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日本の山車 長野県総論 更新 |
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日本の山車 長野県総論 更新 長野県は本州中部地方の中央に位置し、新潟県、富山県、岐阜県、愛知県、静岡県、山梨県、埼玉県、群馬県の八県と接する。一方海には接しない山国でもある。その面積は一三、五六二・二三キロ平方メートルと広大で、富山県の四、二四七・六二キロ平方メ−トルの約三倍強もある。長野県成立以前には、明治四年(一八七一)、府県統合により、伊那県、松本県、高島県、高遠県、飯田県、名古屋県の一部、高山県(飛騨)が合併し、筑摩県となり、さらに翌年の明治五年(一八七二)には、筑摩県が分割されて、高山県は岐阜県に編入された。 長野県は、【北信】、【中信】、【東信】、【北信】と四大ブロックに分けて論じられることが多いが長い歴史の過程で形成された文化にも差異がある。このことは昭和二三年に、長野県を二つに分ける分県論が起き、県議会にかけられる議案となった。ところが議決寸前で県民の「信濃の国」大合唱により否決されたという話がよく知られるが事実ではないらしい。 長野県が信濃國として長い歴史のなかでその地歩を維持できたのには、諏訪氏の存在が大きい。いわゆる古代の【國譲り】で、出雲氏は、大和朝廷より、日本の統治権の譲渡を迫られ、オオナムチノミコト(大己貴命)は不承ぶしょう承知したものの、園子、タケミナカタノミコト(建御名方命)はこれを聞き入れず反対したため、信濃一国に封じられることとなった。この結界を示すために四本の御柱をたてるようになったとする説があるが、認めがたい。 御柱を立てる神社は、長野県を一歩出るとほとんど見ることはなく、山梨県、群馬県、鳥取県の智頭町、新潟県の新発田市などの数例が見られるに過ぎない。 長野県の山車を論じるにはまずこの御柱を最初にあげなければならない。 飯田市、南木曾には、山車に母衣をかけ、山車全体を一匹の獅子に見立てた山車が曳かれる。このような例は鹿児島県南部、茨城県の総社およびその周辺に知られる。著しい隔離分布をする。
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◆玉依姫 様 |
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