 

 


◆04488 水上神社祭
岐阜県瑞浪市   

●21209 羽島市
◆00095 竹鼻祭
□社名 八剱神社
□所在地 岐阜県羽島市竹鼻町
□祭は五月上旬
竹鼻祭の山車は一三臺ある
□汎論
昔は曳行序列も決まっていた
明治二四年、濃尾震災により焼失した。現在は一三臺
寛政年間より天保年間の建造
震災後再建されたもの
新しく建造されたもの
今町は新規建造
従来は全町そろって曳かれたが、大正一一年より半数が交互に曳かれる
曳行するのは本楽のみで、試楽の日は自由であったがいまは中止となり
本楽の日のみである。
山車が各町内を曳き、芸を披露する。
昭和四八年三月岐阜県重要民俗資料に指定された。
曳き順
 一 宮町    子供の手踊り
 二 大西町   からくり     お湯取り
 三 上鍋屋町  縫いぐるみによる布袋踊り
 四 下鍋屋町  からくり     太鼓打ち
 五 川町    子供の午踊り
 六 下城町   子供獅子
 七 上城町   からくり     太鼓打ち
 八 福江町   からくり     文字書き
 九 新町    子供の手踊り
一〇 中町    子供の手踊り
一一 本町    子供の手踊り
一二 上町    からくり     岩船
一三 今町    子供の手踊り

・大西町
からくり人形によるお湯取り
哀曲芸囃子
・上鍋屋町
布袋踊り
踊りの種類は七福神、三社祭浮かれ座頭、かんかん踊、夏の夕立、
坊さんの頭、そのほか。
・下鍋屋町
からくり人形による太鼓打ち
桃の老樹につるしてある太鼓を、小唐子が大唐子の肩車に乗って打つ。
次に肩車をはずす。
・上城町
からくり人形による太鼓打ち
前人形の唐子は前半は妙鉢をならして遊び、後半は猿の面をかぶり狂舞する。
後人形の唐子は楠の上に上り左手で逆立ちをし、自由に体を転回しつつ、
右手に持つ撥で木につられている太鼓を打ちならす。
・福江町
からくり人形による文字書き
下の端の囃子にのせて台上に立つ人形が旗に貼り付けられた紙に筆で文字を書く
書き終わると白引きの囃子に変わり、台側にいる二人の唐子が嬉しそうに首を
振り、手足を動かして台を回して書かれた文字を披露する。
・上町
からくり人形による岩船
人形は勅使唐子で、勅使が持っている中啓で壺を割ると、中から唐子がでてきて
すぐに龍神の面をかぶり、謡曲の「岩船」の謡につれて舞う。

●21210 恵那市
◆20124 恵那歌舞伎
岐阜県恵那市   

◆01463 鍋山のメンヒル
岐阜県恵那市長島町永田鍋山
□汎論
 分割された磐座。
 加工された磐のあいだに間隙がある。夏至にはこの隙間から日の出が見られることがわかり話題となった。
 双柱のメンヒルとされる。

●21211 美濃加茂市
◆00146 美濃加茂祭
岐阜県美濃加茂市下米田町

◆00204 美濃加茂飾船
岐阜県美濃加茂市   

◆01167 山の講
岐阜県美濃加茂市   

◆01235 若宮八幡宮祭
岐阜県美濃加茂市   

◆03584 諏訪神社祭
岐阜県美濃加茂市   

●21212 土岐市
◆00470 土岐
岐阜県土岐市   

●21213 各務原市
◆00363 鵜沼祭
岐阜県各務原市鵜沼   

◆01074 村国神社祭
岐阜県各務原市   

◆01231 おがせの巻藁舟
岐阜県各務原市   

◆20125 村国神社小供歌舞伎
岐阜各務原市

●21214 可児市
◆00178 可児祭
岐阜県可児市久々利

◆00246 石原の提灯まつり
岐阜県可児市   

◆23825 作用姫伝説
岐阜県可児市久々利   

●21301 川島町
◆00128 川島祭
岐阜県川島町   

●21302 岐南町 

●21303 笠松町
◆00144 笠松祭
岐阜笠松町   

◆01157 円城寺
岐阜県笠松町   

◆01159 笠松巻藁船
岐阜県笠松町   

●21304 岐阜市(旧柳津町) 

●21321 ひらなみ市(旧海津町)
◆00226 稲荷神社祭
岐阜県ひらなみ市(旧、海津町)

◆02239 秋葉神社祭
岐阜県ひらなみ市(旧、海津町高須町)

●21322 海津市(旧平田町)
◆00154 今尾神社祭礼
□社名 今尾神社
□所在地 岐阜県海津市(旧平田町)
□祭神
トヨウケヒメオオカミ 豊受姫大神
アマツオオカミ 天津大神
□祭
□汎論
 今尾の産土神の天津神社が祀られた時期は不明である。
 天津大神は高天原に在り、または高天原から天降った神の総称とされる皇室系神社の神をいう。天津神を「天神(てんじん)」、国津神を「地祇(ちぎ)」とも言い、「天神地祇」、また「神祇」とも言う。したがって天津大神は複数の神ということになる。
 海津市(旧平田町今尾)は、勢州伊勢の神領だった時代がある。慶長十九年(一六一四)に伊勢外宮より豊受姫大神の分祀をうけて神明神社が創建された。天津神社が祀られた時期よりあとのことである。
 明治二十九年(一八九六)の天災で、長良川、揖斐川賀氾濫し神社も流されたが、御神体は無事で、一時神明社に仮祀されたあと、社殿が新築され、そのさいに両神は一緒に祀られることになった。
 三重県桑名市で曳かれる「石採車」と同系の山車が一臺ある。「石採車」はかなり広範囲に分布しており、名古屋市内の神社の祭にも曳かれる例があるが、岐阜県では珍しい。 一月に行われる「今尾の左義長祭」まれに見る規模の左義長として著名で、岐阜県重要無形民俗文化財に指定されている。

◆01418 高田八幡神社祭
岐阜県海津市(旧平田町) 

●21323 南濃町
◆01737 杉尾神社祭
岐阜県南濃町太田地区

◆01794 杉生神社祭
岐阜南濃町

●21341 養老町
◆00057 熊野神社祭礼
岐阜県養老町室原

◆00120 高田愛宕神社祭礼
岐阜県養老町高田

●21342 上石津町
◆02240 八幡神社祭
岐阜県上石津町一之瀬殿垣内

●21360 垂井町
◆00036 八重垣神社祇園祭
岐阜県垂井町

◆00077 南宮神社例祭
岐阜垂井町

◆00767 蛇山神事
岐阜県垂井町

◆20863 表佐
岐阜県垂井町   
 
◆21421 南宮神社の芸能
岐阜県垂井町   

●21362 関ヶ原町 

●21381 神戸町 

●21382 輪之内町 

●21383 安八町 

●21384 墨俣町
◆00100 墨俣祭
岐阜県墨俣町   

●21401 揖斐川町
◆00097 揖斐祭
岐阜県揖斐川町

●21402 谷汲村 
◆23824
岐阜県谷汲村   

●21403 大野町
◆00194 来頭神社祭礼
岐阜県大野町  

●21404 池田町
◆02241 片山八幡宮祭
岐阜県池田町片山

◆06523 天王神社祭
岐阜県池田町下東野   

◆20030 市山からくり花火
岐阜県池田町下東野

●21405 春日村 

●21406 久瀬村 

●21407 藤橋村 

●21408 坂内村 

●21421 北方町
◆00113 北方かいこ祭
岐阜県北方町

●21422 本巣町 

●21423 穂積町 
◆03730 穂積 
岐阜県穂積町      

●21424 巣南町
◆01795 お蚕祭
岐阜県巣南町美江寺

◆03211 巣南祭
岐阜県巣南町      

◆03711 瑞穂天王祭
岐阜県巣南町      

●21425 真正町
◆01796 真正祭
岐阜県真正町      

◆21423 真桑文楽
岐阜県真正町      

●21426 糸貫町
◆00341 長屋神社祭礼
岐阜県糸貫町      

●21427 根尾村
◆21422 能郷の猿楽能
岐阜県根尾村     

●21441 山県市(旧高富町)
◆01798 やんぐるどん
岐阜県山県市(旧、高富町)      

●21442 伊自良村 

●21443 山県市(旧美山町)
◆00352 清瀬、柿野神社祭
岐阜県山県市(旧、美山町)

◆01511 八朔稲荷川祭
岐阜県山県市(旧、美山町)中洞      

●21461 洞戸村 
◆29223 高賀神社
□社名 高賀神社(こうかじんじゃ)
□所在地 岐阜県関市洞戸高賀
□祭神
アメノミナカヌシノミコト 天之御中主尊
クニノトコタチノミコト 国之常立尊
クニノサツチノミコト 国狭槌尊
トヨクムノミコト 豊斟渟尊
ウヒヂニノミコト 泥土煮尊
スヒヂニノミコト 沙土煮尊
オオトノヂノミコト 大戸道尊
オオトノベノミコト 大戸辺尊
オモダルノミコト 面足尊
カシコネノミコト 惶根尊
イザナギノミコト 伊弉諾尊
イザナミノミコト 伊弉冉尊
オオヒルメムチノミコト 大日霊貴尊
オシホミミノミコト 忍穂耳尊
ニニギノミコト 瓊瓊杵尊
ヒコホホデミノミコト 彦火火出見尊
ウガヤフキアエズノミコト 鵜葺草葺不合尊
アメノコヤネノミコト 天児屋根尊
サルタヒコノミコト 猿田彦尊
スサノオノミコト 素戔嗚尊
オオタマノミコト 大玉尊
カナヤマヒコノミコト 金山彦尊
ヤマトタケルノミコト 日本武尊
□汎論
 高賀神社(こうかじんじゃ)は、岐阜県関市(旧洞戸村)に祀られる。別名、高賀山大本神宮の別名があり、高賀山(標高一二二四メートル)の山麓にある。高賀山を神体山・神南備山とする里宮と知れる。高賀山を囲む次の高賀六社があり、瓢ケ岳、今渕ケ岳、片知山などの麓に里宮として祀られる。
 岐阜県関市洞戸高賀 高賀神社
 岐阜県郡上市八幡町 那比新宮神社
 岐阜県郡上市八幡町 本宮神社
 岐阜県郡上市美並町 星宮神社
 岐阜県美濃市 瀧神社
 岐阜県美濃市 金峰神社

 創祀は社記によれば、養老元年、あるいは養老年間とされる。筆者はさらに古い時期を想定している。多くの祭神が祀られるが、アメノミナカヌシノミコト(天之御中主尊)、クニノトコタチノミコト(国之常立尊)、クニノサツチノミコト(国狭槌尊)、トヨクムノミコト(豊斟渟尊)、ウヒヂニノミコト(泥土煮尊)、スヒヂニノミコト(沙土煮尊)、オオトノヂノミコト(大戸道尊)、オオトノベノミコト(大戸辺尊)、オモダルノミコト(面足尊)、カシコネノミコト(惶根尊)などの諸神は、古事記、日本書紀のはじめに見えて、そのあとはまったく記載のない神々であるのは注目される。

◆24775 美濃のキマイラ
岐阜県関市(旧洞戸村)
□汎論
 キマイラは、キメラともいわれ、もともとギリシャ神話にあらわれる伝説の生きもの、エトルリアの金貨のデザインにもつかわれているといわれる。異説もあるが一般には、ライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尻尾を持っていると知られる。わが国の廷長期(九二〇頃)、美濃の高賀山の麓に祀られる高賀神社には、頭はサル、身体はトラ、尻尾はヘビの形をもつ三様複合の怪獣が棲みつき、藤原高光公が軍勢を率いてこれを退治したという話がある。ギリシャ神話にでてくる伝説上の生き物と高賀山に出没したといわれる怪獣はきわめてキマイラと酷似する。はたして偶然なのだろうか。それとも古代の渡来文化だろうか。

●21462 板取村 

●21463 武芸川町
◆00860 武芸川祭
岐阜県武芸川町  
 
◆03599 武芸川祭の曳山歌舞伎
岐阜県武芸川町  

●21464 武儀町 

●21465 上之保村 

●21481 郡上市(旧八幡町)
◆24711 那比新宮神社
□社名 高賀神社(こうかじんじゃ)
□所在地 岐阜県郡上市八幡町那比新宮 
那比新宮神社(なびしんぐうじんじゃ)
□祭神
ナビノオオカミ 那比大神(虚空蔵菩薩)
□汎論
那比新宮神社(なびしんぐうじんじゃ)の創祀は不明。岐阜県郡上市(旧郡上郡八幡町)西部にあり、県道三一五号線の終点にある。新宮神社ともいい、関市の高賀山を囲む高賀六社の一社に数えられ、高賀山の東にある。祭神は虚空蔵菩薩がたてられるが、高賀神社とおなじアメノミナカヌシノミコト(天御中主命)であろう。長く仏教と褶合してきた歴史があり、国指定の重要文化財に指定される尊像(仏像)も多い。境内の社叢(しゃそう)は岐阜県指定天然記念物に指定される。

◆00101 郡上八幡祭
岐阜県郡上市八幡  

◆00262 南町
岐阜県郡上市八幡南町  

◆00327 小野
岐阜県郡上市小野  

◆00382 初音
岐阜県郡上市八幡町初音  

◆00397 中野
岐阜県郡上市中野  

◆00400 中瀬
岐阜県郡上市中瀬町  

◆00629 大桐
岐阜県郡上市大桐  

◆01787 是本
岐阜県郡上市是本  

◆01847 郡上踊囃子屋臺
岐阜県郡上市  

◆20672 小那比太神楽
岐阜県郡上市小那比   

●21482 大和町 

●21483 郡上市(旧白鳥町)
◆21799 長滝の延年
岐阜県郡上市(旧、白鳥町)   

◆00801 白鳥祭
岐阜県郡上市(旧、白鳥町)   
   
●21484 郡上市(旧高鷲村) 

●21485 郡上市(旧美並村) 
◆24713 星宮神社
□社名
□所在地 星宮神社
岐阜県郡上市(旧美並村)美並町高砂
□祭神
虚空蔵菩薩(天御中主命)
□汎論
 星宮神社は、高賀六社の一社である。瓢ヶ嶽の麓にあり、粥川寺が別当であった。創祀時には瓢ヶ嶽を祭神とし、麓に建てられた里宮だったと推定される。のちに仏教と褶合し、明治期の廃仏毀釈の令が出されるまで寺院として長く信仰されてきた。「星宮神社」の社号は「妙見」を連想させる。藤原高光が妖鬼退治など比喩的な伝説が残されていて、傍らを流れる粥川は天然のうなぎの自生地として岐阜県の天然記念物の指定を受ける。
茨城県龍ケ崎市の星宮神社。栃木県下都賀郡野木町潤島の星宮神社。栃木県下都賀郡野木町丸林の星宮神社にもうなぎを食べない伝承がある。星宮神社とうなぎには相関関係がありそうである。
 江戸時代美濃の竹鼻(現羽島市)に生まれた傑僧円空は、荒子観音(現名古屋市中川区)で、天台密教の金剛界、胎蔵界の両界をまなび独特の仏像像顕を行った。荒子には木っ端佛といわれる壱千体以上の仏を残し、鉈一丁で仏像を刻んだ。岐阜県飛騨地方には高山市(旧丹生川村)にある千光寺に滞在し舜乗上人と交わりまた飛騨各地に仏像、神像を残したが、高山市の中心を南北に流れる宮川左岸にはみられない。こちらも明治期の廃仏毀釈時に代官所前に積み上げて火がつけられ多くを失った。昭和三十二年ころ、高山市で飛騨郷土学会を創設し、飛騨春秋を刊行されていた桑谷正道氏の知遇を得たが、当時円空の足跡はまだ明らかでなかった。当時は三重県の鳥羽、岐阜県の伊吹山太平寺が西限であったが、おおまかな彫塑には、飛鳥佛の様式があることから、円空は畿内をめぐっているという仮説を提唱したことがある。これは、のちに近畿地方各地にも円空佛が見出されて証明されたのはいまも懐かしい。
 円空入滅は関の弥勒寺とされているが、壮年期に高賀六社をめぐり、とくに郡上市(旧美並村)の星宮神社には優れた遺作が残されている。

●21486 郡上市(旧明宝村)
◆00065 明宝畑佐の傘鉾
岐阜県郡上市(旧、明宝村畑佐)   
□汎論
 岐阜県郡上市(旧明宝村)畑佐には古い傘鉾がある。

◆00705 西気良の傘鉾
岐阜県郡上市(旧、明宝村西気良)  

●21487 郡上市(旧和良村)
◆00056 戸隠神社例祭
岐阜県 郡上市(旧和良村)

◆01782 白山神社祭
岐阜県郡上市(旧和良村宮代)

●21501 坂祝町
◆00106 岩谷観音祭
岐阜 坂祝町勝山

●21502 富加町
◆01800 富加の田の神祭
岐阜県富加町   

●21503 川辺町
◆00145 太部古天神社祭
岐阜県川辺町中川辺

◆01783 諏訪神社祭
岐阜県川辺町中川辺  

◆02244 阿夫志奈良神社祭
岐阜川辺町上川辺

●21504 七宗町
◆00117 神淵神社祭
岐阜県七宗町葉津

●21505 八百津町
◆00022 八百津祭
岐阜県八百津町

◆00067 久田見祭
岐阜県八百津町

●21506 白川町
◆01859 佐久良太神社祭礼
□社名 佐久良太神社
□所在地 岐阜県白川町黒川
□祭は四月
造花で飾る趣向をこらした山車をつくり町内を曳く。

◆02245 長田神社祭
□社名 長田神社
□所在地 岐阜県白川町切井
□祭は四月中旬
山車一臺を曳く。 

●21507 東白川村
◆24396 東白川の神楽獅子
□社名 子護神社
□所在地 東白川村
□祭神 コノハナサクヤヒメノミコト 木花咲耶姫命 
□祭は四月
□汎論
 享保十一年(一七二六)子護社子安大明神の祭礼に、苗木藩主の要請で津島から真野門之太夫を招いて神楽を奉納したのがはじまり。越原大明神(おつぱらだいみょうじん)地区の子護(こまもり)神社に伝わる神楽獅子は、最も古い伝統を誇るものとして現在に続いている。昭和51年東白川村指定指定無形民俗文化財に指定された。
道行き 
宮入り おかざきばやし 
下   さかり波 
おかざきばやし(再) 
前夜祭  かやの舞 唄入り 
剣の舞 唄入り 
本祭   かやの舞(再) 
幣   へいの舞 
編成  獅子頭 二(雌獅子一、雄獅子一)、横笛六、 大太鼓一、小太鼓一
連中 一二人の構成。 

●21521 御嵩町
◆01850 美濃願興寺大祭の山車
□社名 美濃願興寺
□所在地 岐阜県御嵩町
□汎論
 御嵩町はかって中山道の美濃十六宿のひとつ、宿場町として栄えた。願興寺は、その御嵩にあって可児大寺といい、御嵩の蟹薬師の通称がある。
嵯峨天皇の弘仁六年(八一五)、比叡山開祖伝教大師最澄がこの地に薬師如来を本尊として天台宗大寺山願興寺を開基した。
一条天皇の長徳二年(九九六)に尼ケ池から蟹にのってあらわれたという薬師仏が胎内に納められ、蟹薬師といわれるようになった。四天王、脇侍の日光・月光菩薩、十二神将がそろっている。長保元年(九九九)の創始といわれる毎年四月上旬の大祭には、天文九年(一五四〇)再興以来つづく古式の大山と山車(車楽)が出る。素朴なつくりだが山車の起源を知る上で貴重である。
町内には和泉式部の墓がある。

●21523 可児市(旧兼山町)
◆01802 貴船神社祭(兼山秋祭)
□社名 貴船神社
□所在地 岐阜県兼山町
□祭は十月下旬
□汎論
常盤町では山車からくりが行われる。 
□問い合わせ
可児市観光協会
電話 0574-62-1111 

●21541 笠原町 

●21561 坂下町
◆01803 坂下の花馬祭
岐阜県坂下町

●21562 川上村 

●21563 加子母村
◆01278 水無神社祭
岐阜県加子母村

●21564 付知町
◆00037 大山神社祭
岐阜県付知町大山

◆02247 倉屋神社祭
岐阜県付知町下倉屋

◆02248 若宮神社祭
岐阜県付知町若宮

◆02249 子安神社祭
岐阜県付知町白沢

●21565 福岡町
◆01804 白山神社祭
岐阜県福岡町      

◆01805 榊山神社祭
岐阜県福岡町   

◆01806 常磐神社祭
岐阜県福岡町   

◆01807 南宮神社の芸能花馬曳き
岐阜県福岡町   

◆03769 白山神社例祭
岐阜県福岡町下野   

●21566 蛭川村
◆01340 花馬祭
岐阜県蛭川村   

◆31808 おくわ様
岐阜県蛭川村   

●21567 岩村町
◆01809 岩村夏祭
岐阜県岩村町

●21568 山岡町 

●21569 明智町
◆00386 八王子神社大祭
岐阜県明智町   

●21570 串原村 

●21571 上矢作町
◆00129 熊野神社例祭
岐阜県恵那市(旧上矢作町)下

◆02250 漆原神社祭
岐阜県恵那市(旧上矢作町)

◆02251 八幡神社祭
岐阜県恵那市(旧上矢作町)

◆02252 津島神社祭
岐阜県恵那市(旧上矢作町)

●21581 萩原町
岐阜県萩原町   

●21582 小坂町 

●21583 下呂市(旧下呂町)
◆21811 下呂の田の神祭
岐阜県下呂市(旧下呂町)     

◆21812 鳳凰座歌舞伎
岐阜県下呂市(旧下呂町)      

◆21813 白雲座歌舞伎
岐阜県下呂市(旧下呂町)      

◆21814 竹原文楽
岐阜県下呂市(旧下呂町)      

◆21815 門和佐の舞台
岐阜県下呂市(旧下呂町)      

●21584 下呂町(旧金山町)
◆00039 下原八幡神社祭
□社名 下原八幡神社
□所在地 下呂市金山町(旧金山町)。
□祭は四月上旬。
山車は飾り付けのみ行われる。

□汎論
 天保七年、高山下二之町で山車・鳩峯車(屋臺)を新造した。金山の下原ではこの旧臺を譲りうけた。いまは曳かず飾り付けのみ行なわれる。
下原八幡神社の境内北側にある屋臺蔵内で飾り付けた山車(屋臺)が披露される。屋根は唐破風である。高山の屋臺が仙人臺が唯一唐破風屋根を継承しているが、下原八幡宮の山車は全体に高山の古い形態をよく残している。
彫刻はなく、金具類は平打ちの金属に線刻を施した素朴なもの。大幕は紫の縮緬地を白抜きに染めたもの。
車輪は小ぶりの板車を外側にとりつけ、前輪は自在に動くよう舵取り装置になっている。前輪・後輪とものちの改造の手が加わる。
山車上で演じられたからくり大津絵は、飛騨市(旧古川町)に譲られ、今も唐子が梯子をかけて、福禄寿の頭にのぼり大きな頭をぼやきながら? 剃る。大津絵でよく知られる「外法の梯子剃り」が二十八条の綱により操られる。謡曲の「鶴亀」にあわせて三味線にあわせた所作があり、見事に剃り終わると福禄寿がよろこび、左手にもつ亀の甲が割れて中から鶴が羽ばたき、口から赤い小幡が垂れさがると、金銀色紙の紙吹雪が美しく舞う。複雑巧妙なからくりである。
下原八幡神社は難波根子武振熊(なにわねこたけふりのくま)が朝廷の命で、飛騨の両面宿儺お討ったとき、この地で八幡に戦勝祈願をした地とされ、のちに勧請されて祀られることになったと言う伝承がある。
金山は、金森藩(のち天領)の番所が置かれた地で、飛騨街道の往来を取締まった。町内には飛騨川(益田川)の上流から流した御用材を綱を張って止めて改める綱場があった。下呂市、旧金山町と旧下呂町のあいだは中山七里とよばれ山間を流れる清流と緑の景色は古くから屈指の景勝地として知られる。
名和博士により命名されたギフチョウはこの地で採集されたものがタイプ・ロカリティになっているという。
地で八幡に戦勝祈願をした地とされ、のちに勧請されて祀られることになったと言う伝承がある。
金山は、金森藩(のち天領)の番所が置かれた地で、飛騨街道の往来を取締まった。町内には飛騨川(益田川)の上流から流した御用材を綱を張って止めて改める綱場があった。下呂市、旧金山町と旧下呂町のあいだは中山七里とよばれ山間を流れる清流と緑の景色は古くから屈指の景勝地として知られる。
名和博士により命名されたギフチョウはこの地で採集されたものがタイプ・ロカリティになっているという。

●21585 馬瀬村 

●21601 高山市(旧丹生川村)
◆00381 旗鉾神社祭
岐阜県高山市(旧丹生川村) 

●21602 高山市(旧清見村)
◆00385 八幡神社祭
岐阜県高山市(旧清見村)上小鳥      
 
◆01851 了徳寺の鐘楼
岐阜県高山市(旧清見村)牧ヶ洞      

◆02257 白山神社祭
岐阜県高山市(旧清見村)三日町      

●21603 高山市(旧荘川村)
◆02253 荘川神社祭
岐阜県高山市(旧荘川村)

●21604 白川村
◆02254 八幡神社祭
岐阜県白川村荻町(おぎまち)

●21605 高山市(宮村)
◆21851 水無神社の神代踊

●21606 高山市(旧久々野町) 

●21607 高山市(旧朝日村)

●21608 高山市(旧高根村)

●21621 飛騨市(旧、古川町)
◆00026 飛騨古川祭
・金亀臺
安永五年金亀臺組に屋臺建造の「定」書きあり
古川に金亀臺を作る
天保十二年
古川二之町二丁、三丁の屋臺
谷口與三郎
谷口與鹿
飛騨の国大工惣領宗恭
天保十二年辛年晩春
谷口権守
とあり、京都の豊岡殿より許された権守の名がある。
・神楽臺
向町組
古くは朱雀臺があった
天保十一年(一八四〇)
二之町中組より古い屋臺を譲り受けたがこの屋臺はしばらくして廃臺明治五年(一八七二)再興され、黄鶴臺と改名された。
明治十六年高山の一本杉白山神社の神楽を譲り受け、神楽臺と改名した。
しかしこれも数年で破損し、明治二十二年修理した。工匠は村山英縄(むらやまえいじょう)、西野彦次郎(高山)の両名による。彫刻は蜂谷理八が前面二体の獅子を彫る
大正十四年大修理を行たが、このときの工匠は西野松之助、吉野久助。
このとき両側に獅子の彫刻が付加された。
昭和五十六年高山の元田五山により彫刻が補われた
上段の中央に枠をたて、直径一メートルあまりの金色の大太鼓をつり、枠の上には二羽の大鳳凰が向き合う。後ろには二本の鉾に神旗がつけられる。
上段には烏帽子、直垂の伶人が五人搭乗して奏楽する
・晴曜臺
かって三之町全体が共有する、文政はじめの頃、扇子臺とよぶ屋臺があったといわれる。町内が上組、下組にわかれたとき、屋臺の所有をくじで決めたがこのくじ引きで上組があたって上組の所有となり、これ以後晴曜臺の臺名に変わった
明治二十六年例祭に曳行中転倒して大破するという事故が起こった。
すぐに再興されたが、昭和八年から十六年二かけて大改修をした。工匠は古川の上谷彦次郎、彫刻は井波町の大島五雲が上段の鷹。岡部圭秀が下段の波と千鳥、龍、鯉、亀
名古屋の岡田芳貞が中段の牡丹に唐草。
塗師は渡辺正八、神出貞三であった。
見送りは今尾景祥の「海浜老松図」と、旧公爵で、もと内閣総理大臣の近衛文麻呂が
昭和十五年が、紀元二百六百年に当たることを記念して書いた「八紘一宇」である
・青龍臺
殿町組
天保六年、高山の山王祭の黄鶴臺を譲り受け、玄翁臺と名を改め「殺生石」のからくりを計画したが、これは実行にはいたらず、安政元年大改修をして、青龍臺とあらためた。
組立式構造であったため、破損がひどく、また老朽化したこともあって、昭和十八年大改修した。棟梁は中村房吉、大工は住井兵太郎、直井孫二。鉄金具は山腰泰次郎。
彫刻は富山県井波町の岡部圭秀。
一部は、高山の本母芝之助(ほのぶしばのすけ)
塗装は石川県輪島の「稲忠」こと、稲垣忠右衛門。
見送りは京都の堂本印象の墨絵で画題は「天拝の龍の図」、
金具は昭和三十九年より高山の不破健人により補修された。
上段の機関樋のうえで福禄寿と唐子の人形からくりが演じられる。
大津絵の「外法の梯子剃り」は二十八条の綱により操られる。謡曲の「鶴亀」ではじまり、童子が福禄寿のうしろに梯子をかけて肩の上に上り掛け声と三味線の囃子にのって踊るその後、福禄寿の左手にある亀の甲が割れて中から鶴が羽ばたき、口から赤い短冊形の
旗が飛び出し、金銀色紙の紙吹雪が舞う。複雑巧妙なからくりである
高山の下二之町、秋の八幡祭で演じられていたものを改修を機に譲り受けた。
もともとからくり上演に熱意があったが、経年「殺生石」にはじまるからくり上演の念願が叶った。
・白虎臺
古い形式の屋臺でせり出しの舞臺がある。
・鳳凰臺
はじめの屋臺は文化年間にはすでにあったといわれる。古く危険になったため、明治二十四年に廃臺した。大正六年新たに建造に着手し、五年かけて同一一年に完成した。
棟梁は高山の初代、村山群鳳。

彫刻は下段の龍の内前面が群鳳、側面が富山県井波町の大島五雲。ほかに南部白雲作の彫刻がある。
塗師は和田卯之助。金具は町田長之助、同吉太郎。
見送りは長谷川玉純の「鳳凰飛舞の図」
この見送りは枠の上部を二匹の飛龍がくわえている
屋臺先の上で組内の児童が歌舞伎を演じた時代がある
大正期を代表する屋臺
この屋臺建造に当たっては、信州諏訪で飛騨から糸ひき工女をうけいれていた製糸会社よりも寄進があったという。
・龍笛臺
二之町下組
最初の屋臺は安政年間組内の小谷屋又兵衛が世話人になって創建されたと伝えられる。
現在の屋臺は明治十七年着手し、十九年に完成した。
大工棟梁は、高山の谷口宗之、宗俊。ともに延恭の子で、谷口與鹿の甥にあたる。
彫刻は谷口宗俊と、信州諏訪の清水寅吉が、下段の龍、鳳凰、麒麟、玄武を彫る
飾り金具は京都の野沢卯助、塗師は古川の長瀬清兵衛、渡辺正八。
見送りの「雲龍図」と天井絵は、高山出身の垣内雲隣。
中段の大幔幕は唐土古渡りの猩々緋と伝えられる。
古川の屋臺中もっとも大型
屋臺先芝居を演じていた時代もある
両側にからまる昇龍、降龍が目につく
・麒麟臺
弘化三年ころ、高山上二の町上組から石橋臺を譲り受け、改名して麒麟臺として曳行していたが、元治二年の大火で焼失した。その後は休臺していたが明治十四年高山の龍神臺が改修されることになったので、これを譲り受けた。しかしこれも大正十三年には廃臺。
その後九年をかけ、昭和八年に新築したのが現在の屋臺。棟梁は二の町の上谷彦次郎。大工は中村房吉。彫刻は井波の大島五雲。中段の牡丹は名古屋の岡田芳貞。金具は高山の井上芳之助。塗師は長瀬清兵衛、渡辺正八。屋根上の鳳凰は以前の屋臺のものを使う。
見送りは古川出身の画家玉舎春輝。
「日本武尊の草薙図」。
もう一幅替え見送りがありこちらは前田青邨の「風神雷神図」
からくりがあり、唐子人形が謡曲の石橋にあわせて花籠をささげ獅子がしらをかぶって舞うと五色の紙片が美しく飛び散る。
□汎論
古川祭りに山車が作られたのは口碑によると「四~の山車が造られた」という。
飛騨郡代長谷川忠宗が編ませた「飛州誌」に白虎臺の画がある。
四~の山車(屋臺)とは、
朱雀臺
白虎臺
玄武臺
青龍臺
であるが、現在は、
白虎臺
青龍臺
玄武臺は金亀臺
朱雀臺は鳳凰臺
になっている。高山と古川の屋臺は同一の起源と考えられることが多く、経済文化相互依存と人的交流があるが、仔細にみていくとかなりの相違がある。
白虎臺はすでに高山の屋臺のいずれもが失った古い形を残しており、長濱から伝わった歌舞伎を演じる藝山だったと考えられる。
祭に供奉する山車と、庶民が楽しむ藝山があったと見るべきだろう。
高山の春祭に曳かれる「青龍臺」は、娘道成寺を演じたというが、いまはその藝は行われない。このほか、「起こし太鼓」とよぶ巨大な舁山がある。一種の触れ太鼓で各地に見られるが、その太鼓臺は、西日本にみられる型である。つぎに仔細に見てみよう。

◆00803 屋台会館
飛騨市(旧古川町) 

◆01416 起こし太鼓
飛騨市(旧古川町) 

●21622 高山市(旧国府町)

●21623 飛騨市(旧河合村)

●21624 飛騨市(旧宮川村)

●21625 飛騨市(旧神岡町)
◆01819 森茂祭

岐阜県飛騨市(旧、神岡町)   

◆01820 初金比羅祭
□社名 金比羅宮
□所在地 岐阜県飛騨市(旧、神岡町)
□祭は二月中旬。
□汎論
飛騨地方で、金毘羅宮を祀るのは珍しい。鉱山の町として著名な当地はかって船津といい、渡来系の船津氏が居住していた地でもある。
初金比羅祭は、鉱山採掘の全盛期に花柳界の芸者さんたちが提燈行列をはじめたのがはじまりだという。
吉田には小萱にはおそらく飛騨地方でも最古の建築と考えられる薬師堂があり、常蓮寺は槍ヶ岳開山の祖とされる播龍上人ゆかりの寺院である。
また古くから出雲系氏族が入っていて、町内を流れる高原川沿いに高山市(旧上宝村)にかけて古い民俗行事がのこる。町内の森茂は中川与一の『天の夕顔』ゆかりの地で知られる。

◆21821 太子躍
岐阜県飛騨市(旧、神岡町)   

●21626 上宝村
◆21417 一重ヶ根の鶏藝
岐阜県高山市(旧上宝村)  


行政コード番号は従前のままです。 
20130106 更新

 ◆日本山車論
目次
 ◆左甚五郎傳
左甚五郎傳
 ◆斐太ノ工
斐太ノ工
 ◆谷口與鹿
谷口與鹿
 ◆論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆阿波國
◆安房國
◆安藝國
◆伊賀國
◆隠岐國
◆越後國
 ◆古代祭祀と神南備山
古代祭祀と神南備山
 ◆玉依姫  様